枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

重陽の節句

2013年09月09日 | Weblog

 菊の花が見事となる時期。これを以って、重陽の節句と云う。一昔前には、菊も手塩にかけて育て、品評会をしたものだった。菊人形が竹垣の中で、競い合っていた。駐車場を借り切っての展示である。苗から育てて、見事に咲かせる。

 最近は、そういった季節感が少なくなった。花を愛でる、という情緒も薄い。他人が丹精込めて作ったのを、平気で持って行く。植えているのを盗って行く。花盗人は罪に問われない。と云われる故だが、充分な犯罪であろう。殺人にもなる。

 高々、花だと思ってはいけない。作った者には、精魂込めた魂が宿る。花であろうと、心のこもりようが違う。人間だと誘拐だ。身代金こそ要求しないかもしれないが、やはり立派な犯罪だ。人様の物を、黙って手折ることは慎みたい。恥じである。

 東側の枇杷葉のある所で、ふと見れば、きらん草が生えていた。我が家には根付かないもの、とすっかり諦めていた。友人が分けてくれるので、実家になくても安心していた。母が、不憫に思って生やしてくれたものか。墓参りのお蔭でしょうか。

 朝夕がめっきり冷える。夕方、帰宅しようと駐車場まで向かっていたら、宇宙に月と金星が並んでいた。観ているのは、私くらいで、無関心が多い。農事歳時記は欠かせない。暦の注文をしておく。旧暦も忘れないように。月日が周る速さよ。

 枇杷葉の苗も、すくすく育つものから、一向に大きくならぬ物まで、様々である。人間と変わらない。というよりも教えられることが多くある。感謝すれば、ちゃんと応え、いい加減だと実は結ばない。自然に委ねることの一線を、微妙に察する。

 明日は、充分な態勢で入浴介助をしよう。寒くなると腰痛の具合が悪くなる。毎晩、蒟蒻を当てている。年齢的に体力の回復が追いつかない。無理はしないが、仕事はしなければならない。無事に一日の過ぎることを願い祈る。神頼みである。

 今年、袋かけをした白枇杷。来月には、苞が付くのが見えるが、さて暑かったから、どうだろうか。

 

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