つい先日、テレビで放映していた「電車男」を観た。
内気のオタクの青年が電車内で酔っ払いから女性を助けたところから始まる邦画。
テレビ版まで作られた人気作だった。
その中で助けられた女性が主人公の青年にエルメスのティーカップを贈るシーン。
エルメス...。
そこからその女性はエルメスという名で呼ばれる。
下世話な話だがそのエルメスのティ―カップっておいくら?

一般的に見ず知らずの人にこれほど高価なお礼を…というところがこの物語の根っこの部分となるわけで。
それはそれなりに納得できるし、だからこそ面白い展開となっていく。
でも、ここで注目したいのはそのエルメスのティーカップでべノアという高級紅茶をいただく、という場面。
そう、かなり豪華なお宅でふたりきり。
彼が帰った後に残された色違いの角砂糖で作られたピラミッド。
それをエルメスは小さな贈り物だという。
グッとくる場面だ。
例えば静かな朝。
夫婦でゆっくりな時間を過ごす。
ふと昔話を切りだすご主人。
随分長く君と過ごしたと。
そうしてお気に入りのコーヒーカップにつがれた挽きたてのコーヒーをひと口すする。

そんな文章を書かれたご婦人を知っている。
時間の流れが実に緩やかに、そして立ち込めるコーヒーの香りが辺り一面に漂う。
窓からさす光が朝もやの中を通り抜けてきたかのように優しく揺らいでいる。
言葉は少ないが言葉以上に何かを語りあっているご夫婦。
時計の時を刻む音だけが鳴り響き、ゆっくり朝のひと時が過ぎてゆく。
活字が映像となって脳裏を駆け巡る瞬間だ。
紅茶は、コーヒーは、そうしてお互いを強く結びつける。
ティーカップは、コーヒーカップはただの器じゃなくって、ただの小道具でもない。
二人を結びつける、二人に共通の時間を演出する、大事な大事なアイテム。
エルメス? ノリタケ? ロイヤルコペンハーゲン? マイセン?
いやいや、そんなに高級じゃなくていい。
気にいったカップならなんでもよろしい。
お気に入りのおそろいのカップ。
いつかは食器棚に何客かそろえたいものである。
内気のオタクの青年が電車内で酔っ払いから女性を助けたところから始まる邦画。
テレビ版まで作られた人気作だった。
その中で助けられた女性が主人公の青年にエルメスのティーカップを贈るシーン。
エルメス...。
そこからその女性はエルメスという名で呼ばれる。
下世話な話だがそのエルメスのティ―カップっておいくら?

一般的に見ず知らずの人にこれほど高価なお礼を…というところがこの物語の根っこの部分となるわけで。
それはそれなりに納得できるし、だからこそ面白い展開となっていく。
でも、ここで注目したいのはそのエルメスのティーカップでべノアという高級紅茶をいただく、という場面。
そう、かなり豪華なお宅でふたりきり。
彼が帰った後に残された色違いの角砂糖で作られたピラミッド。
それをエルメスは小さな贈り物だという。
グッとくる場面だ。
例えば静かな朝。
夫婦でゆっくりな時間を過ごす。
ふと昔話を切りだすご主人。
随分長く君と過ごしたと。
そうしてお気に入りのコーヒーカップにつがれた挽きたてのコーヒーをひと口すする。

そんな文章を書かれたご婦人を知っている。
時間の流れが実に緩やかに、そして立ち込めるコーヒーの香りが辺り一面に漂う。
窓からさす光が朝もやの中を通り抜けてきたかのように優しく揺らいでいる。
言葉は少ないが言葉以上に何かを語りあっているご夫婦。
時計の時を刻む音だけが鳴り響き、ゆっくり朝のひと時が過ぎてゆく。
活字が映像となって脳裏を駆け巡る瞬間だ。
紅茶は、コーヒーは、そうしてお互いを強く結びつける。
ティーカップは、コーヒーカップはただの器じゃなくって、ただの小道具でもない。
二人を結びつける、二人に共通の時間を演出する、大事な大事なアイテム。
エルメス? ノリタケ? ロイヤルコペンハーゲン? マイセン?
いやいや、そんなに高級じゃなくていい。
気にいったカップならなんでもよろしい。
お気に入りのおそろいのカップ。
いつかは食器棚に何客かそろえたいものである。
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