花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

新年会が、、、まだまだ続く1月

2020-01-18 15:56:26 | Weblog

 

新年会が、あちこちで開かれながら、

有り難いことに、、、地道な努力を仲間とともに続けてきた主人には、

今年も、頑張りましょう!、、、と声かけあうという、

ともに苦楽を共にしてきた相棒が居る。

 

私とは違って、北海道に60年以上住んでいる主人は

10年という若き日の歳月が、

友達をつくる学生時代だったのだろう、、、

生き残った同級生たちは、、、

現役で社会に役に立っている現実に出逢うだけでも

「頑張れる!」力をもらえるというものなのだろう、、、ネ。

学生時代に、「大山」に登ったったことや、

野球の試合で青森から奥入瀬のあたりを歩いたときの感動が

クラスの会や、新年会で、、、甦り、童心に戻れるのだろう、、、か?

当時帰りのお金が無くなって、、、

友人と小銭を集めて、「パチンコ」店に入り、

夢中ではじいたら、、、球が出まくって、、、わけを話して、店で球を買い取ってもらい

皆、何とか無事に札幌に帰れたそうですよ、、、

     (^^!

仕事が続けている限り、、、社会の役に立っているわけだから、、、

サポートの家庭の主婦も、、、

呆けないように、緊張をするメリハリをつけなければ、、、と。

家庭で、何十年も、主人という人間だけの担当をしながらも

主婦が忙しいのは、、、、なんでだろう?、、、なんでだろう、、、?

雇用してくれるのなら、週に3日ぐらいは、社会で働けたら、、、

私も、、、呆けずに済むのだけれど、、、

不規則に、

早朝深夜と、会合が続くのは、、、きっと、

皆と逢うと明日の力をもらえるし、

あたらしい若い人たちの輝きを観ているだけで、、、

元気がいただけてしまうのだろう、、、。

 

主人が、出かけた後、、、

おもむろに、、、洗面所の鏡を覗くと、、、

「誰?あなたは誰なのよ?」と、、、思わず

「お名前は?どなた?」。。。と

聴きたくなるような、、

、総白髪のおばあちゃんが、

「やれやれ、、、と、眼の下をたるませて、、、こちらを見ている!?」

。。。。、、、、*****この人???私?

 

そうですよ、、、貴方ですよ、、、

天井から心無い声が答える。

北海道という、、、思いもよらない新天地に

青函連絡船で、やってきたのは、、

、昭和44年の10月だった。

石川さゆりの「歌の様に」

海鳴りばかりが聞こえていた。

父が54歳で、早逝してしまったこと。

我が家が卒業ほやほやの「内科医」になったばかりの兄が継承したこと。

親子で、大名開業の様に、大船に乗ったつもりの兄貴にとって

一人での開業は、神経が疲れたのだろうね、、、。

 

北大医学部を卒業して、やがては我が家の外科を兄とともに継承してくれるという

主人が現れたのは、偶然の出来事のように、、、私は思っていた。

病院を大きくする計画で創った兄が統括している「淡交会」という

病院拡張のプロジェクトチームに加わってくれるという

医師が現れたわけであるから、

従兄の耳鼻科の同級生も

看護師になった従妹も、

幼馴染の、口腔外科医も、

又従妹の、私立医大の医局長をしていた幼馴染のお兄さんと呼んでいた又従兄の内科医も

北大からの参加を喜んで、私も、

母や、兄の強い希望で、

博士号を取得したら、故郷に帰るから、我が家の計画に参加しながら、

自分の父母に孝行したいという

主人の申し出に、母と兄がかかわった。

頭の上を通って、兄と母と主人が決めた話に

いかに生まれた以上、、役目を果たせという

わけの解らない兄貴の主張だった。

私は、結婚を約束した、幼馴染が居ました。

付き合いは、兄と妹のような、プレーンな付き合いでしたが

家族の一員の様に、、、緊張の要らない性格でした。

私は、現役の薬剤師として、総合病院に勤めていた。

30歳までは、薬剤師として、

自分を仕上げたいから、、

「独身でいる」という私の言い分には耳を貸さない兄貴だった。

せっせと勤務に出かける妹に向かって、

、、、兄は、

「出て行け!、、」「早く結婚して出て行け!」と

九官鳥の、、、馬鹿の一つ覚えの様に、一人でしゃべり続けた。

、「我が家に医師を連れてこれるなら、

母の離れのピアノの在る部屋の、二階の三室は使っても良い。」という。

私は、、、断った。

「私だって、母を世話をする権利はあるから、出てゆかない」と、きっぱり反論した。

次の段階、、、医師の間での通信的な役割を果たしていた雑誌に

「医師、、妹、、、我が家にて勤務してくれる医師に嫁ぎたし、、、、」

雑誌に、、、無記名の広告がでているではないか?

無記名ではあるが、、、申込者が来てしまった以上

バレバレではないか?!

ひどいことをすると思った。

 

勤務から帰ると、、、御気の毒に、、、本人の私が無関係で、知らないというのに、

威儀を正して、結婚の申し込みに来てくださっているのだった。

 

、、、私は、、、兄の、神経が、

一人開業になってから、、、

勇み足の

おせっかいな縁談待ち受け広告をしたのだと

言い訳しながらも、

私ごとき、駆け出し中の薬剤師に

申し込んでくださるというDr.に対して

深い感謝とともに、、、

「目下、薬剤師として勤務中で、自分を仕上げるまでには30歳まで結婚はしない」と伝えた。

 

有り難い話であるが、、兄貴の独断で、よりによって。。。

広告では、、、結婚したいとは思わないでしょう!、、、

普通の女性なら!

腹が立って、腹が立って、、、怒る気にもなれなかった!。

私は、、、

「兄は心の病気」だと思った。

、、、

妹に対しての、責任過剰で、おかしくなったのかと思った。

戦争で、弟二人、妹一人、兄は10歳までに体験している。

その後、疎開地の医師の息子としての、難しい疎外の経験もしている。

私も、疎開地では、右手に故なきやけどを負っている。

受け入れられて、

神様扱いの尊敬と親しさで

村落になじんだのは父だけだったかもしれない?

母への嫉妬が娘の火傷になったとも、、、考えたくはないが、、、

疎開地では、父の立場は本人は激務でも、家族は別の待遇を受けていた。

誰しもが、、、お父さんが医者だと家族は得だと、、、思う、、、戦後の貧しさの中で

我が家には、ふんだんに食べ物が有った。

父母は、バターも、ハムも、、、診療所に寄付される食べ物は

村の人に配っていた。

兄は結構な割合で、、、喧嘩をしていた。

本当の怖さと、外国の地で、弟妹を亡くしたPTSDが

母には残っていたが

父と兄は、歯を食いしばって、母を癒していた姿を覚えている。

こうした、、、過去を思い出すと、、、

兄は、父の亡き後、、、妹を守れなかったら、、、どうしようかと、、、

過去のPTSDに翻弄されていたのかもしれない。

回覧に近い、医師の雑誌に

妹の結婚相手を募集するなんて、、、気がおかしくなったのかとも、、、思った。

又、、、応募してきてくださった、、、Dr、に

何といえば許してもらえると思ってるのだろうか?

妹を啓蒙しただけですと言えば、、、

相手は許してくれるとでも、、、

思っているのだろうか!?

万策尽きた思いで、、、あった。

後日、その方のお母様という方から、、、

和紙の巻紙のお手紙が届いた。

夫婦とも、二つの病院の院長で、本人は大学の医局にいるという、、、

丁寧な、、、自己紹介のお手紙であった。

 

 

兄は、、、父のいなくなった開業を、

手伝いながら、

時代とともに、

病院を拡幅してゆくという計画の

弟分になってくれるに違いないという、、、親戚の医師を集めた「淡交会」の

会員を探しているわけですから、

立派すぎる、

ご自分の病院を持っていられるご夫婦の

長男との縁談は

我が家の求めている

「願わくば次男の外科医」とは違う事を伝えて、

あのような、広告に至ったと、、、詫びました。

「私は知らなかったことです」とは言えなかった。

私ごときに、、、御目をかけてくださったことに、

我が身に余る光栄ですが

応じられない環境に居ますと、、、辞退しました、

 

その足で、、、

北大で、外科医を目指してはいるが、、、

目下、、、苦学生で、大学院の研究中で、

犬の解剖をとうして、

動脈瘤などの血管を、バイパス手術で血流を確保できないかという

研究に夢中になっていながら、

研究費も、

奨学金に頼っているという

次男の為に、仕送りがストップして、

3食食べられないという、、、逆協の医師に出逢った。

その、、、、青白き、、、覇気が無くなっている医師が、

たまたま、

同級生の結婚式の挨拶を頼まれた私の席の隣に座っていた。

そして、、、私の頭を飛び越えて、

先輩の外科医と、本人が、

私の母にお見合いを申し込んで、

母との間に話をつけて、、、

「今の研究で博士号が取れたら、、、独立して、東京に帰れるから、、」

我が家をベースキャンプにして、

北大から、

東京の大学の医局に北大から紹介してもらうと言ったそうです。

事実、学友が東大の病理に居るとか、、、

母も、兄も、、、、

医学部の地域性を知らない開業医ですから、、、

信じたのは当然ですよね。

当の本人も、

医学博士を取得できれば、独立して、

日本中、

どこの病院でも、

勤務できると思っていたようです。

 

もっともな、、、考えですよね!!!

 

(--!

 

ところが、、、医学部というのは、、、当時は違っていたのでした。

留学も、外病院の勤務も、全て、、、

大学の慣例で、、、学閥のようなものが有ったのですよね。

結婚して、我が家が、、、弟、従妹、又従兄、

看護婦、薬剤師、、、と。

之だけそろっていれば、、、東京の駅から徒歩圏の

父の残した240坪の診療所を抵当にすれば、

「淡交会のメンバーの印鑑」が、5つあれば、、、

病院が出来ると、、、思ったのでしょうね、、、兄は。

 

メインの外科医が、、、

医局に残って、待ちくたびれても、上京してこなかった訳ですから、、、

結婚後、、、兄からの手紙は主人あてに100通ぐらいはありました、、、が。

主人には返事が書けない理由がありました。

「淡交会」は解散になって、、、

実家はせっかく兄の息子が内科医になっていたのに、、、

売られてしまいました。

 

世の中は、、、

兄の思うようにはいきませんでしたが、、、

兄の息子さんは女医さんと結婚されて、、、全く別の所に開業されて、、、

上京しなかった私たちは、、、

結婚式にもよばれませんでした。

 

しかし、、、各自の医師の皆さんは

勤務医として、

医師としての

医療面での最高の機械とスタッフと、コメデカル、事務系のしっかりした

大きな病院に、落ち着いて、、、

医師としては最高の、、、

医療面での贅沢な設備の中で働けるという

医師の幸せを、それぞれが手に入れられて、

勤務医として、、、晩年、、、

兄の招待で、会合などするようになりましたから、、、

何が幸せなのか、、、わかりません。

結果的に、、、

新規開業の時代は過ぎて行ったのかもしれません。

地域に根差した

地域のニーズを、

親子世襲で、、、

頑固なまでに守り続けている医院が生き残っています。

父の時代からの知人として、、、

お孫さんの時代に入っています。

 

私は、臨床家としては悔いのなかっただろう父の生き様を心の宝物として、、、

54歳の若さで、医師をすることで、

これからが社会への恩返しだというときに

消えてしまった父が、

残念でなりませんでした。

戦後、、、やっと、落ち着いたときに、

よりによって、前日は患者さんの為に執刀していながら

翌日の早朝、、、逝ってしまうなんて、、、あきらめきれませんでした。

 

主人の家も、お父さんは医師の家庭の長男ではあったが、、、

芸術家の道にでっぷりとなり、

弟さんが家業の開業を継いだ家庭という変わり種で

医家に、、、限りなく近いが、、、

従妹も、女医で、もう一人の従妹も、開業医という

医局の経験の浅い医師に囲まれていたためかもしれないが

 

医局は、自分の為にあるわけではないから、、、

思うように出たり移動したり葉出来ないとわかったのは

東京に、返るつもりで、一般病院で貯蓄が出来た頃でした、

再び医局に呼び戻されて、月給が半分になったことでした。

東京に帰ろうと、、、爪に火をともして貯蓄した貯金が有ったから、、、

医局の生活も、皆さんについて行けましたが

医局長や、何やらかんやらの世話役や、学会や、研究や出費ばかりが続きました。

この段階で、、、東京には、、、帰らないという事が

世間知らずの私にも、やっとわかりました。

「もう、、、待ちくたびれた、、、と、母は逝ってしまった。」

この前後に、母はしっかり守り切ったと、最後の手紙を受け取った後、

実家をたたんでしまった兄は、それからは連絡は途絶えて、

年賀状だけになっていきました。

後日、、、崎田先生と御一緒の論文と

掲載のパンフレットが送られてきました。

がんセンターで取得した

胃カメラの指導医の免許を必要とされて

千葉の名門の大病院で設備のそろった、、

、医師としての心の満足の得られる環境に勤務しました。

実家を継ぐこともいらなくなった弟は

むしろ、、、弟らしい医師としての

思うままの 目的に沿って、

良い仲間に恵まれて、

塞翁が馬だったと、私なりに思いました。

弟にも、一銭の遺産も無い。

実家が売られて事も、、、後から知らされたというから、、、

明治生まれの両親は、

全てを長男に託すという時代だったことが哀しいまでに、、、

兄弟には何も渡らないままに、、、実家が無くなった。

海外旅行に、、、消えていったのだろうか、、、

ストレスのある時は、、、海外に、、、わけもなく出ていましたからね、、、

人を待たすつもりではなくても、、、

待って待って、、、現状維持をしながら待ってくれていた兄は

医局生活を知らないだけに、、、

ストレスが有ったのかもしれません。

 

弟の事を、、、羨ましいよ、、、

医師として、生きれるのは、、、最高だよ、、、

旦那に貧乏だっていいよ、、、

医学に沿って生きれるならネ、

弟は弟で、、、自宅も無くて、借家暮らしが続き

家族には、苦労も掛けたのだと、、、ぼやいていましたが、

研究と臨床の両輪で、自分の夢に活きれた弟は、私の中の太陽でした。

自分も、、、自己実現に生きれたら、、、最高だろうと思いながら、、、

自分の才能の無い馬鹿さに免じて、、、

主婦をして雑学で76歳まで来てしまいました。

弟は、、、国立がんセンターで、、、

ヘリカルCTの開発などに

グローバルにかかわって、医師としては時間は激務だったとは思うし

月給も、国立だから、、、奥さんは苦労していましたが

医師としては、、、悔いのない最高の環境で、

「がんの撲滅だけを考えて、、、」

痛みのない検診に、CTの医師の求める画像の充実や、研究や、画像と、病理解剖の連動した考えなど

家庭を振り返る暇は無かったと思うのです。

弟の出版した「肝胆膵」の医学の教科書は

私の家の次男も大学時代に使って勉強しました。

「叔父さんは、、、神の域だ、、、すごいよ、、」と

息子は、学生時代には、弟の休み時間に

いろいろ指導してもらいながら、、、

結果的には、、、尊敬が、自分の進路となって、

同じ科に進みましたが、臨床医師として、

現場に人生をささげて、自分なりに、頑張っているようです。

 

ハーバードに留学して、アメリカの学会発表の時は、

亀田病院勤務医になっていた兄と、

アメリカの学会畳で会えたと言っていました。

 

つまり、、、開業という、、、父の残した蛹からは

勤務医が飛び立って、、、羽化して、、、大空を飛んだという事です。

 

実家は売られ、、、学問に費やした父の遺産は、、、

100円という金銭も

妹には回ってきませんでした。

ある日、、、兄からは、、、ゴディバ、、、のチョコレートが

送られてきました。一枚の招待状が入っていました。

「北海道の勤務医の奥さんでは、、、

たぶん遠すぎて一生、で出会えない

口にすることを経験できないワインを御馳走するよ。」

 

それが、、、父の残した遺産の一部だったつもりなのだろう、、、

 

そして、、、母が、

≪老後の最後まで、父の開業を守ってくれて、、、ありがとう、、、≫と

遺言代わりに兄を守っていった手紙のコピーも添えてありました。

≪勤務医になったのは

正しい判断であったし、努力は称賛したい。ありがとう、、、≫と

兄に残した、自筆の手紙をコピー!!!!!して、

帰り際に、全文を渡してくれた。

 

陛下がヨーロッパで、立ち寄られたワインのレストランを、

日本の国内にも開設されたという「レストラン」は、

「私には、、、猫に小判のような価値」であったと思いました。

 

高級レストランには,、、場慣れしていない私には

ワインの味も、、、香りも、

不調法ですから、、、くたびれました。

ただし、、

 

、田舎育ちにでっぷり漬かった私は、

 

カウンター内のボーイさんとの話の方が面白かった。

「お客さん、、、何か気が付きませんか?」、、、と。

ボーイさんが言った。

「しっとりと、、、高級すぎる気配りで、、、私は気が休まらないのですが、、、

これほどの店に、、、出されるワインのアトラクションの棚に

「どろ」のついた瓶が並んでいるのは、、、何故なの?」

 

「お客さん!よくぞ気付いてくれました。

これはね、、、戦争中、

土に埋めることで、、、

守ったワインなのですよ、、、

独裁者に、、、飲んでもらいたくなくてね!!!」

 

私は、、、お金ではなくて、、、

勤務医になった兄が、、、

大いなる遺産分けのつもりで、、、

私には高価すぎるレストランに招待してくれたのは

この、、、

「泥で守ったワインを私に飲ませてくれるためだったのかもしれないと。。。」

私は勝手に了解した。

贅沢なワインの味を味あわせる為ではなくて、、、

「どろ」で守らねば

「守れない時代を生き残ったワイン」と

それまでしても、、、

独裁者に飲ませたくなかった農民の気骨を

気付いてほしかったのかもしれません。

 

兄は、、、実家を売っても、、、勤務医になれば

医師としての設備やスタッフや医療機械に贅沢をすることで

医師をするという時間を飲み干せたのかもしれません。

 

私には、、、この瞬間が、

見えない大いなる遺産になったことは確かです。

お金では買えない、、、

「空気」だったと思いました。

 

帰る実家も無くなったし、、、

兄の息子は、、

、結婚式にも,、、招待状は、くれなかったけれど

女医さんと、実家の名前は守って開業しているし

北海道に、、、主人はしっかりと貢献できたから、、、

医師をすることのサポートは、私にとっては大きな意味が、、、自分にはあるのです。

あまりにも早く逝った父のサポートをしていたような

錯覚ではあるのですが、、、

主人が一日でも長く、、、世の中に貢献できている舞台裏は

それなりに、私の中では、、、間接的に

社会に貢献できたと思いつつ、

今も、元気に、、、」雪を掻いています。

 

今は時代も進んで無給医局員などと,、、人権の無いような制度は無くなったけれど、、、

無給医局員の時代に生まれてしまい

生き残りをかけた主人の生き方と、

学閥の有った時代の、、、成り行きで、、、

何の役にも立てないまま

忘れ去られていた私ですが、、、

気が付くと、、、孫も子供も大きくなって、、、

別の知り合いが出来ていたのでした。

兄とは年賀状だけの付き合いになりましたが、、、

84歳で

元気で現役ですから、、、

全て結果が良ければすべて良しという事です、

開業を続けていたら、、、生きては居なかったでしょう。

時代の谷間で、、、

咲き損ねた、、、

本当は美人だったかもしれないと

真っ白な白髪頭のおばあさんに

「あなた?誰?」と聞いている私です。

 

これは小説の下書きです。

ノンフィクションです。

ところどころ、、、実名も使いました。

私の、アホンションな理解力の判断で書いていますので、

次元の高いあなたは、、、

面白おかしく、、、「私、、、間違わないので、、、」と

TVを楽しむように、軽く受け流して読んでください。

ノンフィクションの日記でした。