monologue
夜明けに向けて
 



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岩倉  


わが友、大島純男が編集した「森寛子 父・岩倉具視の「喰違坂の遭難」を語る ほか」という本が届いた。 
征韓論で賑わった嵐の時代、西郷隆盛や大久保利通などの関わっていた歴史の重要な場面。
五百円札のモデルとして知られる岩倉具視が赤坂の喰違坂で暗殺されそうになった事件についての本だった。
よく死ななかったものだと思う。
fumio


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米国で最もめでたい日は7月4日「ジュライ・フォース」と呼ばれる独立記念日である。普段禁止されている爆竹もその日と元旦だけはOKでみんなで騒いで祝うのだ。それでクラスメイトが独立記念日に生まれるかもしれないねとみんなで冗談を言っていたものだった。
その年、1978年7月4日、米国独立記念日、わたしがエンターティナーの仕事から帰宅してしばらくして午前3時くらいに臨月を迎えていた妻が腹が痛いと訴えた。すぐに南カリフォルニア大学University of Southern California(USC)ジェネラルホスピタルへ車に乗せて行った。すると出産は隣のウィメンズホスピタルで行うとのことだった。大きな腹を抱えたラテン系の妊婦で賑わう待合室で妻があせって、もう生まれると言っても看護婦はゆうゆうとしてまだまだととりあってくれない。妊婦の人数がだんだん減ってやがて看護婦が妻を連れて行った。わたしは妻が出産に立ち会ってほしがっているからと立ち会いを頼んだが断られた。立ち会うためには前もってそのためのコースを受講しなければいけなかったという。妻はストレッチャーに乗せられて産科に入って行きわたしは置いてある簡単な緑色の手術着のような服を着て産褥部屋の外でドアの前で立ちつくした。受付のあたりで時間をつぶして待っていると午後5時くらいに名前を呼ばれた。新生児室には多くの赤ん坊が紙おむつ姿でうつ伏せに寝ていた。ガラス越しにわが子を探した。他の子よりかなり小さい子がそうらしかった。ラテン系の子はみんな大きく見えた。腕に巻かれたネーム票を確認して看護婦に告げると妻のいる分娩室に連れて入れてくれた。初対面のちっちゃな赤ん坊はキョトンとした顔をしていた。髪がナポレオンのような形に生えて宇宙人みたいにみえた。体重2700gぐらいで抱くとずいぶん軽かった。産婦は体調が回復するまで入院することなくみんなすぐに退院する。それでそのままヘトヘトの妻を乗せて車で帰宅した。アメリカの女性は自分で車でやって来て出産すると自分で車を運転して帰る人もいるということだった。 とにもかくにも息子はアメリカ中の人が毎年祝ってくれる独立記念日を選んで生まれて来たのである。
誕生日おめでとうね。アメリカ中がHappy birth day!ときみを祝福しているよ。
fumio


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