”記録なんて練習の時点で分りきってる。それをただ証明するだけ、それがレース”
それが自分にとってのマラソン大会の持論だ。
如何に苦しみ、如何に追い込むか、そそうすれば自分がどれだけ走れるのかおおよそ想像がつく。
そこで苦しんだ分レースは楽しもうと、今までも、そしてこれからもレースを走り続けようと、密かに思っていた。
しかし、寄る年波。
怪我の連続で、楽しく走れる回数は激減。
苦しみとは怪我との戦いとなりつつあり、心肺だとか走力の為の苦しむ練習はやがて影を潜めた。
そこへきてこのコロナだ。
開催される大会も激減どころか、無いに等しい状況に。
切れ味鋭い日本刀でスパンと切り落とされるように、何もなくなってしまった。
こんな状況がいつまでも続く訳がないと、一年が過ぎ二年目も変わらず、そして三年、四年と無限ループ状態。
そんな世界を襲った危機を、偽物の毒を注入することによって免疫とやらを獲得し、本物の毒から守る予防法が確立。
ワクチンは世界を救った、そんな風に見せかけている。
実は毒、未だに衰えることなく、進化を続けいつでも人類を飲みこもうと画策しているようだ。
それにまた対抗すべく、研究者は毒の弱点を追い求め続けているという、鼬ごっこ。
さて、それではマラソン大会の行く末は?
経済活動を優先した社会において、それに追従しようとレジャー業界も躍起になる中、イベントの開催も経済の復活に一役買うと徐々に観客数も参加者もその数が制限から緩和へと方向転換されようとしている。
そした状況を鑑みたのか、ポツリポツリと開催される大会が増えるてくる。
それはそれで歓迎すべきことだ。
ただ、要項を見ると開催に向けては様々な制限も存在することは事実であり、”自由気ままな大会”とはいかないようだ。
”檻の中の大会”とまでは言わないが、毒に脅かされての開催であることは致し方ないことか。
それでも情熱の冷めなかったランナーは走る。
一番大切な口元を不織布で被われながらも必死に息を吸い、窮屈な制限の中をもがくように走る。
そんなランナーを見るうちに、もう必死になって結果を求めるのは止めようと思っていた自分も、またあの苦しみの中に身を投じ、そして結果の知れたレースを走ろうかと思い立つのだ。

そうしてエントリーした大会ひとつ。
ハーフの距離だが、かなり強烈な坂が名物の大会だということらしい。
以前だったらもう走れる準備に気を使うこともなく、”槍でも鉄砲でも持ってこい”と、普段の練習を続けているだけだった。
しかし、いかんせん何年もろくな練習もせず、気持ちもからだも緩み、持ち合わせているのは昔あった記憶だけ。
実力以外の何物も手助けしてくれないレースの世界に記憶だけで臨むのは正しく自殺行為。
走り通すことは無理。
トボトボと歩きながらでもゴールラインを越えるすることさえ難しく、情けなさに打ちのめされるだけのレースに意味はない。
ならばとここ一ヶ月、長い距離も坂も息を切らし、目を白黒させながらも時間の許す限り走り続けた。
するとモチベーションとは反比例して右肩上がりに増えていった体重も減りつつ、たるんだ筋肉も締まってきたように思えていた。
そうして大会まであと6週間。
ここからもう一段気合を入れなおし、さて、と言う気持ちになったその途端、あるニュースが飛び込んできた。

なんとエントリーしていた大会が急遽中止になったと。
愕然とした。
きっと数少ない大会だ。
この時ばかりにと、申し込んだランナーも多かったことだろう。
それに向けて頑張ってきたランナー達。
自分を含めて、またかと相当な勢いで落胆しただろう。
黒く濁ったため息は、口の中のすべてを苦くさせた。
その理由がいかにも馬鹿げているからだ。
”コース上の橋が壊れた”
”たったそんなことで中止など得ない”と言っては何だが、ならば迂回コース、又はコース全体を変更するだけの時間はまだあるはずではないか。
事情が事情なら、そのくらいの変更で不満を口にする者も少ないのではないかと思う。
むしろ、安易に中止にしてしまうことを不満に思う者(もちろん自分を含め)の方が多いのではないだろうか。
ありふれる大会のあったあの頃ならまだいざ知らず、これでやっと大会を走れると消えかかっていたランナーの情熱を、集中豪雨よろし完全な消火活動にかかるとは、主催者の無責任さに閉口するばかりだ。
コロナだからと、いとも簡単に大会を締めても苦情の出ない事にきっと慣れてしまったのだろう。
理由さえ付ければどうにでもなると。
そんな風潮では今後、何を信じてエントリー費を振り込んでいいのか分からない。
今時、信じられるものはなにひとつない、信じたばかりに詐欺被害に遭う、それと全く同じ状況ではないか。
もう、何度痛い目にあったのか。
悲しいほど痛めつけられた。
その度に沈んでいくランナーとしての気持ち。
悔しさよりも諦めが心の中を占めている。
さて、これからどうする。
息を切らして走る意味もなくなってしまった今、再びウォーカーにもどるのか、それともごろ寝愛好家に成り下がるのか、深い暗黒の世界に紛れ込んでしまったようだ。
それが自分にとってのマラソン大会の持論だ。
如何に苦しみ、如何に追い込むか、そそうすれば自分がどれだけ走れるのかおおよそ想像がつく。
そこで苦しんだ分レースは楽しもうと、今までも、そしてこれからもレースを走り続けようと、密かに思っていた。
しかし、寄る年波。
怪我の連続で、楽しく走れる回数は激減。
苦しみとは怪我との戦いとなりつつあり、心肺だとか走力の為の苦しむ練習はやがて影を潜めた。
そこへきてこのコロナだ。
開催される大会も激減どころか、無いに等しい状況に。
切れ味鋭い日本刀でスパンと切り落とされるように、何もなくなってしまった。
こんな状況がいつまでも続く訳がないと、一年が過ぎ二年目も変わらず、そして三年、四年と無限ループ状態。
そんな世界を襲った危機を、偽物の毒を注入することによって免疫とやらを獲得し、本物の毒から守る予防法が確立。
ワクチンは世界を救った、そんな風に見せかけている。
実は毒、未だに衰えることなく、進化を続けいつでも人類を飲みこもうと画策しているようだ。
それにまた対抗すべく、研究者は毒の弱点を追い求め続けているという、鼬ごっこ。
さて、それではマラソン大会の行く末は?
経済活動を優先した社会において、それに追従しようとレジャー業界も躍起になる中、イベントの開催も経済の復活に一役買うと徐々に観客数も参加者もその数が制限から緩和へと方向転換されようとしている。
そした状況を鑑みたのか、ポツリポツリと開催される大会が増えるてくる。
それはそれで歓迎すべきことだ。
ただ、要項を見ると開催に向けては様々な制限も存在することは事実であり、”自由気ままな大会”とはいかないようだ。
”檻の中の大会”とまでは言わないが、毒に脅かされての開催であることは致し方ないことか。
それでも情熱の冷めなかったランナーは走る。
一番大切な口元を不織布で被われながらも必死に息を吸い、窮屈な制限の中をもがくように走る。
そんなランナーを見るうちに、もう必死になって結果を求めるのは止めようと思っていた自分も、またあの苦しみの中に身を投じ、そして結果の知れたレースを走ろうかと思い立つのだ。

そうしてエントリーした大会ひとつ。
ハーフの距離だが、かなり強烈な坂が名物の大会だということらしい。
以前だったらもう走れる準備に気を使うこともなく、”槍でも鉄砲でも持ってこい”と、普段の練習を続けているだけだった。
しかし、いかんせん何年もろくな練習もせず、気持ちもからだも緩み、持ち合わせているのは昔あった記憶だけ。
実力以外の何物も手助けしてくれないレースの世界に記憶だけで臨むのは正しく自殺行為。
走り通すことは無理。
トボトボと歩きながらでもゴールラインを越えるすることさえ難しく、情けなさに打ちのめされるだけのレースに意味はない。
ならばとここ一ヶ月、長い距離も坂も息を切らし、目を白黒させながらも時間の許す限り走り続けた。
するとモチベーションとは反比例して右肩上がりに増えていった体重も減りつつ、たるんだ筋肉も締まってきたように思えていた。
そうして大会まであと6週間。
ここからもう一段気合を入れなおし、さて、と言う気持ちになったその途端、あるニュースが飛び込んできた。

なんとエントリーしていた大会が急遽中止になったと。
愕然とした。
きっと数少ない大会だ。
この時ばかりにと、申し込んだランナーも多かったことだろう。
それに向けて頑張ってきたランナー達。
自分を含めて、またかと相当な勢いで落胆しただろう。
黒く濁ったため息は、口の中のすべてを苦くさせた。
その理由がいかにも馬鹿げているからだ。
”コース上の橋が壊れた”
”たったそんなことで中止など得ない”と言っては何だが、ならば迂回コース、又はコース全体を変更するだけの時間はまだあるはずではないか。
事情が事情なら、そのくらいの変更で不満を口にする者も少ないのではないかと思う。
むしろ、安易に中止にしてしまうことを不満に思う者(もちろん自分を含め)の方が多いのではないだろうか。
ありふれる大会のあったあの頃ならまだいざ知らず、これでやっと大会を走れると消えかかっていたランナーの情熱を、集中豪雨よろし完全な消火活動にかかるとは、主催者の無責任さに閉口するばかりだ。
コロナだからと、いとも簡単に大会を締めても苦情の出ない事にきっと慣れてしまったのだろう。
理由さえ付ければどうにでもなると。
そんな風潮では今後、何を信じてエントリー費を振り込んでいいのか分からない。
今時、信じられるものはなにひとつない、信じたばかりに詐欺被害に遭う、それと全く同じ状況ではないか。
もう、何度痛い目にあったのか。
悲しいほど痛めつけられた。
その度に沈んでいくランナーとしての気持ち。
悔しさよりも諦めが心の中を占めている。
さて、これからどうする。
息を切らして走る意味もなくなってしまった今、再びウォーカーにもどるのか、それともごろ寝愛好家に成り下がるのか、深い暗黒の世界に紛れ込んでしまったようだ。