風月庵だより

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釈尊は只管打坐を勧めたのだろうか

2023-03-13 09:00:25 | Weblog

3月13日(月)曇り【釈尊は只管打坐を勧めたのだろうか】

おはようございます。今日も花粉がひどいですね。今日は風がかなり吹いていますので余計ひどいです。毎朝の境内散歩から2匹の猫が帰ってきましたので、急いで体中を拭きました。「キレキレですよ」と言うと、洗面所についてきます。いくつかの言葉は理解しています。

さて、今朝も痛い足をなだめながら、坐禅をしましたが、本当に釈尊は只管打坐を勧めたのだろうか、という疑問が、脳裏を横切ります。曹洞宗の開祖と後世の弟子たちが仰ぐ道元禅師の重要な教えは、「只管打坐」(坐禅に何の意義も条件ももとめず、無所得・無所悟の立場から端的に坐禅を実践すること。ー『禅学大辞典』*この解説に私は疑問を持っています、実は。)と「修証一等」(修行とさとり〈証〉が一であろこと)などと言われますが、本当に釈尊の教えはそうであったのだろうか、という疑問を私は持っていました。足が痛くて坐れないからだろう、って、まあ、そんなところですが。

釈尊は、それぞれにあわせた対機説法を行い、多くの出家者を導いています。「ただ坐れ」という文言はないようです。(すべての文献を漁っているわけではありませんので、断定はできません。)必ず説法をなさり、導いています。

道元禅師は、上堂なさり「参禅は身心脱落なり、祇管打坐の道理聴くを要す。」(『永平広録』)、また「仏法には修証これ一等なり」と『正法眼蔵』「弁道話」で説かれています。

さらに「仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず、発心、修行、菩提、涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり」を『正法眼蔵』「行持」巻で説かれています。

釈尊の教えに近いであろう『倶舎論』でも「見所断」で三学の実践(戒・定・慧)を通して煩悩を断ち切ることが説かれていて、さらに「修所断」として、煩悩を断ち切った後もさらに修所断の煩悩をなくすために修行をし続けることが説かれています。

と、いうことで、釈尊ご自身もよく坐禅なさいましたし、弟子たちに精進坐禅をすすめています。

と、いうことで、只管打坐をただ坐禅だけしていればよいと解釈してはダメなのです。道元禅師もそのようなことは説いていませんので、気を付けたいですね。道元禅師も弟子たちによく法を説き、坐禅を勧めました。

釈尊もたびたびに説法をなさり、坐禅をなさり、弟子たちにも精進坐禅を説かれました、ということで、痛い足をなだめつつ、坐禅もし、ボーっとしてんじゃないよ、と叱られないように、「自帰依法」しつつ、参りましょう。この身終わるまで。