monologue
夜明けに向けて
 

  


当時の東川口病院の誇ったレジェンド(伝説)医師として今も語り継がれる藤原脳外科医は、術後の脳の中身が治るのに一ケ月ほどかかるので元の穴の開いた場所に嵌めこむ骨をその間どこかに保管しなければならないのだがその切り取った右脳の骨の保管場所はどこがいいかと、手術中に尋ねる。わたしは朦朧とした意識の中でそんなもの当然冷蔵庫に入れておくものだろうと考えていた。ところが、藤原医師は、もし冷蔵庫に保管した場合、なんらかの菌による汚染、腐敗、劣化、感染などなど予測できない不具合が起こる可能性があるという。しかしながらもし、自分自身の体内に保存しておくと腐ることなくそんな危険を避けることができる。脳が治って時がくればその骨を保管した場所から取り出して元の頭の穴に嵌めれば不具合が回避できるので太腿が一番保存にむいている。どっちの脚がいいかと問う。
わたしは初めての経験なのでどんなことをするのかよくわからないまま、とにかく以前、頚を怪我して身体の右側が麻痺しているので右の太腿にお願いしますと頼んだ。すると藤原医師はホッとしたように、それではと道具を用意してわたしの右脚の太腿部を注意深く切り裂いた。わたしはそれでもまだ体内に頭の骨を保存するということばの意味がよくわからないまま麻酔状態で朦朧と手術を受けた。医師は縦に切り裂いて開いた太腿の中に手際よく、丸く切り取ってあった右脳の蓋になる骨を埋め込んだ。無影灯のまぶしい光の中でわたしが目覚めると藤原医師が待っていたように微笑んで手術がうまくいって成功したと告げてくれた。脳が治るのは一か月くらいはかかるからその頃、腿を切り開いて埋めた骨を取り出して頭に開いている穴に嵌めこみ塞ぐ手術をしようという。わたしは茫然としたまま礼も言えずにただうなづいていた。
fumio

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シンガポールでの国際音楽フェステイバルに日本代表として参加して帰国後NHKのテレビ放送が火付け役になったようであちこちで引っ張り凧になって、読売新聞主催の作詞コンクールで優勝した作品に曲をつけてほしいと頼まれてギターの弾き語りで歌ったりするライヴツアーのような生活をしていて浮かれているとあまり期間をおかずに脳卒中を発症してしまったのだ。日の昇る国に修行にきたのだからしかたがないのだが、その日、わたしは自宅で自作の歌を何度も録音し直してヘトヘトになって熱い風呂に入った。長くつかり過ぎていたらしい。湯あたりでボーとしてきた。風呂からあがろうとしても立ち上がれなくなっていた。頭がのぼせて足で風呂桶をまたぐのはもう無理になっていた。そのまま洗い場に倒れ込んで脱出した。尺取虫のように壁際まで進んで湯気の中でのびていた。そのとき、息子が学校から帰ってきて風呂場に倒れているわたしを見つけソファベッドに横たえた。翌朝、妻はわたしが白眼をむいて尿失禁しているのに気づいて救急車を呼んだのだ。東川口病院で藤原脳外科医師が頭を開くと血液が脳全体にまわっていた。脳内出血だった。妻はその血の量に愕然とした。出血後、二三時間置いておいても危ないのに一晩寝ていたので広範囲に血がまわってしまっていたのだ。息子はまだ中学生なので子供には見せられないということで血だらけのわたしの脳を見せてもらえなかったからがっかりしていた。妻が手術承認のサインをすると頭蓋骨を切り取り血を抜く手術が行われたのだった。藤原医師はこれは脳卒中発症後あまりにも長い時間寝かしすぎて出血がひど過ぎるから自分ひとりではとても無理だから東京の病院から腕のいい友達を呼ぶといって電話した。それでその仲のいい二人でわたしの頭蓋骨を切り取り、血を抜き脳の中身が治癒したのちにきちんとその骨を元のその場所にうまく嵌めこめるように緊急の難手術を行ったのだ。幸い二人とも息が合ってすごく腕が良かったので成功したのである。
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ホピインデイアンが予言したように1986年5月、わたしは日の昇る国に修行に出てまず原子力や核関連の知識を当時出版されていた多くの書物で深めるとすぐに首の骨を損傷した。それがこのグローバルプロジェクトの重要なプロットになっていて、北米先住民ホピ族のいう大きな世界的規模音楽イベントに出場を果たすことができたのだった。シンガポールから8月に帰国すると9月にNHKテレビでその音楽祭の番組が放映され、その後、東京府中の森芸術劇場、奈良、渋谷、川口、飛騨高山、日玉の国音楽祭などなど様々なイベントに招かれパフォーマンスを行った。そんな忙しい日々が終って間もない11月のある日、まるで修行の一環として予定されていたように風呂場で脳出血が起こり倒れたのだった。運び込まれた東川口病院で藤原医師によって緊急開頭手術が行われた。それはうれしくないけれど必要な修行のひとつだったらしい。
fumio

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地球の最初の文明アトランティス水没後のサイリュート文明が途中で頓挫して洗い禊ぐために水没して再起動後の地球に蒔かれた人類が現代文明を築いて今日まで進んできたのだがやはりサイリュート文明で起きた様々な問題に現在直面してこのままゆけばふたたび水没せねばならないのだがもう地球には再起動するだけの余力が残っていないので絶滅することになる。なんとしてもそれを誠と真実を共有する人類みんなで避けねばならない。
fumio

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各々の属性に従って根城の社や祠を後にした。 彼らの全てが「祖土(オヤツチ)」の思いと願いを明確に理解していた。 例え人の心が荒んでいて誠も真実も見いだすことが難しい状況であったとしても、残された誠と真実を燈火の燃料として最大限に戦うという。

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今回のプロジェクトはすべての誠と真実をもつ意識が参加する。社も祠も日本のみならず海外にも存在する。表面だけで実は誠も真実もない方は、ご遠慮願ってお呼びがかからないが今回はしかたない。
fumio


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「第一回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」は本当に多民族の集まる祭典だった。
中国だけでも本土と上海や香港、台湾などから来ていてわたしが英語で普通に会話すると不思議そうだった。
日本人は英語が話せないという古い先入観を持っているのだ。同じバスで市内巡りをしているときみんなでギターを弾いて盛り上がった。だれかがビートルズの「ミッシェル」を弾きだしてだんだんみんなの合奏になると演奏だけではつまらないし途中でフランス語が出てきてむずかしいからだれか歌えるものが歌えというのでわたしが歌ってみせた。従来の日本人に対する見方がちょっと変わったようで楽しい虹のダイバーシテイ交際だった。
fumio

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カイとしてカイである者、真珠の泡沫に乗り虹の光彩を得るだろう。
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1989年に催された「第15回記念わたぼうし音楽祭」で大賞を与えられたわたしたち一行は2年後、1991年8月、シンガポール国立劇場、カランシアターで開催された「第一回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」に日本代表として出場した。ホピ族は世界的音楽イベントに出場するTRUE WHITE BROHERたち三人はそれぞれに十、卍、☆のシンボルマークが見えるということだったがイントロのナレーション担当の少年はバプティスト教会で洗礼を受けたので十字、リードシンガーは卍字、わたしは竹下通りのプロダクション「ホワイト・エレガンス」で芸能活動していたのでWHITE BROHERということになるがカイとしてカイである者は☆(messiah of exection)がシンボルマークなのでアリオンのいうようにこの音楽祭で虹(ダイバーシティ)すなわち、多民族のレインボーカラーの光彩(交際)を得たのだった。
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北米先住民ホピ(平和の民)族がいう大きな世界的規模音楽イベントとは「第一回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」のことだがそれに出場することが地球救済プロジェクトの重要なプロットになっているのでどうしても参加しなければならなかった。そのために無理矢理のような方法で障がい者という参加資格を満たしたのだった。障碍者としての修行は武蔵村山病院のリハビリ病棟で始まった。体幹神経を負傷した多くの人々が厳しいリハビリに日々を過ごしていた。同病相憐れむというように愚痴を言い合って集っていた。これという娯楽らしい娯楽はなかったがそれでも将棋が流行っていた。それでわたしは毎日消灯時間に自室で詰将棋を作った。朝一番に食堂に行って作った詰将棋を将棋盤上に並べて置いた。すると三々五々集まって来た人々がみんなで知恵を絞って解いた。そのようにして毎日詰将棋クイズを食堂のテーブルに置いておくとみんなが楽しみにして食堂に来るようになった。簡単すぎるともっと難しい問題を作れとリクエストされるようになった。わたしにはそれはそれで楽しい和気あいあいとしたリハビリ療養生活だった。
fumio

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北米先住民ホピ(平和の民)族は大きな世界的規模音楽イベントに出場するTRUE WHITE BROHERたち三人が地球の危機を救うと予言していた。その三人はそれぞれに十、卍、☆のマークシンボルを背負うということだった。ホピインデイアンの予言するように日の昇る国へ修行に来たわたしは「わたぼうし音楽祭」に応募する時、米国ハリウッドにおいて自分のレーベルでシングルやロックアルバムなどを作っていたのでわたしのようなミュージシャンがこのコンテストに参加していいのかどうか心配だった。しかしながら、反核の舞台稽古で思いもよらない手荒い方法で頸椎を損傷したことで障がい者という出場資格を得たのだった。修行なのだから仕方がないが大変だった。
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代表  



1989年、奈良で開催された 「第15回記念わたぼうし音楽祭」 というコンテストに参加したわたしは「わかりあえる日まで」という歌で作詞賞、作曲賞、NHK賞、わたぼうし大賞を与えられた。その年、大賞に選ばれた作品は1991年にシンガポールで開催される「第1回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」の日本代表曲になるということになっていた。
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応募  


わたしは渋谷の稽古場から救急車で搬送された第三北品川病院で頸椎の緊急手術を受けてある程度回復すると武蔵村山病院のリハビリ病棟へ送られた。楽しいリハビリ療養生活が終わると妻が迎えに来て車中でボン・ジョビというロックバンドのカセットをかけてくれた。それがわたしにとってボン・ジョビの聴き初めだった。それから、ボン・ジョビは人気があるのでわたしもリクエストされてギターの弾き語りでよく歌うことになった。
そして1989年のある日、毎日新聞に「わたぼうし音楽祭」という障がい者の音楽コンテストが奈良で開催されるという記事が掲載された。その記事に触発されて、わたしはコンピューターで数曲作って応募してみた。すると、次の時代の合言葉となるダイバーシティ(多様性)をテーマにした作品「わかりあえる日まで」が一次審査を通過して本番のコンテストで演奏される候補作品10曲のうちの一曲に選ばれたのだ。
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地球救済委員会の宇宙神霊アリオンから見ると別動隊ということになるのだがその頃わたしは反原子力関係の劇の舞台稽古に身を入れていた。1988年9月14日午後9時過ぎ、窓からJRを臨む渋谷の稽古場で、原発ジプシーと呼ばれる役の若者たちが原子力博士役のわたしを何度も胴上げから放り投げた。そのたびに回転して立ち上がっていたわたしはついには額から落ちて頸椎を損傷した。それから首から下が不自由になったのだ。今にしてみれば驚いたことにそれが地球救済プロジェクトの重要なプロットになっていたのである。
fumio

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