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人間の持つ雰囲気。それを醸し出す姿の、なんとよく似合っていることであろうか。子どもの頃の、純粋な心では、誰しも同じ瞳の輝きが、そのまま現れる。育つにつれて、環境やら、関わる人間の対応で、変化して性格・人格を形成するのだ。
また、同じ親でも、対応によっては、著しく違う。人間であるが故に、心が変わってくるのかしら?この年になってきて、しみじみと思う。親や兄妹って、一体なんなのか・・・。貧乏より、お金持ちがいい。ブスより美人がいいのは、わかりきっていることだが、100人の人間が居て、99人のブスが居なければ、1人の美人はできない。
でも、それを決めて、たった1人の美人のために、99人のブスで終わることもない。ちょっとした配置違いで目も鼻もある。美人以外は、空気を吸ってはいけない。と言うのなら別だが、そんな条例はないのです。
外見は、化粧で誤魔化せます。できないのが心です。心は、どんな美人も、醜い顔を晒します。私にはそれが視える。認知症は、心が純粋に還っていくのではないかしら?食事一つをとっても、自分の納得した食べ方をすれば、他人の配膳には手を出さない。
時間ばかりを気にして、心の中で、いらついていると、とんでもない展開になるのだ。荒れたざらついた気持ちでは相手には通じない。心を通わせることの難しさに、言葉もない。日常生活の、援助をしているのではあるが、途方に暮れて泣きたくなる。教えられることのなんと多い日々であろう。
個々の人に合った対応がいいには決まっている。でもそれが、何故できないのかしら?しようとしないから、とも思えるのは、私が未熟であるからか。毎日、目標を決めて、その1つをして帰路に着く。できないことの方が多いが、明日に望みを託す。私にできることは、心で接する、ということ。これからも私なりの工夫で、学んでいきたい。
勤務時間が不定なので、我が家のしなければならないことが、次第に増えていくの。今日は、剪定した月桂樹の木を、束ねてゴミにしました。何処ででも焼けませんから、可燃物で出します。近所の小父さんが、ほうれん草と水菜を分けてくれましたよ。野鳥が狙って、来るそうです。ネットをかけていますが、無農薬かな?今晩は、ソーセージと、ほうれん草を焼いて食べよう。
昨日は、巻きずしをし、夕飯でたらふく食べ、今日の昼にも持って行った。弁当のいいところは、残り物で済むし、野菜が入れられることです。栄養のバランスも、確かに大切ですが、それをすると生活できません。バッジを付けて、ふんぞり返って居眠りしていても、給料が転がり込んで来る訳ではありません。
世界中の至る処で、じっと手を見ていられる人間の多いことかしら。最悪では、じっと手などを見ていられない状況の方も大勢かもしれませんね。
春の陽射しに佳く似合う花です。これはナメクジの好物らしく、翌年には咲きません。初夏から、秋口にかけて、あっという間に平らげてしまいます。ソラマメの皮があれば、退治できることがわかったので、今年は試してみよう。