令和の怪物といわれた剛速球投手が あと2年待てば在籍球団に巨額の
移籍金も入るし 立つ鳥はあとを濁さず渡米できるのに 25才ルールは
どこへやらでメジャー移籍が許され 波紋が広がっています。
結局は『ごり押し』を通した形になり これからメジャーに移籍予定の
選手たちに 悪い前例を作ったといわれています。
久しぶりに『ごり押し』の言葉を聞いて 遠い昔を思い出しました。
ごりをご存知でしょうか❓ ごりという魚ではなく 川底の岩にくっつき
生息している 5~6センチの ハゼなどの仲間の総称です。
実家の村から身一つで都会へ出て成功した〇氏が 老朽化した故郷の公民館を
建ててくれ 新築落成日にテープカットするため帰省し 歓迎会をやることに
なりました。 60年前のお話です。
料理は仕出し屋に皿鉢を頼み 酒はたんまりあると準備万端でしたが 直前に
なって『ごりのから揚げと 玉子とじが食べたい』 との〇氏のご所望です。
ごりを獲るため村中が総出で川に出ました。当時私は中学生でしたがもちろん
『ごり押し』にかり出されました。
5㍍ほどの川幅の浅瀬に横一線に網を張り 村人が川幅いっぱいに横に並んで
手をつなぎ すり足で川底の岩をなぞりつつ 10㍍川上に張った網にむかって
ゆっくり歩いて追い込む漁法で ごりは網まで押されて捕まります。
場所をかえて数回やったらけっこう獲れて ごりを食べた〇氏は 懐かしいと
大喜びしてくれましたが 故郷に錦を飾った氏は 翌々年に亡くなりました。
ごり押しを手伝った当時の中学生がこの歳になり 歓迎に精を出したその親
たちは 今はもうだれもいません。
ごり押し というなつかしい言葉を久々に聞き 遠い昔がよみがえりました。
目に浮かぶような光景ですね。
都会に出て成功した人が 公民館を建ててくれ 落成歓迎会を 村をあげてする
昭和ですよね。
こういう力が 戦後の日本を作ったのですね。
懐かしいごりの卵とじ・・・食べてもらえてよかった!
婦人連中は 手伝い人の食事から精進落としの料理まで作って何もかも協力して
事を運んだ時代の『ごり押し』作業が懐かしいです。人との付き合いが密でした。
いま実家付近は昔からの人が減り 新しく作られた団地には若い人たちが住んで
以前とは何もかもが変わりました。これも時代でしょうか。昭和は遠くなりました。
懐かしいですね今でも川を見るのが好きですけど
いないような気がしますね
生態系も変わってきていますね
勉強になりました。
すりこ木でごりごりする様子からくるのかなと思っていました。浅学菲才でお恥ずかしいです。
面白いですね。
ハゼの仲間なら比較的広い地方でも行われていたかもしれませんね。
今はハゼもあまり見かけません。
見ると石にくっついてごりがいて 手で捕まえようにもすばしっこくて捕らえられません。
その頃の田舎は何人かが協力して 川上に張った網に追い込む
ごり押しで捕まえていたでしょうね。佃煮やてんぷらにして食べたようですが
いまいち味が思い出せません。食べて育ったはずですのに・・。
何気なく日常で使っている言葉や言い方にも ちゃんと語源があるのですね。
『とどのつまり』は水族館にいるとどではなく 出世魚のとどであることを
最近になって知りました。昔は貴重なたんぱく源としてごりを捕獲したようですが
今は高級魚となり 一流料亭で出しているらしいですね。
山田の日曜市では、その昔、ごりのつくだ煮を売っていました。今では見ることはありません。懐かしいお話を聞かせていただきました。私は小さいころ、近くの川に浸けた柴づけを あげにいって、カワエビやドジョウ、時にはウナギがいたことなど、嬉しかったことを覚えています。その川もコンクリートで護岸され、水流も少なくなって、魚がいるような気配はありません。寂しいです。
そりゃ出世して公民館を建ててもらえたわけだから
喜んでもらえたら漁にでますよねえ
ところで私はその魚を見たことも食べたこともない!
(TεT;)チェッ
エイコさん柴づけをご存知でしたか 柴ではないですがこちらの川でも
筒を浸けてうなぎ漁をする人がいます。たまに入っていると言っていました。
言われるように今はほとんどコンクリートで護岸されており
川魚も獲れなくなり 見た目も風情のないものになりました 寂しいですね。
都会育ちの人はごりを知らないと思います。昔の田舎は貴重なたんぱく源として
ごりを食べたでしょうが 今やごりは高級魚の扱いです。
魯山人はごりを愛したそうです。今は金沢や富山の高級料亭で唐揚げで
出していると聞きました。ごりはどこの川にもいるでしょうが捕獲が大変です。