平成28年1月3日(日)晴れ【自由に生きるということ】
ついに新年が明けて、さらに三日もたってしまいました。まことに時の流れは速い、速い、迅い。私は毎年三が日はご祈祷をしますので、一日があっという間に終わります。
『理趣分経』というお経を読みますが、いろいろ印を結んだり、檀信徒の方々のご祈祷をしますので、一回に二,三時間はかかります。毎年、『理趣分経』の誦経に学ぶことが増えます。印の結び方も、昨年親切にお教えいただきましたので、お陰様で、身口意の清浄に勤める護身法が少しですが、身についてきたような気がしています。勿論、まだまだではあります。
三が日は終わりましたが、このご祈祷は続けたいと思っています。それはお寺の住職として、なんとしても住職として任されたこのお寺と檀家さんたちを守りたいと新年にあたり、さらに強く願ったからです。
今、私は住職としての責任を強く思っていますし、守らなければと心底思っているのです。そこで、つくづく守らねばならないものを持つと、「自由ではいられない」、ということです。
自由に自分の好きなように生きようと思ったら、守らねばならないものを持たない道を選択しなくてはならない、ということです。守らねばならないものを持った以上は、自由には生きられないということです。
このお寺の住職になる前は、身心とも、かなり自由に私は生きてきました。それは守らねばならないものを持っていなかったからだということを、あらためて思っています。
海外にも以前は度々行っていましたが、もはやそれもしようとは思いません。もし飛行機事故にあったり、テロに遭う可能性の高い海外に出ていくことは、住職としてはできないということです。
特に今は決して死ねないとさえ思っています。任されたこのお寺にとって、後をまかせることのできる信頼のおける跡取りができるまでは、決して死んではならないと新年にあたって、思いを新たにした次第です。
此の世を生きていくために、大事な大事なことは「信頼を培うこと」だと思います。権利の主張だけを陰でしているようでは、信頼を培うことはできません。どのような事態に遭遇しても、僧侶である以上は、仏道者として生きていくこと、爽やかに堂々と生きていくことだと思います。執着し、目が眩んでいては、仏法を守る人にはなれません。
仏法を守る精神は自由です。自由に溢れ、なにものも恐れない精神です。私はこの点において自由です。不屈の精神を持って、任されたお寺を守り抜いていくいくつもりです。
そうしてつくづく願うことは、もし来世に再び人間としての生を頂けるならば、仏教をもっと学びたいということです。もはや、この生で、十分に人生を楽しみましたから、もはや此の世的な楽しみは何も望みません。なにとぞ、次の生こそ、僧侶として、もっと深く学ぶことができますように。
これが新年にあたって、私がたてた誓願です。
皆さんも新年にあたって、なにか願いとか、抱負とかお考えになりましたか。神社やお寺にお参りなさって、手を合わせたとき何を祈りましたか。皆様にとりまして、どうぞより良いお年でありますように。
(いなくなってしまった帰ってきたラッキーが、子どもたちを守っていたパパ猫であった時の姿です。後ろの右側の立派なパパのお顔です。おそらくラッキーは天に帰ってしまったのかもしれません)