11月9日(火)雨【聖徳太子考(3)四天王寺と金剛組】
今日は雨です。昨日までの好天気とは打って変わって寒いです。昨日は思い切って部屋を冬バージョンに切り替えました。
さて、聖徳太子様は、「仏教興隆の詔」を推古天皇2年(594)に出してくださった、日本仏教にとっての大恩人です。その方の1400年恩忌ですから、私も僧侶として生かされている報恩の思いもあり、多少学ばせていただいています。
今日は、四天王寺の建立について、先日来お世話になっている金剛組さんとのご縁も書いておきたいと思いました。話は変わりますが私が教えを受けました東城百合子先生が時々おっしゃっていましたが、「あんたたち、知っているの、世界で長い歴史を持つ会社があるのは日本だけよ」と。まさしく金剛組は世界で一番長い歴史を持っている会社です。東城先生は戦後の日本人が、敗戦による占領政策によって、大和魂を忘れていることを本当に勿体ないこととお思いでした。和を尊ばれた聖徳太子様からも、さらにそのお考えも学びたいと思います。
さて、聖徳太子様は、蘇我氏側が物部氏との戦いの折に、この戦いに勝利したならば護世四天王を祀ってお寺を建てます、と祈願なさいました。『書記』には、「四天王寺を造る、守屋の奴と宅の半を寺に付す」と記載されているそうで、先ずは物部守屋の別宅に四天王寺を造っただろうという説があります。これが崇峻天皇元年(587)になりますー崇峻天皇は用明天皇2年の8月に即位していますので、この年はダブっています。
さて、敏達天皇の皇后炊屋姫(かしきやひめ)が推古天皇として即位なさる前、用明天皇の後には泊瀬部皇子が第32代の天皇、崇峻天皇となりましたが、在位5年余でなんと蘇我馬子に暗殺されてしまいます。それはなぜか、おそらく馬子の勢力が強く出すぎるのを邪魔に思われ馬子を排除しようとしたか、意見の違いがあったのかもしれませんが、この頃はなかなか血なまぐさいですね。そのような人々の争いを聖徳太子様は、じっとご覧になっていたのではないでしょうか。
推古天皇元年(593)に、聖徳太子様は摂政になられます。
日本最初の女帝推古天皇は、甥である聖徳太子様を摂政となさり、自らは政(まつりごと)からは一線をしかれたようです。そのように馬子が仕組んだのかもしれません。
さて、摂政につかれてから、あらためて聖徳太子様は四天王寺を現在地に移され、敬田院、悲田院、療病院、施薬院の四院を構えられた、と聖徳太子『本願縁起』にあるそうです。
さて、さて、今回は金剛組との縁についてちょっと書いてみたいという目的です。金剛組の沿革によりますと、「578年に四天王寺建立の為に百済より招かれた宮大工金剛重光が創業」とあります。578年は敏達天皇7年になりますので、587年には守屋の別宅を最初の四天王寺としていますので、ひょっとしましたら、この年号は7と8の入れ間違いかもしれません。西暦はこの時代、当然使われていませんし、年号は大化の改新からですから、金剛組さんに伝承の書物があれば、敏達天皇7年(578)か崇峻天皇元年(587)と書かれているのではないでしょうか。もしくはすでに578年に百済から招かれていたのかもしれません。*「日本史年表」を眺めていましたら、「577 百済より経論・律師・禅師・仏工・寺工渡来」とありますので、おそらくこのあたりで金剛重光も渡来していたのかもしれません。私は残念ながら日本歴史の研究をしませんでしたので、適当な文献資料がありませんので、裏付けができませんがお許しを。
578年は、聖徳太子様は5歳の御年です。
摂政になられた推古天皇元年(593)、その年に現在地に四天王寺を建立されています。この四天王寺の建立を担ったのは、金剛組になります。飛鳥の時代より金剛組は、四天王寺が焼失したり台風の被害に遭ったり伽藍が壊れるたびにその再建を担ってきています。つまり飛鳥の時代よりの伝統的な工法や、伝統的な職人魂を綿々と受け継いで今に至っている日本の誇るべき建築会社になります。
これからも今までも、世の中の変化とともに、会社自体も変化せざるを得ないでしょうが、日本が世界に誇るこのような会社が存続していただきたいと思う次第です。
*このブログは論文ではありませんので、記載的にたぶんに十分ではなく私的な意見も書いていますが、ご了承ください。
さて、下の写真は何かと言いますと、この度の屋根の工事が施工された当寺の天井裏です。その天井の真上あたりに白い紙でまかれたなにやら怪しげな木片がありました。吊るしていた紐がほどけて今にも落ちそうになっていましたので、私が気にしまして、なんとかきちんと縛り付け直してもらえないものかと、現場監督さんに頼みましたところ、このようにしっかりと麻紐でくくり直してくれました。かなり高い位置にありましたのでなかなか大変だったと思いますが、有難いことでした。こういうちょっとした気概も、受け継がれた職人魂かもしれませんね。