「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

脳死は人の死か? (2)

2009年07月17日 21時07分23秒 | Weblog
 
(前の記事からの続き)

 人格のアイデンティティである 脳の死が その人の死だとすると、

 人格が崩壊してしまったような 認知症の場合はどうでしょう? 

 重度の認知症でも、 その人の記憶は かすかに残っているでしょうし、

 その人独自の 言動はあるので、

 脳細胞そのものが死んでいる 脳死とは 次元が異なります。

 また、 いわゆる植物状態は 脳死とは違い、

 呼吸など 根本的な生命活動を司る  「脳幹」 は生きており、

 その人は 自分の力で生きています。

 それに対して 脳死とは、

 脳幹を含む 脳の全てが 死んだ状態 (全脳死) で、 いわば

 人工呼吸器によって 強制的に生かされているとも 言えるような状況です。

 では  「無脳児」 はどうでしょう? 

 先天的に 脳が形成されなかった 胎児で、

 生まれたとしても すぐに亡くなってしまいます。

 親としてはその子にも 人格を認めたいでしょうが、

 本人の意識や自我などは 元々ありません。

 理論上は、 脳死を人の死とするのは 合理的だと思います。

( 因みに アメリカの専門家の間では、

 植物状態や無脳児から 臓器提供をするという 主張が根強くあるそうです。 )

 逆に 心臓死を人の死とすると、 論理的には矛盾も生じてきます。

 例えば 人工心臓を埋め込んでいる 人がいるとしたら、

 その人の元の心臓は もうないのですから、 その人は “すでに死んでいる” ? 

 心臓移植を受けた人も “死んでいる” ? 


 でも 人の死の受容は 論理だけではなく、

 情緒的, 感覚的なものでもあるでしょう。

 多くの日本人の死生観が 脳死を死と 受け入れられていない現在、

 法律で 脳死を人の死と 決めてしまうのは いかがなものかと思えてなりません

 眠っているだけとしか思えない 脳死の家族を目の前して、

 法律だから死んでいる と言われたら、

 死生観 = 信条の自由に 反するのではないでしょうか。

( もちろん 脳死判定や臓器提供を 拒否することはできますが。 )

 現行法では、 移植をするときのみ 脳死を人の死とする としています。

 人の死が、 その場の恣意的なもので 変わってしまうという 大きな矛盾ですが、

 その論理矛盾の方が 実際的であり、 人間的ではないでしょうか。

(次の記事に続く)
 
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脳死は人の死か? (1)

2009年07月17日 00時00分31秒 | Weblog
 
(前の記事からの続き)

 僕は個人的には、 脳死は 論理的に人の死であると 考えていました。

 脳死に関しては、 立花隆の名著 「脳死」 に 大きな影響を受けました。

 「脳死」 は、

 「 初回にかっ飛ばした、 代打満塁場外ホームラン 」 と評されています。

 つまり、 脳死論議が取り上げられ始めた 最も初期に出た本で、

 医学の専門家ではない 立花隆が、 いきなり

 他の追随を許さない 最高峰の著作を 打ち立ててしまったということです。

 脳死という状態は、

 人工呼吸器が誕生して 初めて存在するようになった と言われます。

 事故などで 脳が損傷を受け、 脳死状態になって

 呼吸中枢が働かなくなっても、人工呼吸器によって

 体に酸素が 送られている状態です。

 心臓の筋肉細胞は 自律的に伸縮するので、 脳死になっても 拍動するのです。

 しかし 脳が死んでしまうと、

 心臓をはじめ 全身の機能を 統合・ 調整することができなくなり、

 やがてコントロールを失って 心臓も停止してしまいます。

 一人の人間として生きている 身体の統合作用は、

 脳という中枢の臓器によって なされていると考えられるので、

 脳の死がその人の死だ という筋道になります。

 また 立花隆によれば、 人格のアイデンティティは 脳であり、

 それが死んだときが 個人の死であると考えます。

 例えば、 もしもAさんの脳を Bさんに移植をしたと 仮定すると、

 体はBさんであっても その人はAさんになります。

 言い換えれば、 Aさんに対して、

 脳以外の全臓器を 移植したということになるのです。


 従来の死は、 心臓が止まることで 人が死んだとされていました。

 もっとも 従来の死でも、 心臓が止まると 脳に血液が行かなくなり、

 数分で 脳細胞は死に始めて、 脳死になっていたのです。

 心臓死と脳死の タイムラグがほとんどないので、

 何の問題にも なりませんでしたが、

 立花隆は この脳死の時点が 本来的な死だと言います。

 なお、 脳死の定義は

「 全ての脳の 不可逆的な機能停止 」 とされています。

 しかし立花隆は、 不可逆性を確実にするものとして、

 脳の機能的な死ではなく、 器質的な死とすべきだと 主張しています。

 その条件として、 脳血流の停止を挙げています。

 僕もこれに同意します。

(次の記事に続く)
 
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