一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(下)

2011-01-17 | 乱読日記

後編は、柄谷行人が語る『ブリュメール18日』はどう読まれるべきかについて。

前編では「解説」といいましたが、本の中では「解説」というキャプションはなく「表象と反復」というタイトルの独立した文章になっています。

柄谷は『ブリュメール18日』を『資本論』とともに現代において重要な意味のある著作としています。

1990年代の終わりに「共産主義体制」が崩壊し...民主主義(議会制)と自由主義的市場経済の世界化による楽天的な展望が語られたとき、マルクスの『資本論』や『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』といった著作は最もその意味をなくしてしまったかのように見えた。しかしこれらの著作が鈍い、だが強い光彩をはなちはじめたのはむしろそのときからである。以来われわれが目撃しているのは、世界的な経済の構造的不況と代表制の破綻である。そのことは「左翼」に対して特に希望を与えるものではない。そもそも『資本論』や『ブリュメール18日』という著作は少しも安易な希望を与えるものではない。それらが与えるのはわれわれを強いている現実的条件への透徹した「批判」であり、しかし、それのみが「われわれは何を希望することを許されるか」(カント)を開示するのである。
 
これらの著作が扱っているのは、一種の反復強迫の問題である。『資本論』は、たえまない差異化によって自己増殖しなければならない資本の反復強迫を原理的に解明しようとしている。『ブリュメール18日』は、近代の政治形態が解決できず、さらにそれを解決しようとすることが不可避的に招きよせてしまうそういった反復強迫をヴィヴィッドにとらえている。われわれは今なおそのような反復強迫のなかにある。


前編で触れた筑摩書房版の解説にあるような評価については

いうまでもなく『ブリュメール18日』は、フランスの政治状況をほぼ同時代的に分析したジャーナリスティックな作品である。しかし、われわれはマルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で理論的に分析したボナパルティズムと、歴史上のルイ・ボナパルトやフランス第二帝政とを区別しなければならない。このことは、イギリス経済史と『資本論』の関係に似ている。『資本論』にはたしかにイギリス経済史が材料として使われているが、それを離れて『資本論』は読みうるし読むべきである。

と整理しています。その意味では同時期の政治的主張である『共産党宣言』とも区別して、現代に対する示唆を読み取るべきということでしょう。


では、マルクスの言う反復強迫とは何か。

それは代表制に内在する問題点に根源を置きます。
本稿によればマルクス以前にもたとえばルソーは「主権は譲り渡されない、これと同じ理由によって主権は代表されえない。主権は本質上、一般意思の中に存する。しかも一般意思は決して代表されるものではない」「人民は代表者をもつや否や、もはや自由ではなくなる」と指摘しています。
この「代表するもの」と「代表されるもの」の関係が恣意性、すなわち実際の諸階級の人びとは、実際の諸階級から独立した政党や政治家の言説によってしか「階級」として認識されないことに第二共和政崩壊の原因があり、それは現在の代表制にも内在する問題だとします。

・・・マルクスがいう謎は、たんに「階級闘争」をいうだけでも明らかにはならない。代表制あるいは言説の機構が自立してあり、「階級」はそのような機構を通してしか意識化されないということ、さらに、このシステムには埋めようのない穴があるということ、そこに、ボナパルトを皇帝たらしめた謎がひそんでいるのである。

われわれは、ボナパルトの勝利のなかに、最初にあらわれた代表制の危機とその想像的止揚を見ることができる・この意味で、『ブリュメール18日』はその後において出現する政治的危機の本質的要素を先取りしている。しかしこのrepresentationの危機は、まさにrepresentationのシステムにおいてしか何事も生じえない事態のなかでのみ発生することに注意しなければならない。そこから出ようとすること、あるいいはそうした媒介性を超えて直接性を目指すこと自体が「表象」なのである。もちろん、あとで述べるように、この危機は、民主的代表制の開始とともにはじまっている。それは「王殺し」によって-それが象徴的なものであろうと-出現するのだが、そこに一つの埋めようのない穴があいており、それを埋めようとすることが、近代政治における「反復強迫」をもたらすのだ。

たしかにこの部分は卑近な例では現在の日本政治の「政権交代したのに民意が反映されていない感」にも通じるものがあります。

柄谷はさらに、この代表制の問題点を(当時イギリスの産業の圧力下にあったフランスの状況をふまえ)グローバルな資本主義と国民国家の対立に展開しますが、その問題はあるとしても同根としてつながるものなのかについてはいまひとつ消化できませんでした。


一冊で二度おいしいと考えるか、面倒くさいと考えるかはありますが、あえていまどき『ブリュメール18日』を読もうという人にとっては面白い構成の本だと思います。




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