3月6日(木)曇り、寒い【関東大震災を予知した二人の学者】
今日もこちらは寒いです。雪が降ったり、雨が降ったり、北風が吹いたり、お雛祭りは過ぎましたが、春のお彼岸までは時には暖かく、時には寒く、こんな寒い日もあるでしょうが、もうすぐお彼岸です。
さて、この頃、関東地方もやたらに地震があります。震度1とか2とか微弱な震度で、体感するほどの揺れはこの辺では感じられません。
しかし、巷では今年は異変のある年、特に7月5日、と、朝の4時〇〇分と時間さえ言っている人がいます。
ノストルダムスの大予言も、空振りでしたので、この度の予言も当たらない確率は高いです、が、分かりません。一番は地震でしょう。地軸の変動とまではいかないこと確実でしょう。
実は、最近写経会に参加なさる人のお一人が、関東大震災を予知した学者さんの子孫ということで、初めて知った二人の学者さんのことを学んでみました。
(私が手に取った本は上山明博著『地震学をつくった男・大森房吉』(青土社)ですが、同じ著者の『関東大震災を予知した二人の男ー大森房吉と今村明恒』(産経新聞出版)の方もよかったかもしれません。それほど読む時間がありませんので、興味の有る方はどうぞ。)
お一人は大森房吉博士、もう一人は今村明恒博士です。大森博士は東京大学地震研究所の創設者で、東京帝国大学地震学研究室の教授でした。今村博士はその時助教授でした。
関東大震災が起きたのは、大正12年(1923)9月1日午前11時58分32秒だそうです。震源は相模湾北西沖80㎞だそうです。全く無知の私は、震源は東京直下だと思っていました。東京の被害ばかりが報道されているような錯覚をしています。相模湾沿いや沿岸、周辺の被害も大きかったのではないでしょうか。
10万5千余の犠牲者がでたそうです。
今村助教授は、いつ東京に大地震が起きてもおかしくないと警鐘を鳴らしたそうですが、パニック状態になったそうです。それを大森博士は今すぐ東京に大地震が起きるわけではない、と鎮静化に努めたそうですが、実際には、マグニチュード7.9の関東大地震が勃発してしまったわけです。
「地震の生神さん」と言われ、世界ではじめて高感度地震計を作り、近代地震学の発展に命を捧げた大森博士は、関東大震災のおり、生憎オーストラリアの学術大会に参加していて、東京に不在だったのだそうで、大森博士は地震を予知できなかったことを痛恨の痛みと思われ、失意と悔悟の思いを抱いて、二か月後にお亡くなりになったそうです。
地震研究室の学生であった今村博士の方に軍配が上がった感じですが、大森博士こそ、日本の地震学の礎を築かれた学者さんだったようです。
しかし、地震の予知を発表することは、かなり責任の重いお役です。能登の地震の事も地震研究をしている研究所員には予測できたのかもしれませんが、発表は勇気のいることで、責任は確かに重いでしょう。
地震国日本なのですから、地震研究に力を注いでいただきたいですね。
太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレート、北米プレートが、この日本列島の下に入り込んでいるのですから、このプレートの微妙な動きを地震研究所は常に観測しているのではないでしょうか。地表の動きよりも海底の動きを観測するシステムはないのでしょうか。
突然に地面が揺れ動いて、平和に暮らしていた人々が一瞬にして命を落としてしまう、建物も全て、破壊されてしまう。そのような事態になる前に、せめて人命を助けるために、外れてもよいから、地震予知速報を出してもらうようにはできないものでしょうか。狼少年、になっても良いですし、当らなくて笑いものにされても厭わずに、地震国日本にとって、大事なのは、「現代の今村博士」であり、「現代の大森博士」ではないでしょうか。
*しかし関東地方にも大地震が、近々起きる可能性は大です。せめて一週間分の食料と必要品は備蓄しておく必要があります。私は猫のエサが問題です。
長くなりました。お読みいただき有難うございました。