枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

仕事への責任感

2010年05月15日 | Weblog
 勤務先の仕事も、その日の勤務内容で異なる。けれども、基本は同じで変わりません。最近、気になっているのが、自分の仕事をしないで、楽な仕事ばかりを選んで、命令口調で言うことです。主任やリーダーは、そういう言い方はされません。能力も資格もない人に限って、それらを主張する。莫迦馬鹿しいので、相手にしないのですが、向こうはどうしても威張りたいらしく、威圧的に物を言う。気の毒なことこの上ありません。

 私には、超能力がある訳でもなく、同時に人並みはずれた才能があるのでもない。神の存在を信じるから、傍に居てちょいと援けてくれる。力を貸してくれるのです。素直な心がありさえすれば、神さまは視えます。窮地に立った時、力を貸してくれるのですよ。神は、聖書の中に居られるのでも、教会の中に存在するのでもない。人間の心の在り方に添っていてくださるのです。

 お釈迦さまにしても、菩薩さまも同じで、お守りの中などには居ません。その仏さまには心が入っていないからです。真実の神や仏は、魂と共におわします。大量生産でなく、一体を一心不乱に彫っているなら、誰に言わずとも視えます。それがわからなければ、何等価値はありません。このところ、そういった超常現象が頻繁に起きて、背筋が凍りつきました。我が身が望まなくても、教えを乞うのでしょうね。

 例えば、森の中に、樹齢何百年の御神木があっても、その気を感じ取れる人は、何人居るでしょうか。自然の中に、じっと目を凝らしたり、風の音を聴き分けたり、雲の様が見て取れるにも、人間の慢心があればできません。自然と一体して、溶け込めなければ、判らないのだと思う。言葉に出して判るのでなく、感じ取れなくては判らないのです。これだけは体験しないと説明できない。

 Aさんは、ひょんなことからそれがわかったのです。また、その周りに居て、今まで変化の見られなかった方が、信じないかも・・・と話されたそうです。その時までは、半信半疑だったAさんも、私の言っていた全てがやっと判り、こういうことだったのか。と頷かれました。悟り、とはそういったことではないかしら。いくらお経を唱えても、形から入っていくから、その本質が見えなくなる。あまりにも素晴らしい!と光に顔を向けるから、闇に包まれてしまうのです。

 闇に眼を凝らせば、光は視えます。闇に居て己を失わなければ、光への移動は自由です。邪悪な心は見破れます。そうしたら近づかなければいいのです。類は友を呼ぶ。と言いますが、そちらには決して往ってはなりません。病気なったり、怪我をしたりします。神の御心のままにして、自分を磨くことに専念しましょう。ノアになるのは、私ではありませんが、自分の使命は果たしたい。

 某新聞に、宮本輝氏の連載が載っている。今朝の文中に、横着はすまい。と主人公が思う件があったよ。何をするのも、大儀がらずにする。文句を言ってもするのなら、最初から黙ってすることだ。或いは、他の人がしていたら、援けたり、動き易くしてあげよう。自分は楽ができた。とおしゃべりをしているのでは、人間としての成長がない。最も、そんな人は気づかないだろうけれども。

 枇杷葉の下。南側の鉢です。チューリップ、紫ラン、クリスマスローズ、こごめ花、バラの挿し木、レースフラワー等の鉢がある。この一帯が咲いていた時には、初夏の陽射しでした。
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