龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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読むべし(その1)河村厚氏の 『存在・感情・政治-スピノザへの政治心理学的接近-』

2022年02月21日 07時00分00秒 | 大震災の中で
読むべし!
河村厚氏の 『存在・感情・政治-スピノザへの政治心理学的接近-』

もちろん、スピノザに関心がなければほぼ読者になることはないと思う。
だが、私にとっては関心のど真ん中でした。
木島先生、紹介していただいて感謝です!

わたしにとってのポイントは三点。

①コナトゥスについてのわかりやすい説明
②スピノザにおける垂直因果と水平因果の説明
③レヴィナスのスピノザ批判への応答

この3つをこんなに懇切丁寧に説明してくれる本とであえるなんて!
ありがたい。学問をされている方への尊敬を改めて感謝です。

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以下はまとまりのないメモです。

後でまとめますが、ぐだぐだととりあえずのメモの前半です

何がいいって、まずスピノザが繰り返し論じている「コナトゥス」という基本的な語彙について、素人にも分かるように丁寧に論じてくれている点がありがたい。

入門書の多くは、神のみが自己原因であり唯一の実体である、なんて説明をしてくれるんだけれど、これが見事に分からない。

「禅問答」とでもいうなら、まだ「禅」というのが言語を超越した悟りをめざすもの、みたいなざっくりした認識はあるから、訳の分からない話があっても、その訳の分からなさの前提は把握できる。

しかし、いきなり神が唯一の実体だとかいわれると、
「神しかいないんかーい」
となってしまう。
キリスト教やユダヤ教のような超越神じゃない神、って説明を受けても、じゃあどういう神?となる。

そしてスピノザは汎神論だとも合理論で無神論者だとも言われ、ますます意味が分からなくなる。

最初にスピノザを読んだのは『デカルトの哲学原理』だった。
合理論とか汎神論とか言われているスピノザが、デカルトの神の存在証明を説明している、というので手にとってみたのだが、まあ本当に分からない。
神の存在証明とか屁理屈にもなっていないとしか思えなかった。
今にして思えば、禅問答を字義通りたどれば屁理屈にもならないのとおなじようなもので、こういう原理論とかいうのは言わば論がそこから発射されるカタパルトのようなものだ、と考えた方がよいのかもしれない、と思い始めてから、イライラしなくなった。

つまり神が唯一の実体だっていうのは、この世界=神という話に近くて、実際スピノザは
「神すなわち自然」
ともいっている。

キリスト教やユダヤ教のような私たちの理解を超えた、超越している(外部にある)唯一絶対神ではなく、スピノザのいう神は内在神らしい。

全ては神の中にある、というか、我々は神の一つの「表現」だ、みたいな話になる。
というか、私たちの中にも神はいる?

いや、神様がいるとかいないとかそういうOSを走らせている限り、スピノザの話は全く入ってこないのだなあ、とスタートラインに立つまで数年はかかったような気がしている。

しかし、神といわず「自然」とか「環境」とか言い換えると、スピノザの考え方はちょっと分かりやすくなる。

スピノザは徹底的に「自然主義」の哲学だ。
全ては自然の摂理に従って合理的に動いているのであって、私たちは自然のもたらす必然を生きている、という。
合理的とはいっても、これがまたいわゆる近代の「科学的合理性」とは異なる因果関係のことなんだけれど、これもまたいわゆるふつうの原因と結果とは違うらしい(よくわかんないけど)。

というわけで、現代のOS(ものの見方や考え方の前提)ではなく考えていかねば理解できない。

そんなこんなで、スピノザの言う「コナトゥス」(自己の存在を維持しようとする努力・傾向性)というのもずーっと今一つ腑に落ちないままだった。

それが、この河村厚先生の本で、疑問氷解。

スピノザの『エチカ』や『神学政治論』を踏まえながら、諸説の整理をしてくれつつ全体像を丁寧に提示してくれている。

もうこれは読んでもらった方が早いのだけれど、一点だけ書いておきたいのは、レヴィナスのスピノザ批判を吟味して、見かけ上対極的な立場にあるように見えるスピノザとレヴィナスが、実はある部分ではかなり近接した場所に立っているのでないか、というところが本当に私にとっては胸キュンのストライクでした。

なにせ直前に村上靖彦先生(レヴィナスの研究者であり、当事者研究に関心を持って活動されています)と餃子を食べつつ、私が感動した『自閉症の現象学』という村上先生自身の本を自己批判しているお話を直接伺った後だったので、厳しいスピノザ批判をしていたレヴィナスが、どんなにスタンスで物事を考えていたのか、がちょっと前よりも分かってきた実感をもてたのです。

レヴィナスは、スピノザには「疚しさ」がないという。コナトゥスを哲学の基礎に据えているスピノザからは、絶対的な自己肯定しかでてこない。
レヴィナスは
「存在しているだけで他人の場所を不当に占拠してしまっているのでなないか」
という懸念について論じ、その立場から言うとスピノザは徹底的にエゴイスティックで倫理なんぞありゃしない、というのですね。

実は私もスピノザは実はそうではないとは分かっていつつもなにかうっすらと「マッチョ」なところがあって、論の展開が今一つついていけないところを感じていて、そうか、レヴィナスが指摘してる点はなんかあるよなあ、と合点がいったところがあった。

村上先生も、『自閉症の現象学』はどこかしら自閉症の方を上から目線で分析してしまっている側面があるのではないか、そのことによって対象とする方々を傷つけているのではないか、といっておられた。
なるほど、これは間違いなくスピノザでななくレヴィナスだ!
と思った。

他方、スピノザ研究者のである國分功一郎先生も、中動態という切り口から当事者研究に深い関心をもって研究をされている(『責任の生成』)

レヴィナスは徹底的に受動的受苦的な場として自己を捉え、倫理を存在の彼方に求めるのに対し、スピノザはコナトゥス(自己を維持し活動しようとする努力)を根本に据えてあくまでも肯定的にとらえようとする。個体はコナトゥスの表現(神の力の発現みたいな)だから何一つかけていないという。それは絶対的に良いことだというのだ。ただし、自分で何か恣意的に自由ワガママにいきられる、というのでなない。むしろその逆で、神の力の発現としてそーゆーふーにできているのだから、自由とはその神=自然の摂理にしたがうことだ、というのだ。


レヴィナスとスピノザ、一見まったく対極的だ。前者は存在の彼岸に倫理を見ようとし、後者は善悪の彼岸に倫理をみようとする。

でも、って話です。

今、何一つまとまらない形でメモしているので、改めて書きます。

河村厚のコナトゥス論、レヴィナス批判への応答、垂直因果と水平因果の概念の説明、この3つはほんとうに出会ってよかった!ということだけ、今日は書き付けておきます。