4月7日(金)【川崎の事件に思うー罪を犯せし人の親の願い】
小学三年生の少年、山川雄樹君はその命を一瞬にして奪われてしまった。先月20日の午後、少年の住むマンションの15階から落とされてしまったのである。その犯人、今井健詞(41)が自ら出頭してから一週間ほどがたつ。(4月2日自首)
私は雄樹君のために一文を捧げたいと願ったのであるが、なかなかに書きすすめることができなかった。テレビに映し出される元気な坊やの姿に、心から胸が痛い。なんの科もない幼い子を傷めるようなむごいことを、人間が、どうしてできるのであろうか。
雄樹君の親御さんたちはどんな思いで今夜も過ごしていることだろう。
このようなむごい果を引き起こした原因は何であるのか、なんとか解明はできないものであろうか。おそらく幼児期や少年期まで遡る必要があるのではなかろうか。バブルの前頃までこのような事件はほとんどなかったのではと推察する。
このような無差別な事件を犯した犯人の幼児期や少年期を、調査してその結果を公表することはできないものであろうか。社会が共有する警鐘として、調査結果を公表したらどうだろうか、と考える。二度とこのような事件が起こらないように、社会全体でなんとかくい止めることはできないものだろうか。被害者は全ての人であり、加害者も全ての責任と認識することはできないだろうか。
親や周りが、なんでも、子供の言いなりになっているようなことではいけないだろう。なんでも思い通りになると思っていた子供が、やがて大人になって自分の思う通りにならなくなると、精神のバランスを欠いてしまうこともあろう。10歳までに、人生は自分の思い通りにならないことを、教えることは大事だろう。食事についても、出来る限り、家の手料理を食べさせるようにしてあげることが大事だろう。攻撃的なテレビゲームも、子供の脳を破壊しているように思えてならない。等々、社会が注意するべきいくつかのことが考えられる。被害者はいうに及ばず、加害者も実は被害者ではなかろうか。
それにしても犯人には、三人の子どもさえいるというが、その子たちはこれからどうやって生きていけばよいのだろうか。お父さんが殺人者となってしまって、彼等の苦しみはいかばかりか、気の毒でたまらない。今頃どんな思いで過ごしているのだろう。
私は変なことが気になっているのだが、それはこの犯人の名前である。特に健詞の「詞」の字である。言偏の詞はあまり名前に使われない字ではなかろうか。おそらく姓名判断で、良い画数と言われる画数にあわせて使われたのではないだろうか。親はどんなにか我が子に幸せな人生を送ってもらいたいと願ったことだろう、と私は想像するのだ。健康な子に育ってほしいとも願ったのだろう。
まさか殺人者になろうとは夢にも思えなかったであろう。
帰りの電車の中で、ベビーカーの中で、すやすやと寝入っている赤ちゃんに会った。ベビーカーにかけてある蒲團から、ちょこっと小さな掌を丸めて出しているのが、なんとも言えず可愛らしくて思わず笑みがこぼれてしまった。
犯人にも、この赤ちゃんのように可愛らしいときがあったに違いない。親は、この子に優しい人になってね、と願ったときもあったに違いない。しかしその親の愛のどこかに、このような犯人をうんでしまう萌芽があったのかもしれない。むごいようであるが、遡ってそこまで考えることが必要なのではないだろうか。このような事件が起こる度に何時でも思うことである。子供に幸せになってもらいたい、と願ったに違いない犯人の親の願いを考えると、辛いものがある。なぜこんなことをしてしまったのだろうか。
雄樹君の冥福を心から願っている。元気な命の火を次の命にバトンタッチして、もう一度人生を楽しんで貰いたい。輪廻転生があってほしいものだ。明日は釈尊の降誕會である。
小学三年生の少年、山川雄樹君はその命を一瞬にして奪われてしまった。先月20日の午後、少年の住むマンションの15階から落とされてしまったのである。その犯人、今井健詞(41)が自ら出頭してから一週間ほどがたつ。(4月2日自首)
私は雄樹君のために一文を捧げたいと願ったのであるが、なかなかに書きすすめることができなかった。テレビに映し出される元気な坊やの姿に、心から胸が痛い。なんの科もない幼い子を傷めるようなむごいことを、人間が、どうしてできるのであろうか。
雄樹君の親御さんたちはどんな思いで今夜も過ごしていることだろう。
このようなむごい果を引き起こした原因は何であるのか、なんとか解明はできないものであろうか。おそらく幼児期や少年期まで遡る必要があるのではなかろうか。バブルの前頃までこのような事件はほとんどなかったのではと推察する。
このような無差別な事件を犯した犯人の幼児期や少年期を、調査してその結果を公表することはできないものであろうか。社会が共有する警鐘として、調査結果を公表したらどうだろうか、と考える。二度とこのような事件が起こらないように、社会全体でなんとかくい止めることはできないものだろうか。被害者は全ての人であり、加害者も全ての責任と認識することはできないだろうか。
親や周りが、なんでも、子供の言いなりになっているようなことではいけないだろう。なんでも思い通りになると思っていた子供が、やがて大人になって自分の思う通りにならなくなると、精神のバランスを欠いてしまうこともあろう。10歳までに、人生は自分の思い通りにならないことを、教えることは大事だろう。食事についても、出来る限り、家の手料理を食べさせるようにしてあげることが大事だろう。攻撃的なテレビゲームも、子供の脳を破壊しているように思えてならない。等々、社会が注意するべきいくつかのことが考えられる。被害者はいうに及ばず、加害者も実は被害者ではなかろうか。
それにしても犯人には、三人の子どもさえいるというが、その子たちはこれからどうやって生きていけばよいのだろうか。お父さんが殺人者となってしまって、彼等の苦しみはいかばかりか、気の毒でたまらない。今頃どんな思いで過ごしているのだろう。
私は変なことが気になっているのだが、それはこの犯人の名前である。特に健詞の「詞」の字である。言偏の詞はあまり名前に使われない字ではなかろうか。おそらく姓名判断で、良い画数と言われる画数にあわせて使われたのではないだろうか。親はどんなにか我が子に幸せな人生を送ってもらいたいと願ったことだろう、と私は想像するのだ。健康な子に育ってほしいとも願ったのだろう。
まさか殺人者になろうとは夢にも思えなかったであろう。
帰りの電車の中で、ベビーカーの中で、すやすやと寝入っている赤ちゃんに会った。ベビーカーにかけてある蒲團から、ちょこっと小さな掌を丸めて出しているのが、なんとも言えず可愛らしくて思わず笑みがこぼれてしまった。
犯人にも、この赤ちゃんのように可愛らしいときがあったに違いない。親は、この子に優しい人になってね、と願ったときもあったに違いない。しかしその親の愛のどこかに、このような犯人をうんでしまう萌芽があったのかもしれない。むごいようであるが、遡ってそこまで考えることが必要なのではないだろうか。このような事件が起こる度に何時でも思うことである。子供に幸せになってもらいたい、と願ったに違いない犯人の親の願いを考えると、辛いものがある。なぜこんなことをしてしまったのだろうか。
雄樹君の冥福を心から願っている。元気な命の火を次の命にバトンタッチして、もう一度人生を楽しんで貰いたい。輪廻転生があってほしいものだ。明日は釈尊の降誕會である。