9月6日(水)朝のうち雨激しく降る【華綾慧春尼その1ー出家の決意】
今日は皇室に親王様がお生まれになった。世界中の子供たちがこのように望まれて生まれてこられることを願って。
小田原から少し北に入ったところに大雄山最乗寺という名刹がある。通幻寂霊禅師(1322~1391)の法嗣(はっす)、了菴慧明禅師(1337~1411)が開山様である。この禅師の妹と云われているが、華綾慧春(かりょうえしゅん)という尼僧がいた。この尼僧の開いた三ヵ寺の一つ、正寿庵という寺に「子宝地蔵尊」が祀られている。今日の日に因んで松寿庵を開かれた華綾慧春尼についてご紹介したい。
『重続日域洞上諸祖伝』(蔵山良機著。享保2年刊〈1717〉)に慧春尼は記載されている。室町の時代に生きた一人の尼僧の姿を追ってみたい。
(原文)
攝取菴慧春道人傳。師名慧春。生糟谷氏。相陽人。最乗了菴禪師之妹也。姿色絶人。而無意於處俗。年過三十。就兄了菴菴求度。菴卻之曰。夫出家者大丈夫事也。兒女輩難立易流。容易度女人。汚辱法門者多矣。師黙然而退。就火爐焼鐵箸。烙面上縦横。叉進求度。菴不獲(原文この字のママ)已而剃度。
(訓読)
攝取菴慧春道人傳。師名慧春。糟谷氏に生まる。相陽の人なり。最乗了菴禪師の妹なり。姿色人に絶すれども、而も俗に處する意無し。年三十を過ぎ、兄了菴に就いて度を求む。菴之を卻けて曰く、「夫れ出家は大丈夫の事なり。兒女の輩、立ち難く、流れ易し。容易に女人を度せば、法門を汚辱する者多し」と。師、黙然として退く。火爐に就いて鐵箸を焼き、面上に烙くこと縦横。叉進んで度を求む。菴已むを獲ずして剃度す。
訓読して頂けば、敢えて訳を添えなくてもよいと思うが、慧春尼は相模の糟谷氏の生まれである。最乗寺の開山了菴禅師の妹といわれている。非常に美しい人であったそうだが、世俗のことには興味がなかったようである。三十歳を過ぎてから、兄に得度していただきたいとお願いしたのだが、禅師はこれをお許しにならなかった。
「出家は男のすることであって、女子供には出家は難しいことで、途中で止めるようなことになるだろう。もし簡単に出家を許したなら、法門を汚してしまう者が多いであろう。」と云われた。慧春尼はこれを聞くと黙って退いた。そして火鉢のほうに行き、鉄の火箸を焼き、それで顔を縦横に焼いたのである。そして再び禅師の元に行って、得度してほしいと頼んだのである。禅師はやむを得ず、慧春尼の髪を剃ったのである。慧春尼は勇ましく参禅したのである。
とこのような出家の時の顛末が残されている。しかし史伝に残る数少ない尼僧の伝記に、焼き火箸の話は他にも読んだ記憶があるが、今すぐには見つけられない。どうも尼僧に対して、何時の時代の男性も偏見を持っているようである。美しい顔に焼き火箸をあてるとは随分と強烈な事までしなくては、得度の許しを得られなかったというのは、情けないが、慧春尼の場合は禅師にとって妹であれば、特に不憫に思えたのであろうか。真意は分かりかねる。とにかくも慧春尼様は出家の本懐を遂げられたのである。今日はこれまでといたします。
今日は皇室に親王様がお生まれになった。世界中の子供たちがこのように望まれて生まれてこられることを願って。
小田原から少し北に入ったところに大雄山最乗寺という名刹がある。通幻寂霊禅師(1322~1391)の法嗣(はっす)、了菴慧明禅師(1337~1411)が開山様である。この禅師の妹と云われているが、華綾慧春(かりょうえしゅん)という尼僧がいた。この尼僧の開いた三ヵ寺の一つ、正寿庵という寺に「子宝地蔵尊」が祀られている。今日の日に因んで松寿庵を開かれた華綾慧春尼についてご紹介したい。
『重続日域洞上諸祖伝』(蔵山良機著。享保2年刊〈1717〉)に慧春尼は記載されている。室町の時代に生きた一人の尼僧の姿を追ってみたい。
(原文)
攝取菴慧春道人傳。師名慧春。生糟谷氏。相陽人。最乗了菴禪師之妹也。姿色絶人。而無意於處俗。年過三十。就兄了菴菴求度。菴卻之曰。夫出家者大丈夫事也。兒女輩難立易流。容易度女人。汚辱法門者多矣。師黙然而退。就火爐焼鐵箸。烙面上縦横。叉進求度。菴不獲(原文この字のママ)已而剃度。
(訓読)
攝取菴慧春道人傳。師名慧春。糟谷氏に生まる。相陽の人なり。最乗了菴禪師の妹なり。姿色人に絶すれども、而も俗に處する意無し。年三十を過ぎ、兄了菴に就いて度を求む。菴之を卻けて曰く、「夫れ出家は大丈夫の事なり。兒女の輩、立ち難く、流れ易し。容易に女人を度せば、法門を汚辱する者多し」と。師、黙然として退く。火爐に就いて鐵箸を焼き、面上に烙くこと縦横。叉進んで度を求む。菴已むを獲ずして剃度す。
訓読して頂けば、敢えて訳を添えなくてもよいと思うが、慧春尼は相模の糟谷氏の生まれである。最乗寺の開山了菴禅師の妹といわれている。非常に美しい人であったそうだが、世俗のことには興味がなかったようである。三十歳を過ぎてから、兄に得度していただきたいとお願いしたのだが、禅師はこれをお許しにならなかった。
「出家は男のすることであって、女子供には出家は難しいことで、途中で止めるようなことになるだろう。もし簡単に出家を許したなら、法門を汚してしまう者が多いであろう。」と云われた。慧春尼はこれを聞くと黙って退いた。そして火鉢のほうに行き、鉄の火箸を焼き、それで顔を縦横に焼いたのである。そして再び禅師の元に行って、得度してほしいと頼んだのである。禅師はやむを得ず、慧春尼の髪を剃ったのである。慧春尼は勇ましく参禅したのである。
とこのような出家の時の顛末が残されている。しかし史伝に残る数少ない尼僧の伝記に、焼き火箸の話は他にも読んだ記憶があるが、今すぐには見つけられない。どうも尼僧に対して、何時の時代の男性も偏見を持っているようである。美しい顔に焼き火箸をあてるとは随分と強烈な事までしなくては、得度の許しを得られなかったというのは、情けないが、慧春尼の場合は禅師にとって妹であれば、特に不憫に思えたのであろうか。真意は分かりかねる。とにかくも慧春尼様は出家の本懐を遂げられたのである。今日はこれまでといたします。
なぜでしょう?疑問です・・・
お話の続きを期待しております。
りょうさんが期待して下さっていると書く気力が出てきます。