60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

2013年08月16日 09時11分50秒 | Weblog
 上の娘が先月末、陣痛から30時間にも及ぶ苦闘のあと2900gの女の子を出産した。その後5日間入院、先週から産後の里帰りで今は家にいる。家に戻ってきた当初は精根使い果たしたのか、母子共にボロボロの状態に見えた。出産時の痛みと不安で精神状態も最悪で、家に戻ってきてからも過呼吸や幻聴もしばしばあったようである。睡眠不足で朦朧とした意識、疲れと貧血から眩暈がある中、それでも2~3時間毎の授乳である。見ているこちらの方が痛々しく、果たして娘は立ち直れるのか、子供は育つのかと不安でもある。

 母乳が足らないようで、今は毎回30~50mlのミルクを足している。私も昔取った杵柄で夜はミルクを作り哺乳瓶で飲ませるようにしている。抱けば口をモゴモゴさせて乳首を捜している様子、それが見つからなければやがて泣き出してしまう。乳首を口に当ててやれば勢いよくすい始める。そして疲れてしまうのか、休み休みになり、やがて乳首を吐き出してしまう。お腹が空けば泣き、お腹がいっぱいになれば寝る。これは母親の胎内にいた時の延長線上なのだろう。今はただひたすら自らの遺伝子の発現に身をゆだね、己の成長を待っているような感じである。

 毎日1回でも抱いていると、赤ん坊の日々の変化が見て取れる。シワクチャだった肌は日1日と艶を増してきて張りが出てくる。こちらを見つめる視線はおぼろげなのだろうが、次第に時間が長く落ち着いた雰囲気になり、時にニコッと笑ったような表情に見えることがある。この小さな命、誰かが支えてやらない限り維持することさえ不可能である。強烈な陣痛を伴う出産、睡眠もままならぬ間隔での授乳、寝ても起きても赤ん坊のことから目を離すことが出来ない。そんな自然の仕組みから、母親は「この子は私が守るのだ」と言う、強い自覚を持っていくのであろう。そこには男に太刀打ちできない執念のようなものさえ感じる。そしてそんな時間の経過が母性を芽生えさせ、母親に確固たる自己の存在理由ができあがっていくのであろう。

 今、甲斐甲斐しく赤ん坊の世話をする娘を見ていると、不思議な感覚になる。幼稚園まで迎えに行った時の娘、部活で遅く学校から帰ってくる娘、友達と泊りがけで旅行に行くようになった娘、就職してからはしょっちゅう駅まで迎えに行った娘、今その娘が赤ん坊に優しく声をかけながら、ベビーバスで沐浴をさせている。この孫娘が娘と同じような経過をたどって成人していくのは20年先である。時間の経過は短いようでもあり長くもある。この先どこまでこの子を見守れるのかは分からないが、今は母子ともに明るく健やかに成長して欲しいものだと思うだけである。

 さて、私にとっては初孫である。しかし今の私には可愛いとか、愛おしいとかはいう感情はあまりなく、この子が特別な存在という実感も湧かない。それは母親になった娘とその旦那と言う当事者、そして今は自分のことのよう世話をする女房の陰で、そっと垣間見ているだけの存在だからであろう。もう少し時間が経過して、この子が笑い始め、歩き始め、話し始めて初めてその実感が湧いてくるのかも知れない。