空手キッドブームの時、息子が練習した沖縄空手少林流道場の太田英八先生の奥さんは以前ピアノバーでエンターティナーをしていた人だったのでわたしと顔なじみだった。それで家に行くと立派なカラオケセットがあった。太田先生は日本へ帰国するわたしたちのために一曲、餞(はなむけ)に歌を歌い、わたしもお返しに一曲歌った。太田英八先生は普段もこわい顔をこわばらせて怒ったような表情で別れの言葉を息子にかけてくれた。かれは感情がこみあげるとそんな顔になるようだった。
そのようにして1976年に昇ったわたしの「カリフォルニア・サンシャイン」は十年の間輝き続け数え切れない思い出を抱いてマリブの海に沈んでいった。やがてそれは日本の東の空に昇る日となりわたしは今度は日本からその旭を見上げることになるのである。
fumio
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