枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

悲喜交々

2010年09月06日 | Weblog
 人間は、悲しい事や辛い事から、逃げようとするのは何故だろう。逃げている心算が、同じところに時間が経ったら還る、メビウスの輪のように思えてならない。事が起きた時に、きちんと対応していないから、屋根は崩れ、壁は落ち、住めるものではない状態になっている。修繕不能だが、この場所にしか往くべきところがない。ここで朽ち果てるか、それとも死んだ気になって出直すか。

 過去を悔やんでも始まらない。煉瓦の家でなくても、藁の家でも佳い。自分の身の丈にあった生活をしよう。何もかも人に頼るのではなく、できることをすればいい。生きる知恵を働かせてみよう。周りをよく観察して、どうすれば食べ物が手に入るか、工夫することも大事であろう。そういった時に、枇杷の樹があれば、心底助かる。病気にならないで、元気を蓄えられるし、知識があれば活用もできる。

 地球の恩恵を受ける。というのは、自分勝手な欲得でなく、使わせてもらったら、恩返しをすること。酸素を吸う代わりに、二酸化炭素を引き取ってくれるのだ。感謝して余りあるもの。決して当たり前のことでなく、いただける幸せを思い巡らせる。日々、感謝です。お天気が続くのには、何か理由があってのこと。暑いのにも、チャンスと勝負に出る者も居れば、我慢の為所と動じない者も居よう。

 自然のままに生きることは、自分を見失わないことであろう。調子がいいのでも、小狡のでもなく、人のために働けることを潔しとして、苦労を厭わない人でもある。相手の痛みがわかり、傍に居ることの出来る人。そういう人間に近づきたい。机がなくても毎日が勉強。学ぶことのなんと多いことだろうか。私は、その中の一つもできてはいない。未だ未熟な自分を思い知る。

 昨年は、百日紅がちっとも咲かなくて、がっかりしていたのだが、今年は、赤の斑入りも咲いて、薄紅色、桃色、濃い紫、薄紫、白色と紅色が満開だ。猿も木から落ちる。というのは、この木に登ったからか。魚の小骨が喉にひっかかった時には、この木膚で喉を摩ればいいのだ。昔は、牛を入れている杭、詮木に喉を押し当てていた。よく噛めばいいのに、そそっかしいからで、丸呑みにしてしまう。困ったものであった。

 台風が接近しているようですね。明日は、休みにしてもらって、市内まで出かけます。お天気はよくないようですが、涼しいでしょう。風があるようですね。平岩弓枝の『妖怪』を読む。水野忠邦の人物も、こうして読むと、その生き方は凄まじいものを感じる。遠山景元は、庶民の人気は凄かったが、その舞台裏での駆け引きは、とても手の込んでいるのが面白いのだ。名奉行と云われた御仁だが、大岡忠輔の方が、人物としては好ましい。

 どちらも、テレビが創り出した虚像であろうが。後々の人々に語り継がせる要因には、誇大し、誇張する必要もあったか。枇杷葉は、時には悪者になり、はたまた欲目に言われて、今日まで何とか実績を伸ばしている。私の場合は、腰痛が主なので、焼酎に漬けた物を患部に手拭で包んで当てます。足の痺れも取れます。ハンドタオルでもいいのですが、幹部に直に貼るよりは、かぶれないでいいですね。

 今夏に咲いたものですが、真夏日の中、咲いているのは異常でした。
コメント
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