定期も現金も何もかも失くした僕は、電車に乗ることすら出来ない。ここから徒歩で行ける知り合いの家といえば・・・・。一瞬、躊躇したが、僕は彼女の両親が残した一軒家のチャイムを押していた。こんな時間だから、彼女はまだ寝ているだろうと思いながら。
意外にも中からすぐに彼女の声がした。もう、おきているのか。僕がチャイムを鳴らしてから玄関の扉が開くまで、ほんの30秒ほどだった。
「どうしたの? こんなに朝早くから訪ねてきたりして」
彼女は今起きたという姿ではない。一晩中、眠らずに起きていたか、或いは朝帰宅したのか・・・? いつも僕を買い物へ付き合わせるときと同じ、ジーンズにTシャツという いでたちで玄関に立っていた。 彼女にしては珍しく、僕が疑問に感じたことを察したかのように、テーブルの上に置かれたプラスチックの袋へ目配せした。
「お腹がすいて、眠れなくて。コンビニから戻ったところだったの。食べてもいい? あたしの分しかないんだけど」
「ああ、いいさ。それより電話を貸して欲しい。職場へ連絡入れないと・・・それから警察へ・・・」
僕の言葉を遮り、彼女は何故、警察などへ電話するのか?と訊いてきた。さっきから気になることがある。彼女の視界には擦り傷だらけの僕が・・・・とくに怪我を負い、出血している手が写らないのだろうか・・・・と。
「ひったくりにあったんだ。相手は三人。浮浪者だと思う。怪我はたいしたことは無いとは思うが、一応、手当てだけは、ここでさせてくれないか? 救急箱はどこ? とりあえず、出血をとめないと。まずは電話だ」
僕が ポケットに入れていた自分のハンカチで傷口を押さえながら、受話器へ手を伸ばした、そのときだった。彼女は素早く受話器を取り、叫んだのだ。
「この家から警察へ電話だなんて、絶対に駄目よ! 電話したいなら、公衆電話でも使ってちょうだい!」
僕は呆気にとられ、何故だ?と聞き返すのが やっとだった。
「だって、警察がここへ来るのよ。何時間、時間を取られると思っているのよ? 自ら出頭したらいいでしょ? ここを舞台にするのはよして」
怪我をした僕を全く気遣うことがない。「その手、どうしたの? 洋服も汚れているようだけど? 何かあったの?」 そういう一言を期待していなかったと言ったら、嘘になる。彼女は僕の異常事態に全く関心が無いどころか、気付くことすらないのだ。その現実を僕はしばらく無視しようと努めた。同情して欲しいわけじゃない。大丈夫?のひとことに、きっと僕は・・・・何を期待しているのだろう。
「分かった。警察へは通報しない。傷もそう深くは無い筈だ。だが、職場へ連絡しなきゃいけないんだ。遅れるから。それはいいだろ?」
彼女は、仕方ないわね・・・と呟いた。サンドイッチを頬張りながら。ひとごとのように。無邪気でいいかもしれない。過剰反応されて泣き出されるよりはマシだ。僕は無意識の内に手の中に収めていた象のちぎれたキーホルダーをテーブルの上にポトンと置いた。
「どうしたの、これ?」
彼女の けたたましい声が耳元で響いた。いつの間にか椅子から飛びのいて、僕の真横へ来たのだ。
「どうして象のチェーンが切れているの? それに・・・・貴方、さっき、ひったくりに合ったって・・・一体、何をなくしたの?」
どうなっているんだ? 彼女はたった今、ひったくりにあった、という事実を初めて認識したようだった。
「見ての通りだよ。カバンごとひったくられて、手元に残ったのは、引っ張った時に千切れた、こいつ・・・・象だけだったんだ。プレゼン用のデータも、財布も定期もカードも失くして・・・・」
彼女は僕の頬をひっぱたいた。パン!という鈍い音が僕の頬を伝って鼓膜まで届いたかのようだった。僕の正面に彼女が顔を真っ赤にし、怒りをあらわにして立ち尽くしている。これは、どういうことだ? 彼女は何を怒っているんだ?
ズキッとした痛みを手の甲に感じ、視線を落とすと、白いハンカチから血が滲んでいた。思ったより傷は深いのだろうか。
「救急箱を・・・・」
僕の言葉を またしても彼女は遮り、突っぱねた。
「そんなの、たいしたことないわよ。それより私が あげた物をなくしてしまうだなんて!」
一瞬、何を言われているのか、分からなかった。ここにあるだろう。キーホルダーなら。
「お財布よ。お財布! あげても使わないと思ったから、文句を言ったら、やっと使い始めたなって安心していたのに、やすやすと失くしてしまうなんて!何を考えているのよっ!」
「・・・・・」
開いた口がふさがらない、という台詞が世の中にはあるらしい。きっと、こういうときの為に使うのだろう。僕は文字通り、開いた口がふさがらなかった。僕の心配は全くしないのか? こういう状況でも、自分があげた「物」に こだわるのか?
「お金を貸してくれないか? 職場へ行かなきゃいけないんだ。話は後でしよう」
そういいながらも、僕はもう何も言う気はしなかった。彼女の罵声を背中にあびながら、黙って その家を・・・・いや、彼女から離れた。
続く