8月3日(月)晴れ【鈴木智道老師御遷化】
今日は長野県の茅野に、ご葬儀で行ってきました。ここに検校庵というお寺があります。ここの東堂様の全覚智道様が7月29日の夜、御遷化なさいました。
智道様は尼僧の鏡のような方でした。いつも笑顔を絶やさない、楽しいことが大好きな、周りの人を大事にしてくださる庵主様でした。
私も何回も検校庵さんには拝登させていただきましたが、はじめて伺ったのは、尼僧堂から送行したときです。名古屋から行脚して埼玉の師寮寺まで帰る途中、お世話になりました。
今日はデジカメを持たないで出かけてしまい、長野の美しい景色をお見せできず残念ですが、先日の虹の写真にさせていただきました。今から27年も前のことですが、智道様が車で諏訪湖の近くまでお迎えに来てくださったとき、諏訪湖に大アーチの虹がかかっていました。諏訪湖の虹を背にして、お迎えくださった智道様を偲んで、虹の写真を記事に添えました。
行脚に出発するときもおむすびを握って持たせて下さいました。いろいろと思い出は、私にもありますので、傍にいた方々には山ほどのお世話になった思い出があることでしょう。
とてもよいお声でした。梅花の師範として多くの講員さんもお育てになりましたし、尼僧団の副団長としてご活躍くださいました。お若い頃には、お寺が火災にあったりして、本堂の再建にもご苦労をなさったそうです。とても口にはあらわせないご苦労を乗り越えての尼僧としての御生涯であったろうと思います。世壽八十二歳。ご冥福を心より祈らせていただきます。
今日は長野県の茅野に、ご葬儀で行ってきました。ここに検校庵というお寺があります。ここの東堂様の全覚智道様が7月29日の夜、御遷化なさいました。
智道様は尼僧の鏡のような方でした。いつも笑顔を絶やさない、楽しいことが大好きな、周りの人を大事にしてくださる庵主様でした。
私も何回も検校庵さんには拝登させていただきましたが、はじめて伺ったのは、尼僧堂から送行したときです。名古屋から行脚して埼玉の師寮寺まで帰る途中、お世話になりました。
今日はデジカメを持たないで出かけてしまい、長野の美しい景色をお見せできず残念ですが、先日の虹の写真にさせていただきました。今から27年も前のことですが、智道様が車で諏訪湖の近くまでお迎えに来てくださったとき、諏訪湖に大アーチの虹がかかっていました。諏訪湖の虹を背にして、お迎えくださった智道様を偲んで、虹の写真を記事に添えました。
行脚に出発するときもおむすびを握って持たせて下さいました。いろいろと思い出は、私にもありますので、傍にいた方々には山ほどのお世話になった思い出があることでしょう。
とてもよいお声でした。梅花の師範として多くの講員さんもお育てになりましたし、尼僧団の副団長としてご活躍くださいました。お若い頃には、お寺が火災にあったりして、本堂の再建にもご苦労をなさったそうです。とても口にはあらわせないご苦労を乗り越えての尼僧としての御生涯であったろうと思います。世壽八十二歳。ご冥福を心より祈らせていただきます。
ブログへのコメント、有難うございました。
本当に、太陽のような尼僧さまでしたね。
ですから、あったかい、大きな存在を失ってしまったような、そんな寂寥感があります。
梅花の道にご精進なされた方でしたので、
余計、プレッシャーがかかりましたが、
無事、本葬が終了しほっとしております。
心よりご冥福をお祈りいたします。
合掌
角がとれた人という人間としての見本でしょう。少しでも見習いたいと思います。しかし、いろいろなご苦労を乗り越えたからこそ、人間が錬れていたのでしょう。こちらはまだ苦労が足りません。
独詠の大役、お疲れ様でした。
智道様のようなどーんと温かい尼僧さんが、見えなくとも守ってくださると信じましょう。
あたらしく来た人を取り囲んでつぶそうとする
おおきな声の人だけはびこるんですよね。
以前は一家に一人出家者がでますと、七代まで前の先祖が救われると言ったものです。このようなことを知っている人さえ今は少ないでしょう。
また以前は、貧しかったり、家庭の事情で育てられなかったりすると、お寺に預けられたのですが、この頃は福祉施設も整ってきましたし、子だくさんで育てられないという家庭も少なくなりました。等々、諸般の事情が考えられます。
しかし、私自身出家しまして、仏教を学んで生きる生き方は、つくづく面白いと思うのです。なかなか味わい深い生き方です。人間についても、命についても、世界についても、宇宙についても、お釈迦様の見方、道元禅師の見方、それを教えて貰うと、これは万華鏡で世界を見るように面白いのです。
ということで尼僧になることをお勧めしたいのが今の私の意見です。
尼僧が少なくなったことへのご意見についてのコメントについては、少しはずれたことも書き足しました。