8月2日(水)晴れ【幻-禅僧の遺偈】
中世の禅僧に関する本を読んでいたら、遺偈が目に飛び込んできた。そんな印象の遺偈である。遺偈の意味をご存じの方も、このブログをお読み下さっているとは思うが、その遺偈を紹介する前に少し遺偈の説明をさせて頂きたい。
遺偈とは禅僧が臨終にあたって、後に残す偈頌である。その禅僧の悟りの境界などを表した辞世のことばであるが、四句の絶句の形が多い。高僧に限らず、禅僧の葬儀には今はほとんど遺偈が張り出されている。
何時死が訪れるか分からないので、正月の二日には書いておくものだと、私は師匠から言われたが、まだ書けてはいない。遺偈を作れないままにこの修行の日々は空しく過ぎてしまうのだろうか。
さて私が今日は、鮮やかなカウンターパンチを見たような遺偈は次のような遺偈である。(見た、という表現は恐縮ながら、この真理自体は已に理解はしているのだが。もしこの境界が私にあったとしたら、私の場合はブログを書き続けることはできないだろう。私が本当にはこのカウンターパンチを食らっていないから、世俗の気が多く、出家しきっていないから、私の場合はブログを書いているのだとご了承下さい。)
幻而来幻 幻、幻より来り、
幻而去幻 幻、幻に去る。
幻無幻根 幻に幻根無く、
幻人幻幻 幻人、幻に幻たり。
これは太源宗真禅師(?~1371)の遺偈である。太源は總持寺を開かれた瑩山紹瑾禅師(1268~1325)の弟子である峨山紹碩禅師(1275~1365)の弟子である。太源禅師が活躍した時代は、北条氏が滅亡し、足利尊氏と対立した後醍醐天皇が吉野に入ってしまった南北朝の時代である。戦乱による世の移ろいの惨さや空しさを目の当たりにした時代である。
一切を幻と受けとめるに肯(ウケガ)い易い時代でもあるが、それは何時の時代でも同じことで、これは真理そのものである。「幻」を「空」と置き換えることもできよう。一切はどこまでも幻きり、空きり、それ以外ありえないのである。それだけなのである。
この「わたし」という幻もまた幻に去る、それだけのことである。幻身といえば分かりやすいかもしれない。
中国の宋の時代の禅僧、宏智正覚禅師(1091~1157)の遺偈は
夢幻空華 夢幻空華(ムゲンクウゲ)
六十七年 六十七年
白鳥没煙 白鳥は煙に没し
秋水天連 秋水天に連なる
夢幻空華(あるように見えたが、実は幻。空華は目の病で目に仮に映った、実際には存在しないもの)のこの身、六十七年(の生涯を終わる。)次に白鳥も煙も秋水(秋の頃の清澄な川の流れ)も一枚(一つ)になった世界の消息(ようす)を詠んでいる。幻のこの身もそこに一枚になりきっていく、と読み解くこともできよう。
私の師匠、余語翠巌禅師(1912~1996)の遺偈は
任運日月 任運日月(ニンウンジツゲツ)
随縁誑人 縁に随い人を誑(タブラ)かす
真如不昧 真如不昧(シンニョフマイ)
行脚永新 行脚(アンギャ)永(トコシナ)えに新たなり
師匠のこの遺偈が張り出されたとき、少し驚いた。悠々とした日頃の師匠が髣髴としてくるような師匠の詩偈があったので、それが遺偈かと思っていた。やはり高僧と云われる方は、遙かに遠くを行脚されていると思った。一切情緒的なはからいの入らない世界である。*真如不昧は真如(根源的実相)は昧(クラマ)さない。「昧(クラマ)すことができない」ではない。可能不可能を越えた絶対のありよう。
今、研究している器之為璠禅師(1404~1467)という禅僧の遺偈は残念ながら残されていない。
今日は亀田興毅というボクサーが世界チャンピオンになった。一ラウンドからダウンしたし、四ラウンドか五ラウンドで、もう一回ダウンしたのでどうなるかと思ったが、判定勝ちで勝利を勝ちとった。努力の賜物であろう。負けたファン・ランダエタ選手も勝っていた試合だと思う。甲乙付けがたい試合であった。
海で溺れて亡くなった、ボクサーのタコちゃんのことを突然思い出した。友達と言うほどではないが、よく出会った知り合いである。このブログをお読みの方で知っている人がいてくれたら嬉しいが。額の前でねじった髪型が懐かしい。さて彼ならばこの試合の判定をなんと言っただろうか。
こんな日に遺偈について書くのもどうかと思うが、彼の快挙については多くのブログで紹介されるであろうから、私が見たカウンターパンチかアッパーカットならぬ遺偈をご紹介した。
短い語の中に真理を表す偈が作れるような境涯にまでなれるか、やはり努力にかかっている思う。若いボクサーの血の滲むようなトレーニングに学ぶことは多い。しかしこの私、方向違いの努力をしてはいまいか。反省し、精進し、反省し、精進して、やがて………幻は幻………に去るのみ。
中世の禅僧に関する本を読んでいたら、遺偈が目に飛び込んできた。そんな印象の遺偈である。遺偈の意味をご存じの方も、このブログをお読み下さっているとは思うが、その遺偈を紹介する前に少し遺偈の説明をさせて頂きたい。
遺偈とは禅僧が臨終にあたって、後に残す偈頌である。その禅僧の悟りの境界などを表した辞世のことばであるが、四句の絶句の形が多い。高僧に限らず、禅僧の葬儀には今はほとんど遺偈が張り出されている。
何時死が訪れるか分からないので、正月の二日には書いておくものだと、私は師匠から言われたが、まだ書けてはいない。遺偈を作れないままにこの修行の日々は空しく過ぎてしまうのだろうか。
さて私が今日は、鮮やかなカウンターパンチを見たような遺偈は次のような遺偈である。(見た、という表現は恐縮ながら、この真理自体は已に理解はしているのだが。もしこの境界が私にあったとしたら、私の場合はブログを書き続けることはできないだろう。私が本当にはこのカウンターパンチを食らっていないから、世俗の気が多く、出家しきっていないから、私の場合はブログを書いているのだとご了承下さい。)
幻而来幻 幻、幻より来り、
幻而去幻 幻、幻に去る。
幻無幻根 幻に幻根無く、
幻人幻幻 幻人、幻に幻たり。
これは太源宗真禅師(?~1371)の遺偈である。太源は總持寺を開かれた瑩山紹瑾禅師(1268~1325)の弟子である峨山紹碩禅師(1275~1365)の弟子である。太源禅師が活躍した時代は、北条氏が滅亡し、足利尊氏と対立した後醍醐天皇が吉野に入ってしまった南北朝の時代である。戦乱による世の移ろいの惨さや空しさを目の当たりにした時代である。
一切を幻と受けとめるに肯(ウケガ)い易い時代でもあるが、それは何時の時代でも同じことで、これは真理そのものである。「幻」を「空」と置き換えることもできよう。一切はどこまでも幻きり、空きり、それ以外ありえないのである。それだけなのである。
この「わたし」という幻もまた幻に去る、それだけのことである。幻身といえば分かりやすいかもしれない。
中国の宋の時代の禅僧、宏智正覚禅師(1091~1157)の遺偈は
夢幻空華 夢幻空華(ムゲンクウゲ)
六十七年 六十七年
白鳥没煙 白鳥は煙に没し
秋水天連 秋水天に連なる
夢幻空華(あるように見えたが、実は幻。空華は目の病で目に仮に映った、実際には存在しないもの)のこの身、六十七年(の生涯を終わる。)次に白鳥も煙も秋水(秋の頃の清澄な川の流れ)も一枚(一つ)になった世界の消息(ようす)を詠んでいる。幻のこの身もそこに一枚になりきっていく、と読み解くこともできよう。
私の師匠、余語翠巌禅師(1912~1996)の遺偈は
任運日月 任運日月(ニンウンジツゲツ)
随縁誑人 縁に随い人を誑(タブラ)かす
真如不昧 真如不昧(シンニョフマイ)
行脚永新 行脚(アンギャ)永(トコシナ)えに新たなり
師匠のこの遺偈が張り出されたとき、少し驚いた。悠々とした日頃の師匠が髣髴としてくるような師匠の詩偈があったので、それが遺偈かと思っていた。やはり高僧と云われる方は、遙かに遠くを行脚されていると思った。一切情緒的なはからいの入らない世界である。*真如不昧は真如(根源的実相)は昧(クラマ)さない。「昧(クラマ)すことができない」ではない。可能不可能を越えた絶対のありよう。
今、研究している器之為璠禅師(1404~1467)という禅僧の遺偈は残念ながら残されていない。
今日は亀田興毅というボクサーが世界チャンピオンになった。一ラウンドからダウンしたし、四ラウンドか五ラウンドで、もう一回ダウンしたのでどうなるかと思ったが、判定勝ちで勝利を勝ちとった。努力の賜物であろう。負けたファン・ランダエタ選手も勝っていた試合だと思う。甲乙付けがたい試合であった。
海で溺れて亡くなった、ボクサーのタコちゃんのことを突然思い出した。友達と言うほどではないが、よく出会った知り合いである。このブログをお読みの方で知っている人がいてくれたら嬉しいが。額の前でねじった髪型が懐かしい。さて彼ならばこの試合の判定をなんと言っただろうか。
こんな日に遺偈について書くのもどうかと思うが、彼の快挙については多くのブログで紹介されるであろうから、私が見たカウンターパンチかアッパーカットならぬ遺偈をご紹介した。
短い語の中に真理を表す偈が作れるような境涯にまでなれるか、やはり努力にかかっている思う。若いボクサーの血の滲むようなトレーニングに学ぶことは多い。しかしこの私、方向違いの努力をしてはいまいか。反省し、精進し、反省し、精進して、やがて………幻は幻………に去るのみ。
先日、南三陸町に伺い辻老師ともお会いしました。同じころ總持寺にいらっしゃったのではないでしょうか。
辻文生さんとは学生時代豪徳寺で一緒に過ごしました。彼は3.11の津波被害にあって、本堂が流失しました。昨年友達と南三陸を訪れ、観洋ホテルに一泊して、復興途中の徳性寺に行ってきました。現在人権主事として活躍しています。
しかし、観洋ホテルには驚きました。海の中に建っているにもかかわらず、津波が横を通ったので、無事だったのですね。
沈痾形骸 七十九年
放散日々 罪科弥天
詩偈の先生清水琢道老師、私も焼香師の際見ていただきました。
弄花点茶 七十余霜
末後行脚 冷風月白
お茶の師範だった老師で、香巖知閑禅師のように箒を持ってよく掃除をしていました。
すっきりとされた御最期であったろうと偲ばれます。