一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(上)

2011-01-16 | 乱読日記

 「歴史は繰り返す、ただし二回目は茶番」などとよく引用される元ネタのが冒頭にあるので有名な本です。
それでは、と数年前に読もうとして、当時安価な単行本が出ていなかったので筑摩書房版(2940円)を図書館で借りたものの、期間内に読了できずに挫折したものの今回はリベンジ。
購入可能なのに購入しなかった時点で既に気持ちが負けていたという反省と、今回は平凡社ライブラリーから文庫サイズで出たので再挑戦しました(価格は1575円と半額だったのも小市民的な動機付けにはなりましたw)。

例の冒頭の文章はこういうものです。

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼は高付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。

本書の脚注によると、このヘーゲルの文章は『歴史哲学講義』の中からとったものだそうです。(岩波文庫版があるようですが、そこまでは遡りませんでしたw)

そもそも国家の大変革というものは、それが二度くりかえされるとき、いわば人びとに正しいものとして公認されるようになるのです。ナポレオンが二度敗北したり、ブルボン家が二度追放されたりしたのも、その例です。最初は単なる偶然ないし可能性と思えていたことが、くりかえされることによって、たしかな現実となるのです。


さて、冒頭の一文をクリアしたところで本書に取り組むわけですが、相変わらず読みにくいことこの上ない本です。

本書は1948年の2月革命でフランスに誕生した第二共和制と成立した政府の保守化、そしてルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)の大統領選出と彼による1851年のクーデタによって第二共和政が崩壊するまでを描いてます。

一つは僕がそもそもこの時代の歴史についての知識が欠けているということもあるのですが、本書の文章自体が(当然のことですが)当時の読者を念頭に置いたものであり、またマルクス独特の比喩や皮肉を駆使していて、その当時の登場人物や事実関係を知らないと何を意図しているのかすらわからなくなってしまいます。
訳注は豊富についているのですが、背景の知識がないと実感がわきません。

ということで一休みして、講談社学術新書の『怪帝ナポレオン三世』を先に読みました(この本自体も面白かったのであとでレビューを書きます)。
するとやっと、読み進める気持ちがわいてきました。


本書では、もともとフランスで育ったわけでもなく、二月革命前には2度のクーデタまがいの事件を起こして逮捕されたりイギリスに逃げていたりと、二月革命当時は政治的基盤はゼロに近かったナポレオン三世が大統領になり、クーデタを成功させたかの政治過程を分析しています。

しかしその分析自体も、マルクスの考えが独特のレトリックで表現されているので、けっこうまた苦労します。

そこで、と編集者も思ったのか、今回読んだ平凡社版は、巻末に柄谷行人の40ページにのぼる解説がついています。
当代きっての「マルクス読み」を通してみると、この本の主張と現代政治にも示唆となるところが鮮やかに浮き彫りになり、もう一度本文を読見直してみようという気分になります。


でも、最初の読後感はちょっと違って、階級闘争という構造的な視点からだけの見方には違和感を覚えました。
特に、多分に状況が味方したり結果オーライもあったのでしょうが、ナポレオン3世自身の政治的な読みとポジションの取り方の巧みさ(そのへんは『怪帝ナポレオン三世』に詳しい)も評価する必要があるように思います。


筑摩書房版(悔しかったので一応図書館でもう一度借りてきたw)の解説にはこうあります。

マルクスはすでに1950年、二月革命の発端から1850年11月初めまでの状況を雑誌論文で分析し(これをまとめたものが『フランスにおける階級闘争』)、大統領と議会がやがて妥協することにより、(当時話題になっていた)クーデタが回避される一方、民衆に対する弾圧が徹底し、最終的に新たな革命段階が到来するものと予想していた。彼はそこで、革命直前(1848年2月)に刊行した『共産党宣言』で展開したばかりの階級闘争理論を、革命が後退し、反動化が進んでいく事態の説明にどうにか生かそうと努め、そうした状況を、逆行を通じた革命の前進と解釈したのだった。だが全階級の支持を得てルイ・ボナパルトが大統領に当選していたのだから、階級闘争は、少なくともマルクスから見ればすでに変調を来していたわけであり、このような解釈の有効性は、彼自身にとっても疑わしくなりはじめていたにちがいない。さらに予想に反してクーデタが起こり、しかもこれが重ねて全階級の賛同を得るに至って、マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で、ついに階級闘争が消えてしまった事態を認めざるを得なくなるのである。階級闘争を骨子にした『共産党宣言』の視点からすれば、これでは何とも具合が悪い。そこで彼は、革命がまず議会権力を完成しこれを転覆して、仕事の半分を成し遂げた今、残るのは、執行権力(大統領、政府)を最も単純な形に還元し、これを孤立させて、ここに破壊力を集中することだという展望を示す。
(中略)
『ブリュメール18日』は、したがって、二月革命と第二共和政の分析と革命の展望の点で興味深いだけではない。歴史の進展の中で予想外の要素が発現して、自分が構築した理論が脅かされる事態となり、これと対峙することを余儀なくされた著者の格闘の記録としても読めるのだ。

僕としては、こっちのほうが理解しやすいです。


ただ、柄谷行人は、『ブリュメール18日』はつぎのように読むべきだ、と語ります。

その意味では、本書は『ブリュメール18日』本文と柄谷行人の読み方の二部構成になっているといえます。

なので柄谷行人の「読み方」については、エントリも別立てにすることにします。
(つづく) 




こちらが柄谷行人の解説付きの平凡社ライブラリー




下が筑摩書房版、これには経済学批判要綱「序説」「資本制生産に先行する諸形態」/経済学批判「序言」/資本論第一巻初版第一章もあわせて収録されています。

 

この本は、当時の経緯を比較的詳しく書いてあるとともに、読み物としても面白いです。

コメント
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