天気が変わり易い。洗濯物を外に干すのは、屋根か庇があるといいが、オープンでは不足の事態に慌てる。洗濯物が濡れたくらいで、命が亡くなる訳でなし、人間の方が先である。講釈も屁理屈もいいが、勤務優先でしてもらいたい。お喋りは止めてくれ。
休憩時間に昼食を摂り、身体を動かすにも、協力がないと出来ないもの。当然、ほうれんそうは大切で、基本である。最近は、そんなことまでを、出張で教わって来るのだ。自分で気づいて学んではいかない。嘆かわしい時代になった。家庭で教えておいて。
面白い本は、誰が読んでも魅力がある。と想っているが、思考が違うと大きな差がある。物理の化学記号が楽しい者には、花の美しさは分らない。宇宙の星にも、其々の物語があることを想えない。あらゆることを記号や、方程式で解明するのが楽しいのだ。
源氏物語に、枕草子に、万葉集に関心を持てば、人物が浮かび、生活が見えて来る。宮廷での摂政と、庶民の暮らしに想いが至る。現代では適えられない、失われた世界感。其処での暮らしには自然との折り合いが含まれ、厳しいものが待っているものだ。
暑さ、寒さへの、自然を相手に生きていく術を、乗り越えていかねば、たどり着けない。犠牲者も大勢いたであろう。丈夫な身体でなかったら死ぬ。古人の歩んできた時代には、生半可なことは出来なかったろうとも。機械に操られる時代になることは予知範囲。
戦争がないと、流通はないし、富も栄えもないそうだ。如何に逃れようとも、そういった繰り返しで、歴史は構築されてきた。核の保有国も、科学の進歩にも、地球の発展を願ってしてきたことではない。人間の、人類の身勝手さそのものだろう。やがて消える。
光の大きさと、闇の広がりは同じなのだが、人類の心にある闇を、取り去ることは出来ない。善人も悪人も居るし、由り偏った者も居ない。それでも、姿を借りている感謝を忘れないでいれば、行いは明るいものとなる。いつの時代にも、悪は存在し続けるが。
枇杷葉の花芽。9月下旬には、葉先に膨らみが見えだし、薄茶色の苞の状態で確認できるようになる。そこからしだいに。白枇杷。