60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

偏屈

2013年08月09日 08時35分13秒 | Weblog
 先日、よく行く会社近くの喫茶店の店主(女性)に、「男の人は、歳を取ると不機嫌さを露骨にみせる人が多くなるけど、なぜなの?」と質問を受けた。「はて???」、一瞬何のことだろうと考えてしまう。そう言われれば、年寄りで偉ぶった態度で、何時も不機嫌そうにしている人が多いように思う。コンビにでも、飲食店でも、電車の中でもムスッとした顔で、「俺に近づくな!」的なオーラをまとっている人は確かにいる。歳を取ると男は偏屈になり、女はますます口うるさくなると言うが、こういうことを言っているのかと思ってしまう。多分そういう男性は、仕事をしていたときは組織の順位付けの中で「俺は偉いんだ」と思っていた人、歳と共に「自分は偉くなったんだ」と錯覚している人達だろう。しかしリタイアしてからは威張る場所がなくなり、歳とともに周りから阻害されてしまう。そんなことから世間に対して自分の権威を誇示し、偉そうな態度を作っているのかもしれない。それが傍から見ると不機嫌さに見えるのだろう。

 振り返って見ると、自分自身もそういう面があるのかもしれない。私の場合は周りに偉そうな態度は取らないが、社会生活の中で怒りの頻度が多くなったように思う。
 最近の例を2、3挙げてみる。通勤で使う最寄り駅で改札機にカードを当てたフリをして、強引に通り抜ける若者を見つけた。最初はたまたまなのかと思ったが、後日に再度その光景を見たとき怒りがこみ上げてきた。そして3度目その若者を呼びとめ、「今不正乗車しただろう!」と問いただした。「いや、ちゃんとカードで入りましたよ」と言う。「私はあなたが改札機の警告音が鳴ったのに強引に入ったのを3度見ている。正式に入ったかどうかは駅員にカードを調べてもらえばわかるから」そう言って、その若者の腕をつかんで改札の駅員詰め所へ連れて行こうとした。「勘弁してくださいよ」、そう言いながら若者は私の手を振り払ってホームへ向かって走り去った。私には後を追いかけるまでの気持ちも意地も無い。その後その若者を見ることはない。

 もう一つ、毎朝池袋のコーヒーショップで珈琲を飲んでいる。ある朝、コーヒー回数券(1000円)を買ったとき一万円札を出した。その時レジ係り(30代男性)が、「今五千円札を切らしているので千円札になってしまいます」と言う。「かまわないよ」と言うと、レジから千円札を出してカウンターの上に並べ始めた。札と札の間を2センチずつずらして5枚並べる。そして今度は5枚目と6枚目を完全に切り離して残りの4枚を並べていった。さすがにこんなバカなことに付き合わされることにムッとなって、「幼稚園児にお釣を渡しているのではないのだから、束ねて数えたら!」と言う。それに対して店員は「これはマニュアルですから」と平然と答えた。「マニュアルが絶対ではないんだよ。朝の忙しいとき臨機応変に運用するのがマニュアル。もう少し相手を見て考えたら」と、捨て台詞を吐いてその場を離れた。

 それから最近よくやるのが、信号機の無い道で、自動車が来るのが分かっていて、わざと横断歩道を渡ってブレーキを踏ませることである。当然車の直前を渡るのだからリスクが伴う。走って来る車のスピードと渡りはじめるタイミングとを計り、相手が車を止めることのできる間合いで、平然とした体で渡るのである。しかし万が一の時を考えて全神経を張って、いつでも飛びのくことも意識している。なぜそこまでしてこんな事をするのか?、それは横断歩道で歩行者優先の原則を無視する運転者があまりにも多いからである。歩行者の方が車が通り過ぎるのを待つのが当然と思っているのか、時に横断歩道を渡る歩行者にクラクションを鳴らす運転者までいる。これが許せない。これが私の怒りになる。
 
 若い頃だと受け流せたり、無視したり、気にもしなかった事が、歳を取ってくるとやたらに気になるようになる。そしてそれが次第に怒りになって一言言わないと気が済まなくなってくるのである。なぜそうなるのか、その理由は自分でも分からない。年齢と共に融通が利かなく偏屈になるのか?、それとも社会の中で自分の存在意義が薄れてくるため、その存在意義を取り戻そうとしているか?
 時代は高齢化社会になり、これからは益々年寄りの比率が増してくる。そんな中で年寄りが不機嫌だったり、偏屈だとすると国全体から明るさがなくなってしまう。年寄りは年寄りとしての存在意義をどう確立していくか?、どう生き生きと暮らしていくか?、そんなことを一人一人が意識していく時代のように思ってしまう。