花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

50年前の思い出

2020-01-12 08:25:38 | Weblog

 

50年前。親友の結婚式と

一年下の遊び友達との結婚式が重なって、

学生時代。代表幹事を依頼されていた私は

クラス全体の生徒とも、先生方とも、事務的な交流をしていたのが癖になっていた。

大学のクラスには、ピンからキリまでの家庭事情の学生が

ゆとりをもって、、、あるいは必要と感じて、又ある人は、必死の思いで

理工学部や、薬学科に進学してきていた。

化学には女性が2人しかいなかった。

建築課の大学院にも女性が一人いて、づ面を作成していた。

長野県から、就職してみたものの、、、

毎日、電気メーターの記録をするだけの〉一年間に於いて

未来への危機感が募ってきて、

大学に入りなおしたという電気科の学生もいた。

かなりの人数の学生は英検の1級や、2級を持っていた。

女性は、ロウヒールや、スラックスや、スーツ、

お洒落な女性学生は

膝から下の広がった白いラッパズボンにアップのヘヤスタイルで

卒業までには、「お金持ちのお坊ちゃまとカップルになっていたりした。」

大学生の時に、父に急逝されて、

楽しいはずの大学が、アルバイトに

明け暮れた。

男3人女性の私と、ピアノ教室を本格的に主宰していた母と

学生結婚した兄嫁と、

父の後を継いだ内科医の長男は

家族と開業とを背負っていたせいか

廊下ですれ違うたびに、、、

「まだいたのか?!、、、速く出て行け、、、」と

啓蒙しているつもりなのだろうけど、、、毎日、毎日、、、出て行けと

九官鳥の、一つ覚えた言葉の様に

「出て行け、、、出て行け、、、と、囀るのだった。

大學も、悠遊にふるまっていたけれど、

高校3年で、医学部進学は間違いないと思える弟が居た。

女性の私を大学を出すというのは、、、

我が家にとっては、大サービスなのだろう、、、きっと!

大學では、取得できる免許はすべてゲットしてから社会に出ないと

先が見えないと考えるようになっていた。

私は、化学系の暗記は好きではなかったが、

化学の知識を使って、「生化学」を考えるのが好きであった。

生化学は、、化学の知識を使って、、、生体を科学する学問だと思った。

大學を卒業しても、科学実験の学門を続けられる条件の女性は

クラスでは3人ぐらいしか、大学院には進学しなかった時代であった。

まずは、、、生きねばならなかった。

 

主人と、子供に振り回された時間貧乏の主婦で、

一生が終わってゆく、、、、かっての女子の大学生たち。

75歳になってふと振り返ると、

北海道には、知人と呼べる親しい人はいない。

町内会の班長を、東区、豊平区で

5回ほど回ってきましたが

どなたとも、親しそうに話しはするのですが

相手の顔も、名前も、一致して覚えることが出来なかった。

いつの間にか、年賀状は、、、一枚も書かなくなった。

近所には、、、全員に天気などの話や挨拶をして、

井戸端会議には事欠かないのですが、、、

不思議なことに、

誘われても、家事に追われて、付き合えなかった。

 

旅行友達になればと思ってくれるのだろう、、、

勧誘に来るのだった。

ビデオを使った説明会があるので、参加者以外でもOK との事で、

「飛鳥」「日本丸」など、見学会には一緒に参加した。

これからも息子たちの授業料に追われる立場の

男の子の母というのは、

豪華客船に乗る予定は、全くなかった。

 

女の子をお嫁に出した後の御夫婦は、

世界一周の船旅に出た。

 

私には、、、私立医科大学の学生と、

私立薬学大学の学生を抱えていた。

男の子の母親は、豪華客船どころではない、

フルタイム、正社員の薬剤師に戻って、

家のローンや、授業料、

大学に50歳近くまで勤務していた講師だった主人は

函館に単身赴任していった、

家のローン、子供の育児は大学進学と、高校進学に差し迫っていた。

家計は、エンゲル係数は100パーセント以上になっていたが、

借金経済をとらざるを得ない時期が有った。

いよいよ足りなくなると

一度返済したローンを

自宅を抵当に入れなおして、ローンを組み直し

あたかも悠遊と見えるが如く

子供の教育を優先させるのに、、、鬼になっていた。

平常心を保つのには、冷や汗が出ていた時期もあった。

私が、大学に入学して、

父が急逝したことは

自分たちの子育ての場合に置き換えても、

同じことを考えねばなりません。

医科大学卒業までの授業料の6年間だけ、

保証するという保険に入りました。

心の臆病風に負けました。

銀行の

学資ローンは保険の代金になりました。

振り返ると、、、息子が卒業してから18年も経過してるのに

臆病風に吹かれていた私たち夫婦は親としての義務は果たし

、、、二人とも健在です。

76歳になろうとするのに、、、元気です。

あの時の,、、不安な気持ちで、掛け捨ての短期生命保険に入った事が

可笑しいやら、、、もったいないやらで、、、

学会で、仕事上、アメリカとか、ドイツには行った主人は

豪華客船の旅どころか、、、ロンドンもパリも行ったことが有りません。

ニューヨークの学会に皆さんと同行したときも、

建物の部屋から出なかったとか、、、スライドの整理で旅行どころではなかったとか!?

自宅も、、、2回もローンをクリヤーしてくれました。

2回目のローンのやっと終わった60歳過ぎには、

ホッと気がつけば

孫が3人とも男の子!

今年は大学進学である。

夫が医師ですと言えば、、、北海道では「お金持ち:の部類に入るらしい。」

働きかた改革も、、、外科には通用しない。

ひどい手術は、、、8時間とかかかっていたから、、、

救急が3人ぐらい夜中のオペという事で、

一週間ぐらいは、自宅に帰れないことなど、しばしばであった。

初めは、3人で、、そして4人で、、、

正月も、連休も、夏休みもなかった。

大型病院で、救急車の試練とともに、深夜の手術が行われた時代に

長男が大学に進学した。

そして、、、札幌南という

進学高校にトップグループで合格しながら、、、

音楽やライブや、ジャズの3年間を過ごしてしまった次男

母さん、、、僕に高校時代をくれ、、、見逃してくれ、、、

卒業してから、勉強するから、、、。

マルタのサクソホンに魂を奪われていた。高校時代だった。

最後に親が出来ることは

親元から離して、東京に預けた。

 

今は運よく、優秀な私立医科大学に合格して卒業はしたものの

仕事に就くまでは、東京と静岡を

新幹線でとんぼ返りの研修やら、勉強会やらで

5年間は、毎朝新幹線通学をして、勤務病院と大学を往復していた。

大學を卒業してからも、3年間は生活が出来る収入は無かった。

東京のど真ん中のマンション暮らしも、食費も、研修費用も、、、

このようにして、、、私立医科大学の医師は誕生するのです。

医師の息子というのは

普通の職業の家の方々の様に、PTAには男親の姿はありません。

運動会には、お母さんしかいません。

お母さんしかいない家の子供たちが、

寂しさを支え合って友達になっていました。

私は、自分も、子供のころ、お父さんの姿を見つけられずに過ごしました。

次男は一年生入学の時の写真は私と二人です。

そのころ、札幌には、私立の巨大病院の代一棟目が出来始めており、

単身赴任中の主人に、移動命令を戴いていました。

北大在り、医大在り、NTTあり、KKR,,,大きな病院の林立する札幌に

これから、巨大病院になってゆくという初期のころ、

函館国立病院から、札幌に帰還してきました。

今では、開業医の先生方から、

救急も、重症も、引き取ってくれるので、助かりますと、、、感謝されています。

しかし、創生期の頃は、開業医と、競合するのではとの誤解があり、

患者さんの状態により、、なくてはならない病院であると

医師会の皆さんからも、言われるようになったのは、主人にとって最高の喜びだったようです。

全世界の優良病院のランキングにも、文字が光っているし、

育児中は、未亡人のような毎日でしたが

結果良ければすべて良しと思っています。

病院は、医師は目立ちますが、、、ラグビーの様に

全員での仕事だから、民間は、医師が収入をとっていると考えがちですが、

大きな病院の医師にとっての最高の待遇は

医寮に対して、良い機械が入り、最先端の情報が入り

医師としての腕を振るえる職人魂にも似た満足感があるという事が

報酬だったようです。

一年契約が、毎年更新される、、、腕一本の外科医の勤務状態で、

主人は、周りの優秀なスタッフや、優秀なコメデカルトのチーム医療に

生きがいを感じていたようでした。

胸部外科の医師だった主人は、今は名誉会員で、胸部の手術はしておりませんが

札幌の胸部外科が、次の若い世代に引き継がれて、ゆくのを見つめています。

子供にかまっている暇がなかったと言ってしまえばそれまでですが、

「医師の妻」「医師の子供」という事が解ってしまうと

孤立してしまうという、、、不思議な、、、50年前の札幌でした。

医師の家庭でありながら、、、銭湯通いの木賃アパートに暮らしているのですから、

気さくに、仲間に入れてくれると思ったのですが

そうはうまくゆきませんでした。

私と口をきいたというだけで、孤立する近所の奥さんも居ました。

町内会の旅行に参加したら、

何で、、、あんたが居るのよ、、、と。

このとき、島国の中でも、北海道は、明治維新の時の、函館戦争など、、、

いろいろな思いが交錯して、

本州から来た者や、北大系の医師の家庭より

医大の方を「我らが大学とおもっている」、、、不思議な民間の感情に出逢いました。

小学校に子供が進学してからは、、、

医者だと知ると、、、お母さん方が

「医大なの?北大ナノ?」と質問するのです。

北大ですと答えると、、、さりげなく、仲間はずれにするのです。

この謎は、、、今は、そのようなことが無くなっただけに

私にとっては、、、永遠の謎です。

地域が大切にしているものと、

国が大切にしているものとが

握手して、新しい巨大病院をつくれた札幌は、

大きな心で、50年前の、医大か、北大か?の

わけのわからない???庶民の心を解決したと思っています。

50年前、、、謎の多い、、心でいっぱいでした。

ゴンさん緒劇場まがいの成り行きも、、、日本の地面の下の、、、

セクト感覚が有ったとしたら、、、

世界は、パソコン、スマホ時代、、、自動車の会社も

世界規模の会社となって、コンビニ形式の統括がされる時代が来ているのかもしれないと

地域の中で、争っていては、、、なにも未来が見えてこないかもしれない。

法律違反は厳重に罪だと思いますが、、、世界は、、、一つになろうとしているのかもしれません

永遠の平和の為にも、、、

札幌での役割分担がしっかりしてきて、

医大と北大、開業医と、巨大病院、、、

サンゴ礁の魚との共生の様に

美しい形をとり、今日から、未来に向けて、一丸となって

札幌を、世界から、評価される時代が来たのではないかと、、、

50年の夜明けとともに、、、私どもは、、、微笑んでいます。

個人的に医師の家庭は見掛け倒しで、義務を果たし

未来に継続できるように

医療人を育てるので精いっぱいだった人生の家庭事情でしたが

グローブの様に傷だらけの手を観乍ら、、、

欲、、、働いたと、、、満足しています。

最終的には、持っていた不動産を売却して、原点の生活に戻れましたが、、、

医師が、、、お金持ちだったのは、

保険制度が出来るまでの戦後の復活期に

必要から、政府は税制優遇措置を政策にして、

開業医を配置していった頃でした。

自家用車などは、ほとんどの庶民が持っていない頃

2台までは税が優遇された時代がありました。

東京では、、、土地が高くて、新規開業が夢の向こうの話になっているのが

令和の時代の医師の現状だと思います。

「医師はお金持ちで、ブランド物で身を包み、高級ホテルで

デイナ~ショウを観ているものと、、、期待してくれる女性はまだまだいますが

息子の、仕事一本で、借家住まいの普通のサラリーマンの姿を見て

お世話くださったお見合い相手も、、、がっかりするようです。

家なし、車なし、ブランドもの衣類なし、、、、

お見合いはお世話くださった女性には、、、申し訳なく

いつの間にか、、、「しばらくは結婚は考えないから、、、」

母親に紹介してくれた話も、却下です。

45歳になって、、、一生懸命医師をしながら、、、

普通の家庭も持てないという、、、不器用な息子の行く末を思うと、

今は充実していると思うのですが、、、

歳をとって、、、老境に入ったとき、、、

 

今日も、「笑点」を観て笑いながら、、、

司会者の方は、老境に入ってから結婚したと聞いて

すっかり安心しました。

税務署も、働くことしか知らない医師だらけになってしまったら

豪華客船の客が減って、、、お金が船員さんまで回らなくなると

つまらない日本になってしまいます。

そこで、、、算数だけで考えると、

カジノで、外国のビップさん、、、ゴーンさんクラスの金持ちの集う

最高の会員制豪華上品な高度カジノをと、、、横浜の、、、すごい切れ者の叔母さん知事が

カジノを科学したのかもしれない、、、と

お茶の間のバカ婆さんはフト思ったりしました。