5月6日(日)雨一時激しく降る【再び戒名について】
御陰様で頼まれていた仕事が終わり、宅急便で送り出すことができた。懸念の仕事が一段落すると、やはり万歳と言いたくなる。そこに友人からお茶会のご招待をいただいたので、喜んで出かけてきた。お茶席の名は葵庵きあんである。
真言宗で最近出家したR尼さんと一緒にお招き頂いた。二人の尼僧を迎えるのに、大石順教尼が描いた三猿の図のお軸を架けてくれていた。ご存じとは思うが、両腕を斬られてしまった順教尼は、口に筆を銜えて絵も字も書かれた。それができるようになるまで、どんなにか努力なさったことか。
お膳は、ご亭主が手打ちのお蕎麦と、知る人は知るであろう美酒の「田酒」をご馳走になった。お椀には筍と蕗、小鉢には独活と若布の和え物、これらは料理上手の奥さまの手料理である。それからお濃い茶とお薄を点てていただき、ゆったりとした時を楽しませていただいた。
昨日は地球人類の滅亡と地球の滅亡について、ログを書かせてもらったが、今日はまた穏やかな時の流れをお茶席で味わわせて頂き、その後に、戒名について書くのもなんですが、だからこそ、と言ってもいいかもしれないが、ちょっと一筆書かせて頂きたい。
戒名には本来、差が無いのだということを先ず申しあげたい。佛法のもと、全ての人は平等であることを、釈尊はお説きになられた。佛弟子に階級的な差があることは教義に反することでさえある。院号が付いているか、いないかによって、なんの差もないことを理解していただきたい。私は室町時代の香語を研究したが、その時代、戒名として院号の付いている人は一ヵ寺を寄進したような人か、大名につけられていたのであり、普通には全く使われなかった称号である。
それをいつの頃からか、一般的に使われるようになったのであるが、院号を付けて貰うのに多額の請求や寄付を要求されたと言い、それをおかしいという人がいるが、それは筋が違っている意見である。社会で活躍したので、どうしても付けて欲しいというのであれば、一ヵ寺を寄進するに等しいか、余程お寺に貢献するに等しいことをしなくてはならないだろう。
それなのにあの寺は高いだとか、金儲けだとか言うのは、筋が違っているということを理解してもらいたい。そして、できるならば院号など戒名に付けて貰わないことをおすすめしたい。院号などつけなくとも全く問題は無い。先頃、あるお寺で高いことを言われたのでおかしいから、私に院号を付けて貰いたいということを頼まれて、本当に困った。院号を、売り買いの称号のように勘違いされている人がいらっしゃるようなので、あらためて書かせていただいた。このログをお読み下さる方だけでも、このような間違いはなさらないようにしていただきたい。
それとも世の中の方は日頃お寺へのお布施が少ないとでも思われて、多額のお布施をしてくださりたいので院号を望まれるのであろうか。
日頃お寺や仏教と無縁の生活をしていて、仏事だけでのおつきあいが多いと、いろいろな仏事に関しての誤解が生じるのかもしれない。知り合いの女性だが、死期が近いことを知って、日頃から信仰しているあちこちのお寺に財産をお布施なさった。しかも院号などはのぞまれなかった。
地球人類の滅亡や地球の滅亡を考えるとき、戒名に院号を付ける、付けないなどと執着することは論外のことであると思う。法のもとの平等を真剣に学びたい。そして、たとえ地球最後の日であっても、ゆったりとお茶を点て、ゆったりと一服を楽しむような生き方をしたいものだと願うのである。
御陰様で頼まれていた仕事が終わり、宅急便で送り出すことができた。懸念の仕事が一段落すると、やはり万歳と言いたくなる。そこに友人からお茶会のご招待をいただいたので、喜んで出かけてきた。お茶席の名は葵庵きあんである。
真言宗で最近出家したR尼さんと一緒にお招き頂いた。二人の尼僧を迎えるのに、大石順教尼が描いた三猿の図のお軸を架けてくれていた。ご存じとは思うが、両腕を斬られてしまった順教尼は、口に筆を銜えて絵も字も書かれた。それができるようになるまで、どんなにか努力なさったことか。
お膳は、ご亭主が手打ちのお蕎麦と、知る人は知るであろう美酒の「田酒」をご馳走になった。お椀には筍と蕗、小鉢には独活と若布の和え物、これらは料理上手の奥さまの手料理である。それからお濃い茶とお薄を点てていただき、ゆったりとした時を楽しませていただいた。
昨日は地球人類の滅亡と地球の滅亡について、ログを書かせてもらったが、今日はまた穏やかな時の流れをお茶席で味わわせて頂き、その後に、戒名について書くのもなんですが、だからこそ、と言ってもいいかもしれないが、ちょっと一筆書かせて頂きたい。
戒名には本来、差が無いのだということを先ず申しあげたい。佛法のもと、全ての人は平等であることを、釈尊はお説きになられた。佛弟子に階級的な差があることは教義に反することでさえある。院号が付いているか、いないかによって、なんの差もないことを理解していただきたい。私は室町時代の香語を研究したが、その時代、戒名として院号の付いている人は一ヵ寺を寄進したような人か、大名につけられていたのであり、普通には全く使われなかった称号である。
それをいつの頃からか、一般的に使われるようになったのであるが、院号を付けて貰うのに多額の請求や寄付を要求されたと言い、それをおかしいという人がいるが、それは筋が違っている意見である。社会で活躍したので、どうしても付けて欲しいというのであれば、一ヵ寺を寄進するに等しいか、余程お寺に貢献するに等しいことをしなくてはならないだろう。
それなのにあの寺は高いだとか、金儲けだとか言うのは、筋が違っているということを理解してもらいたい。そして、できるならば院号など戒名に付けて貰わないことをおすすめしたい。院号などつけなくとも全く問題は無い。先頃、あるお寺で高いことを言われたのでおかしいから、私に院号を付けて貰いたいということを頼まれて、本当に困った。院号を、売り買いの称号のように勘違いされている人がいらっしゃるようなので、あらためて書かせていただいた。このログをお読み下さる方だけでも、このような間違いはなさらないようにしていただきたい。
それとも世の中の方は日頃お寺へのお布施が少ないとでも思われて、多額のお布施をしてくださりたいので院号を望まれるのであろうか。
日頃お寺や仏教と無縁の生活をしていて、仏事だけでのおつきあいが多いと、いろいろな仏事に関しての誤解が生じるのかもしれない。知り合いの女性だが、死期が近いことを知って、日頃から信仰しているあちこちのお寺に財産をお布施なさった。しかも院号などはのぞまれなかった。
地球人類の滅亡や地球の滅亡を考えるとき、戒名に院号を付ける、付けないなどと執着することは論外のことであると思う。法のもとの平等を真剣に学びたい。そして、たとえ地球最後の日であっても、ゆったりとお茶を点て、ゆったりと一服を楽しむような生き方をしたいものだと願うのである。
お金もうけのために、「院号」はいかがですか、なんて売る僧侶はいないでしょうね。
欲しいといわれたときにどうするか、そこを悩むことはあるでしょうが。。。。
風月さんにお聞きいたします。院を付けるか(大げさなのは院殿もありますよ)否かの以前に、戒名はお金を払ってお坊さんに付けてもらわなければ、あの世に行って無効なのでしょうか。私の好きな作家の一人で、偉人、怪人山田風太郎がいますが、彼は自分で自分の戒名を付けました。しかもかなりふざけた戒名でした。
と言うのが、真の宗教ではないでしょうか。
またお寺は衆人に解放されてしかるべきだと思いますが、拝観料と称して入場料を取っているところがありますね。これも納得が行きません。重要な仏教遺産、財産を維持管理する費用がかかるからと言うかもしれませんが、その財産も信者の血と汗の結果であります。例え時の権力者が寄進したとしても、権力者は衆人から搾取していますのでやはり衆人のもの。自分たちのものと思っていることが大いなる錯覚では。
そもそも権威を示すためとしか思えない、立派な仏閣、仏像など必要なのでしょうか。(現存する仏教遺産、芸術を否定すると言う立場ではありませんが)位の高い僧侶が金ぴかの法衣を着るとか、教団は全く俗世界と同じシステムで運営されているようです。教団即ち事業団体と思われてしまわないでしょうか。
おかあさんに院号を付けたので、お父さんにもと云っても、お金は無いし、となるとどうなるのでしょう。その逆もあります。旦那さんは世の中で活躍したので院号を、と安直につけても、その奥さんの場合、やはりお金は無いし、ということになりますから、院号をつけてほしい、でもまけてくれ、と云われるお坊さんも困ってしまうと思います。最初に付けるとき、よくよく説明する必要がありますよね。
お金で戒名を買う、と誤解している人が悪いのか、誤解を放任しておく方が悪いのか、両方だと思います。
戒名とは佛弟子となった証しですので、勝手に付けるものではないのですが、この意味をどのようにお受け取りになるかによるでしょう。
〈院を付けるか(大げさなのは院殿もありますよ)否かの以前に、戒名はお金を払ってお坊さんに付けてもらわなければ、あの世に行って無効なのでしょうかについて
僧侶を頼んでお葬式をしたいのであれば、戒名を頂くのが、当然のことです。戒を受けて佛弟子になったという証しなのですから。もし、それが嫌であれば、僧侶にご葬儀を頼まなければよいと思います。そのような方法もあります。
次にその戒名を頂く場合に、戒名についてのお布施をお包みしますが、これを売り買いのように誤解してしまっているのだと思います。めったやたらに戒名を付けるわけではありません。例えば私の場合、お釈迦様から私の師匠、そして私と連綿と続いている血脈という法の流れがあります。私で97代になります。私がご葬儀をさせて頂く場合は、その方は98代目の佛弟子となるわけです。私の修行なくしてこの血脈は続きません。勿論私よりさかのぼること多くの僧侶の修行があって今に至っているのです。そのお働きに対してのお布施と思って下さい。また私にしましても具体的なことを申せば、なんとか仏教を学ぶためにどれほどの努力とお金を費やしていることか、大変なものです。単に名前をつけるだけじゃないかということではありません。
戒名に対してお包みする金子は、お布施です。これは財施です。僧侶が説く説教などは法施です。お互いにできることを施しあっているわけです。またお寺の建物にしても、ただ、今を維持するだけでなく、次の世代にも引き継いでいく責任があります。お金は必要なものです。佛弟子として、法が嗣がれていくことの助けをしているわけです。
お布施にはいろいろな意味がありますが、本来は信仰の証しです。ですから、仏教ではいやだと思えば、仏教でご葬儀をあげる必要はないわけです。自由です。
また戒名を僧侶につけてもらわなければ、無効かということですが、戒名の意味を先に説明しましたので、このことの答えは不要でしょう。無効、有効という範疇ではないことです。
山田風太郎さんについては、風太郎さんにお任せします。自らの生きる姿勢、死んでいく姿勢ですから、一人一人自身のこととしてあらためて、戒名についてお考えになればよいと思います。
できれば生前に信頼する僧侶から法名をいただいたり、お授戒という儀式がありますので、そこでお付け頂いて、生きている間に佛弟子としての自覚を持って、生きるのが、ベストの戒名の頂き方です。
わては仏教哲学は大したもんやと思おてます。(中身は殆ど知りまへんさかい、
畏怖してるうゆうたほうが当たってます。)けど宗教としての仏教に帰依する予定はおまへん。従って死んでも戒名を戴くべきやおまへんな。従って葬式を仏式でやるべきでもおまへんな。
自治体が簡易葬儀やってんの知ってます。
人間死後の世界が分からしまへんよってに、怖いんです。人間以外の外の生物で死後の世界を思い煩うんがいてますやろか。
宗教ゆうんは人間のそこの弱みを助けるもんやと思ううんてますが、戒名やらの話聞いとると、そこの弱みを人間が宗教に衝かれとるような気になりますねん。
仏教に帰依してへん人間が死んで、本人の意思に関係なく、遺族が安易に仏式の葬儀をするゆうんも、問題やあらしまへか。その遺族も仏教に帰依してへん場合が多いと思うさかい。
法の下に誰もが平等言いはりましたな。おんなじように、誰もが平等に遺族になる可能性を持ってます。その遺族はしっかりせなあかん。親なり配偶者なりが死んで葬式出すとき、どうゆう葬儀するんか考えなあかん。
結婚式は神式かキリスト教式、葬式は仏式が一般的やからゆうて皆やってまへんか。要するに宗教に関係ない人間が、ただ世間の常識(あるように思うてるだけでそんなもんあらしまへん。自分が勝手に自分の中に作り上げたものやと思う。せやさかい常識ゆうんは人の数ほどおます。)、習慣、見得で、皆仏式の葬式してまへんか。
こうゆう状態やから、戒名が売買の対象やとか、高いとか、自分でつけたらあかんかゆう話になるんやなやないやろか。
仏教側も安易に葬式請け負うたらあかんのと違うやろか。少なくとも遺言で仏式とあるとか、遺族が仏教に帰依したあるとか。
もし仏教側が自分の考えで、帰依してへん人間まで救うために、成仏させたい思うて葬式(戒名つける)したいんやったら、葬式、戒名代は仏教側の負担になりますやろな。
お寺さん側から頼みもしない人の葬儀を買ってでることあるんでっしゃろか。あるはずおまへんな。
アフリカで飢餓で死んだ人、エイズで死んだ人の葬儀を仏教団が買って出たゆうんは聞いたことおまへんよって。
せやけど、こうゆう不幸な人の成仏、世界平和を毎日お祈りしてはる、お坊さんも仰山いてはるとは信じてます。
考えたら、仏教に帰依してへんかった人が死んだ場合、戒名やら葬式ゆうんは本人の成仏に関係なく、遺族が単に世間体を償う儀式になってるように思います。
話長ごうをなってなってすんまへんな。そもそも何で人間だけが葬式するんやろか。話元に戻りましたがな。
遺族である人間が自分の死後の世界に不安を持ちよるさかいに。
そしたら不安にさせたんは誰でっか。人間が自分で作った宗教や哲学でっしゃろ。人間は頭でっかちになりましたな。人間は自業自得とゆうか、マッチポンプでんな。考えてもしょうもない問題(死後の世界)提起して、自分で悩みよる。そんで解決策(宗教、哲学)を自分で作り、それでも解決されたとかだめだとか、ああでもない、こうでもないと。
宇宙の創造神笑ろうてはるんやなかろか。
一方神様がそうゆう風に人間をつくらはったんやったら、人間にだけに厳しい試練をくれはったんやね。
宇宙創造の神のような漠然としたものの存在、力は感じていますが、私は無宗教です。そして実は葬式は出すなと遺言をしています。私が死んでも、遺族が遺体を入手できるとは限りませんが、普通に死んで遺体が残れば、火葬しなければなりませんね。問題はその後です。私は本当は海に散骨が希望なのですが、2つの理由であきらめました。一つは遺族の心理的、経済的負担。2つ目には引き継いだ墓があるからです。骨は墓に収めてもらいます。そうするとそこに刻む名前が必要で、遺族が困ると思い、勝手に自分で作ったわけです。仏様の弟子でもないのに仏式の墓石名をつけるなんて、とんでもないことです。全くの無知蒙昧恥ずかしいばかりです。お許し下さい。
単に俗名を刻んでおけばよいのですね。流行の詩ではありませんが、どうせ私はそこにはいないのですから。
遥かな海原(幻海に相当)を南の風になって渡り(文字通り南風)、光となって山河に降り注ぐ(光泊に相当)。これこそが私が苦労(人様から観ればさしたるものではありません)して到達した人生観なのです。残りの人生は放浪、漂泊の旅を理想としております。
単なる自然回帰と言われればそれまでです。但しエセ戒名は5年位前に考えたもので、流行の詩(和訳の詩が最近流行っただけで、英文の元の詩は古いようですが)の真似でないことだけは間違いありません。
戒名はいつ頃から付けられたかと言えば、研究者の論文をあらためて読んでみましたが、日本では平安時代から貴族の間には行われたようです。
一般的には鎌倉あたりからでしょう。室町時代には間違いなく、戒名が農民の人々にもつけられています。
さて、お釈迦様は俗人にはおそらくつけていないでしょう。中国では出家ではないけれども熱心な仏教信者には俗名に居士をつけています。維摩居士、ほう(まだれ+龍の字)居士、東坡居士(蘇東坡のこと)などです。
出家者でない方への戒名は日本で展開された形でしょう。しかし、クリスチャンネームのようのものと思えば受け入れやすいのではないでしょうか。
できれば生前に授戒し、仏教徒としての自覚を持って生きることが、法名を頂くことに矛盾を感じないベストな方法でしょう。
免罪符のようなものとするか、しないかは本来個人の問題です。社会の一般常識や通念やしきたりに流されて生きるか、自覚をもってこの命と人生を生きていくか、私自身、あなた自身の問題ですから、あらためてお考えになることはよいでしょう。
仏教についても、世論に流されることなく、あらためて仏教について学ばれてはいかがでしょうか。無理には勧めませんが、信仰を持てることは幸せであり、私のブログはあくまでも仏教の僧侶としての立場から書いていますので、そこに賛同がなければ、お読みいただいても意味のないものです。
なにか少しでも仏教的なものの見方を読んでやろうか、という姿勢でお読みいただけると有り難いのです。
そうでないと、老眼を駆使し、残り少ないであろう時間を費やして、このログを書く意味がないと考えます。
拝観料についてですが、それぞれの寺の状況が分かりませんので、なんとも言えませんが、普通の家を保持するにもお金はかかります。大きな寺は寺の維持に補修費やお掃除の人の人件費やらかかります。また拝観料無しですと、安全の点からも問題が生じる場合もあります。
私が長くいましたお寺は大きなお寺で、修行道場でもあり、信者さんの多い寺ですが、他に収入がありますので、拝観料は取りませんでした。箇箇のお寺の問題があるわけです。
この程度の答えにて失礼します。