風月庵だより

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釈尊の覚りとは

2023-02-13 22:36:25 | Weblog

2月13日(月)曇り【中村元先生『ゴータマブッダ』を読んで】

昨日ようやく『ゴータマ・ブッダ』上(春秋社)を読み終わりました。この本はなかなか読み進められなくて、数か月机の上で、次に開く日はいつだろうかという感じでしたが、なんとか読み終わりました。

ブッダについて、中村先生は、何回もインドに通い、その具体的な経験も諸所にご紹介くださっています。仏教に関して大大学者の方のご著書ですが、そう簡単には、読み進めませんでした。

仏教を学ぶ者にとって、「さとり」とは何か、ということが一番知りたいところではないでしょうか。本の帯に、「ブッダは、どのような生涯をたどり、どのような思想を語ったのか。本巻では、その誕生から覚りに至るまでを描く。」とありましたので、一番気になるところでした。この本の最後は、ブッダの覚りについて書かれています。

「ゴータマ・ブッダのさとりの思想史的意義」という見出しの中から、少し抜き出しとりあげてみたい。私自身もう少し、きちんととらえなおしたいので。

「さとりの内容に関して経典自体の伝えているところが非常に相違している。いったいどれが本当なのであろうか。経典作者によって誤り伝えられるほどに、ゴータマの得たさとりは、不安定、曖昧模糊たるものであったのであろうか?

釈尊のさとりの内容、仏教の出発点が種々に異なって伝えられているという点に、われわれは重大な問題と特性を見出すのである。

第一に仏教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説きかたをした。(中略)

第二に、特定の教義がないということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異なって伝えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。(中略)先入観念をはなれて人間のすがたをありのままに見ようとした最初期の仏教の立場の歴史的意義は尊重さるべきものである。

第三に、人間の理法なるものは固定したものではなくて、具体的な生きた人間に即して展開するものであるということを認める。最初期の仏教がそのように表明しているのではないが、変化や発展を許したその立場がこのような解釈を可能ならしめるのである。実践哲学としてのこの立場は、思想的には無限の発展を可能ならしめる。後世になって仏教のうちに多種多様な思想の成立した理由を、われわれはここに見出すのである。」

以上少し長い引用になりましたが、さとりを開いたのちに、釈尊が到達したのは、「〈法〉が最高の権威であるということである。」梵天の言葉として「尊師となられる人々はただ〈法〉のみを尊敬し、うやまい、たよっておられることでしょう。(中略)正しくさとった人である尊師もまた、ただ〈法〉のみを尊敬し、うやまい、たよっておられませ。」

と、このように〈正しい法〉を敬うべし、諸仏の教えを憶念しつつ。

梵天の言葉とされているが、ことわり〈法〉を尊重するという思想が、ここに表明されていることことを知り得る。と結ばれています。

十二縁起が、ブッダの初めのさとりであるということは、後世の成立である、と今日の駒澤大学大学院仏教学研究会主催の公開講演会で、石井公成先生もおっしゃっていました。

今日はこの辺で。眠くなりました。ここまでお読みいただけたでしょうか。お休みなさいませ。