50年前、、、私は、、、東京の住人だった。
戦後のドサクサの下町の小学校に転校したのでした。
江戸川の近くの小学校は、戦後の焼け出された人々が
バラック小屋を建てて住んでいた地区と、
あたらしく、新築を建て始めた地区と、
アメリカ兵の駐在の名残の、
アメリカ兵を相手の
商売の人たちが住んでいた集合住宅の団地と
あたらしい日本を立ち上げようとし始めた、富士銀行や、
大手銀行の支店の通りと
格差が色分けできそう時代であった。
戦前は
市ヶ谷の富久界隈から、早稲田、、、そして飯田橋が
私の父の遊び場だったというから、
かくれんぼしたという、、、毘沙門天に
坂を登って行ってみた。
明治生まれの父が、医師になったころは
東京大学を目指すか、
医師になるか、、、
あまり深く考えないで
親の望むとうりに従った男の人生も珍しくなかったようである。
父は、、、東京大学は、、、おっこったと、、、苦笑いしていた。
よけいなことを書いてしまった!
「地球規模の学門」を目指して、
東京大学の農学部に進学したいと思ったそうである。
北大の農学部にもあこがれたことが有ったと言いていた。
雪の研究の先生の事を良く話してくれていた。
牧野富太郎博士の植物辞典を大切にしながら、
幼かった私に学歴ではなく、素直な植物への情熱を示した
牧野博士は形態的に分類をしたと、
努力と、根気を話してくれた。
疎開地から、東京に転校するころでした。
疎開地で、必要とされ、自然に恵まれ、
数ヘクタールの農地も借りて、
薬用の植物や、アメリカから取り寄せたグラジョウラスや、
トリトマや、、、シオン、、、ほうずき、、ジギタリスプルプレァ、
しそ、、椿、イチゴ、、、アジサイ、白菊、、、ヒルガオ、
そして、、、野菜畑が続いていた。
幼いころから、父の借りていた植物畑の一角を耕してもらって
ほおずき、朝顔、菜の花、ダリア、ポンポンダリア、ユリ、、、etc,
父の教えで、植えていました。
チイサナ「鍬」で土を掘り起こしていたら
「けら」が飛び出してきて、、、びっくりしたり
モグラがダッシュしてきて
腰を抜かしそうになるほど、、、びっくりしたり。。。
都会の様に、
「おこづかいは無用」の子供時代を
自然から恵まれていました。
椿の実から椿油を採取。
石垣のイチゴを籠に集めておやつ。
ナスや、カボチャを籠に集めてお手伝い。
キャベツ畠では、、、青虫を竹の箸で駆除しながら
チョウチョになるのだからと、
外側のキャベツの葉っぱをもらって、
飼育したり、、、そして、
白いチョウチョの羽化に
目を凝らして、見つめていたっけ、、、。
月の明るい5時ごろに
竹藪の中に、白い妖精のような花が開くのを観に行ったことがあった。
あれは、、、?たしか?。。。
カラスウリの花だったのでは?。。。と。?
妖精の様に竹の緑と白い花は戯れ乍ら
朝日とともに、元の蕾に戻っていった、、、
不思議な白い幻の花。
思い出しながら、日記をつけていると、
南紀の暖かな冬が思い出されます。
何故、、、北海道に住んで、、、
人生の半分を
寒さと闘い、雪と闘い、、、
友も、学友も、親戚も、兄弟も、遠いこの地で
ひたすら、、、明日の事だけ考えながら、
家事に従事しながら、、、
真っ白な髪になって、、、ここに居るのか?
戦後の日本は、オール貧乏な時代だっただけに
櫻の花びらが小川を埋め尽くして、どこかに流れていくように、、、
戦後の復活は男子の力が主力だっただけに、
男尊女卑とは、、、
全く別の、、、、男女差別に
解っていても、、、同意して、一歩も二歩も、
女性は引いて、
男たちのサバイバルの応援に回らねば
復活できない時代だった。
東京に、
まず、兄が中学生の時、復活の先発として
古い寺の跡地の、
新規開業の予定の住宅に転校した。
もともと、東京で生まれた父。
故郷である市ヶ谷は
空襲で、誰の土地やらわからなくなっていたところを
大手が巨大コンクリートのビル群にして再開発が進んでいた。
再び故郷に帰れるとしても、
40歳過ぎての新規開業である以上
「開業医の必要とされている下町」に帰還したのでした。
学徒出陣で、帰還できた父の10歳以上下の弟と
20歳にならないで、、、亡くなったすぐ下の弟だけが、
私たちは顔も知らない叔父さんでした。
弘が生きていたら、、、頭が良かっただけに、、、残念だと、、、。
父は、命日になると、空でも、雲でも、木々でもない,、、空(くう)を感じるような
視点の定まらない瞳で、窓の外を見上げていた。
大戦の後、運よく生き残った兄弟たち、、姉妹。
生き残りの家族、父を長男とする
兄弟姉妹の4人が
戦後を生きてゆく為に、、、
江戸川の近くに引っ越してきて、
學校の先生をしていた。
戦争から帰還してた叔父さん方は
学徒出陣で、大学は卒業していなかった。
(父が大学へのあしなが叔父さんをした)
末っ子の弟は
下町の、中学の先生になって一足先に
父の購入した、古寺の住宅に住んでいた。
叔父さんは、
戦争から帰還してから、早稲田の理工学部に進み
中学校で物理化学の先生をしていた。
父の開業予定の家に住んでいて、
私たちの
東京への帰還を、しっかりと受け止める先発を果たしていた。
疎開先の中学校には、戦後の教育を受けるには
あまりにも、環境が大自然の真ん中すぎた。
兄は、叔父さんが居るというので、
ひとり、
先に東京の学校に転校していった。
当時は、スパルタ教育のような厳しさで、
東大の合格率が100人前後を進学させていた両国高校に
兄は合格して、
東京大学に行くつもりで、叔父さんに教えてもらいながら、
受験勉強に明け暮れていた。
そのころ、、、疎開地に残された私たち弟妹三人が
中学、小学校6年、3年生、、、と
東京の小中学校に転校して、
父の親戚たちの住んでいる下町に、合流したのでした。
しかし、、、
疎開地では、父が居なくなると
七か村、、、唯一の診療所が無くなるというので、
父だけは、2年遅れて、東京で、家族と出会ったのは
私は、、、もう。。。中学生になっていました。
疎開地に、、、あのまま居れば、、、
父は54歳で過労死をすることは
ありえなかったと、、、悔しい気持ちがするのです。
戦後の、新規開業は、
ストレス多かっただろうと、、、
思いやることのできなかった自分の幼さを
思いだすにつけ、、、
父への、感謝の心が
全員が遅すぎたと、わかった時には、
父は逝ってしまった後の事でした。
現在も、モンスターに囲まれた開業の先生方は
ご苦労していらっしゃるかもしれませんね。
東京に戻った母は、
母校の国立音楽大学の友人の協力も戴けて
「よつ葉会」という、、、
ピアノサークルを主宰して、50人ほどのお弟子さんを教えるようになっていました。
父を手伝っているつもりというよりは、、、
明治生まれでは、珍しいクラシックのピアノ科を卒業して
主体の在る母でいたが、、、
理科系の私は、、、
ケッコウ、、、母からは嫌われていました。
「男だったらよかったのに、、、」と、、、
母は、私を見ては、がっかりしていました。
本当は、やけどをして、右手が使えるようになるまで
17年間も、本来なら必要のない苦労を父母にかけたことも
原因かもしれません。
右手が完治して、
チェル二―や、ソナタが引けるようになったのは
高校生になってからでしたので、
母にとっては、、、
娘が、小学校のお弟子より
未熟なピアノを弾くことが、、、苦しかったのかもしれません。
戦前の父が院長をしていた病院ですが
戦争で、無くなりました。
小学校6年生の直前に、
東京に転校するまでは、
私は、、、、、、
南紀の山々と、川と、
何処までも続く菜の花畑と、
梅の木の咲き誇る、、、しばっこの斜面と
一つ山超え、、、二つ山超え、、、
そり道という、
山の中に張り巡らされた
木材を切り倒して、そりに乗せて、川まで運ぶ丸太の道が有った。
マルタの梯子を横にしたような空中の樹の道は
渡れて、走って進めるようになるまでは幼稚園の年ごろから
一生懸命、、、独学するのでした。
學校にあがる前の幼児の時代から
縦関係に構成された集団で行動する遊び方には
容赦ない厳しさもあった。
低学年の頃は、そり道に差し掛かる手前で、
そり道を走れない者は、、、置いてけぼりになって
泣きながら、走って見えなくなるお兄ちゃんや、お姉ちゃんを見送るのだった。
皆が見えなくなって、しょんぼりと、一人で
竹藪を通り抜けて、、、、とぼとぼと、、、家に帰ってゆくのだった。
竹藪は、昼間でも暗くて、風がサヤサヤト竹を揺らし、
エモ言われない怖さがこみあげてきて、
思いっきり走って通り抜けるのだが
自分の走る足音が響いて
お化けが追いかけてくるようで、、、、
身体が竹藪に吸い込まれそうになりながら
幼い孤独を感じた事が思い出されます。
近くにお寺が有って、、、
そこの和尚さんが
学校の5年生を受け持っていたのを
思い出すのです。
お寺には、大きな銀杏が、、、ドーンと生えていて
乳房のような
大きな、、、樹木のこぶなのだろうか?、、、
木の塊が、乳房の様に思えた。
。
銀杏の樹のむこう側には
私の母の先祖の旧いお墓が見えた。
医学と農学は限りなく近いと思う事も
父の臨床経験の体験の中で
天地森羅万象、呼吸が重なる様な体験が、、、しばしばだったそうです。
地球と寄り添って、包まれ乍ら、、、生きていきたかったのかしらね。
人間の医師は、、、人間しか、、、診ることをしないというまで
的を絞り込むのが、、、、父は好まなかったのかもしれません。
小鳥が足を骨折していると
割り箸を削って、添え木の様にして、
竹ひごの鳥かごの入院室で
飛べるようになるまで、、、世話をしていた。
確か、、、「目白だったように記憶している。」
ピアノに夢中の母は、
父の過労に気が付かなかったのかもしれませんね。
どんな田舎に居ても、気位の高い母は
先生が良く似合っていました。
「練習をしてこない生徒には、、、自習で練習を促していた。」
父が早逝した後、未亡人になった母は、
自分の力で、「グランドピアノ」を購入して、
3代のピアノが、早朝から、、、聴こえてきていた。
ハノン、、、ショパン、、、ムーンライト、、、
今も、、、聴こえてくる、、、フアンタージ、、、、アンプロンプチュ、、、
花束だけをうれしく受け取る母でしたね、、、
もうすぐ、、、2月がやってくる。
2月19日の朝、、、父は54歳の若さで
過労死してしまった。
戦争と、
従軍と、
イギリス医学の指導病院の院長と、、、
終戦間際の野戦病院、、、
疎開先の激務の
へき地の医師と、、、
鮭が回帰して、
命尽きる姿が重なってしまうような
生まれ故郷への40歳過ぎての
再度の開業と、
戦後、、、疎開地で誕生した
「戦争を知らない末っ子の教育の為にも、、、」
居候を二家族、
親類の帰還兵への住居提供と
学徒出陣後の帰還した弟妹を
早稲田や、学芸大を卒業援助、
居候の従妹たちを、高校、看護学校、ドレスメーカー学校、、、
令和の時代は、その時の専門学校は、皆、大学に昇進している。
居候だった、従妹の三姉妹は
東京の、医師と結婚、法律家と結婚、
三姉妹とも、父が逝った翌年には、、、我が家から出て行った。
そして、私が大学に入るまで、、、
せめて、、、卒業までは生きていてほしかった。
頑張りすぎた父の生きてきた軌跡は
過酷な頑張りが続いていたことは、
戦後の復活期の
多くの男性の姿ではないだろうか?
戦後の復興期は、、、出来る者の肩の上に、どんどん重く、、のしかかった。
出来る者は、、、絶対少数であった時代だけに、、、
戦後の貧乏な心は、我勝ちに助かろうとするだけで
芥川龍之介の「蜘蛛の糸の様に、、、切外してはいけない心」を
父の過労死から、、、矛盾の中に、、、十字架を観てしまった。
こうして、、、日本は、再び
オリンピックを迎えることのできる国に甦ってのですから、、、
東京オリンピックの昭和40年代の空は
母と二人で
自衛隊の描く空の五輪を、、、見つめていた。
二人と、、、無口のままで、、、いつまでも、空の五輪を見つめていた。
誰が悪いというのでもない、、、何故?、、、戦争が起きるのだろう、、、?
何故、、、、原子爆弾や水素爆弾を創ろうとしたのか?
地球丸ごと、、、死んでしまうではないか?!
アインシュタインの舌を出した瞳は言っている、
量子力学の世界でも、科学で命を創れるのかね?
人間の、、、心はどうする?、、、IT君よ!
「第三次世界大戦の後は、、、もう、、、核の心配はいらなくなるよ!
地球上は、又、、、
石器の矢じりを使って、、、こん棒でたたき合う戦争に帰るだけだよ、、、、。
大きな目ん玉と、、、あの舌は、、、
エネルギーの保存の法則しか信じていないのかもしれない。
木っ端みじんになった地球が
宇宙で浮遊しながら、、、火星人の東大生が回答する、、、共通4次元試験。
「確かに、、、地球という星は存在した。!」
不合格!どんな答えも、、、不合格!
二度と、、、戦争に巻き込まれないように
世界の平和を願う
ひたすら、、、平和であることを祈り、、、
原子爆弾からの復活のために
どれほど多く人々の努力が有ったかを
若い世代に伝えることが大切なことだと思うのですが、、、
お茶の間で、、、日記を書くだけの毎日です
お父さん、、、
本当に、、、
明治から大正、、、昭和の30年代と、、、
大変な時代に生まれてしまったのですね、、、。
お疲れだったでしょうね。
75歳になって、しみじみと、、、お父さん、、、ありがとう。
命日の2月が近くなると、、、父の思い出がよみがえります。
哀しみも遠くなった、、、感謝の日記です。