(前の記事からの続き)
人格のアイデンティティである 脳の死が その人の死だとすると、
人格が崩壊してしまったような 認知症の場合はどうでしょう?
重度の認知症でも、 その人の記憶は かすかに残っているでしょうし、
その人独自の 言動はあるので、
脳細胞そのものが死んでいる 脳死とは 次元が異なります。
また、 いわゆる植物状態は 脳死とは違い、
呼吸など 根本的な生命活動を司る 「脳幹」 は生きており、
その人は 自分の力で生きています。
それに対して 脳死とは、
脳幹を含む 脳の全てが 死んだ状態 (全脳死) で、 いわば
人工呼吸器によって 強制的に生かされているとも 言えるような状況です。
では 「無脳児」 はどうでしょう?
先天的に 脳が形成されなかった 胎児で、
生まれたとしても すぐに亡くなってしまいます。
親としてはその子にも 人格を認めたいでしょうが、
本人の意識や自我などは 元々ありません。
理論上は、 脳死を人の死とするのは 合理的だと思います。
( 因みに アメリカの専門家の間では、
植物状態や無脳児から 臓器提供をするという 主張が根強くあるそうです。 )
逆に 心臓死を人の死とすると、 論理的には矛盾も生じてきます。
例えば 人工心臓を埋め込んでいる 人がいるとしたら、
その人の元の心臓は もうないのですから、 その人は “すでに死んでいる” ?
心臓移植を受けた人も “死んでいる” ?
でも 人の死の受容は 論理だけではなく、
情緒的, 感覚的なものでもあるでしょう。
多くの日本人の死生観が 脳死を死と 受け入れられていない現在、
法律で 脳死を人の死と 決めてしまうのは いかがなものかと思えてなりません
眠っているだけとしか思えない 脳死の家族を目の前して、
法律だから死んでいる と言われたら、
死生観 = 信条の自由に 反するのではないでしょうか。
( もちろん 脳死判定や臓器提供を 拒否することはできますが。 )
現行法では、 移植をするときのみ 脳死を人の死とする としています。
人の死が、 その場の恣意的なもので 変わってしまうという 大きな矛盾ですが、
その論理矛盾の方が 実際的であり、 人間的ではないでしょうか。
(次の記事に続く)