独り居の充実ライフを求めて!

ご訪問を頂きまして有り難うございます

新しい道路の完成 7/7

2005年04月20日 18時59分52秒 | 我が家・親族

               
新しくなった道路から移築後のわが家を望んだ写真があったので一応工事完了に!最後のページを飾ったものの何とも味気なく淋しい!
そこで 上段 には上記の   を。

            
この新しくなった道路周辺も現在は店舗、マンションに姿を変えている。
わが家も近くの住宅地に住まいを移しながらも懐かしい想いは失せる事の無く!
長女は思い出を語る事もありますが二女誕生後の事業開始に勿論長男も知るよし無し。
最後の頁の 下段 には一応、区画整理が終了したときの子ども達を  に収めました。
姑は病に臥しており、一番大変な時だったことを思い出しました。
  
              
               
             川柳入選句より  「幸せはご先祖様に守られる」

       私の気持ちを子供達に伝えたい! 「思い出の家」に寄せてよりの抜粋より。

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「宝導寺台貝塚」と命名 7/6

2005年04月20日 18時17分37秒 | 我が家・親族

                                             吾が庭を調査する早稲田大学の学生さんの皆様   
工事が中断された期間は?今となっては記憶も定かでありません。
早稲田大学の学生さんによる調査がおこなわれました。
近くに全国的にも有名な「加曽利貝塚」があることから行われたものと思います。
大切な発掘物は?
いくつかは加曽利貝塚に届けたようですが?
ただ家庭菜園時に貝がらが多く、鍬が入らず苦労の連続であったことが証明されました。

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貝塚が発見された7/5 

2005年04月20日 17時11分55秒 | 我が家・親族

造成中に貝塚が発見され工事が一時中止の庭に長女 (昭和40年生まれ) が遊んで!
貝塚調査は早稲田大学の学生によって行われました。
後に 「宝導寺台貝塚」 と命名されました。

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昭和43年5月区画整理事業開始7/4

2005年04月20日 17時00分45秒 | 我が家・親族

ブルドーザーの進入に病床にあった姑の嗚咽は未だに耳から離れません。 
「私のお家に何をするんですか」 悲痛な叫びでした。
この写真を見ると私が丹精した100坪余もありました家庭菜園の最後の「からし菜の花」が懐かしくも寂しさを覚えます。

土手の上は、現在千葉県知事公舎等の官舎、千葉TV会社等があります。

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昭和42年最後の雪景色の庭 7-3

2005年04月20日 16時59分54秒 | 我が家・親族

 
           昭和42年我が家最後の雪景色の庭                     長女 康代2歳の頃の思い出

この写真を見開きにして当時2歳の長女を抱いた写真を挿入しました。 この雪景色の写真はとても思い出に残る一枚でした。

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昭和43年最後の春の庭!懐かしい「丸窓」を望む 7-2

2005年04月20日 15時41分30秒 | 我が家・親族

  
        昭和11年生まれの夫は別枠に保存                             この庭が知事公舎下の18メートル幅の道路に  

わが家の門柱と廊下間に18メートル幅の道路が完成。

もう半世紀も昔のことになりましたが、珍しい樹木に四季折々に彩られた沢山の花 
写真に残る水仙は義父の指導のもと、毎年掘り起こして堆肥を自分で作って植え付けていました。
100球ほどはあったように記憶しています。大きな一重の花だったと思います。

           

        美味しかった何種類かの沢山の甘柿の木                          水仙の中の長女(昭和40年12月生)と私
美味しい柿が実るための寒肥!
義父の指導のもと、根元から1メートル離して5本の木の周りの穴掘りそこへ天然肥料?の施し。

実家の母に「辛い」と、こぼしたことも。「何事も自分自身のためよ」と叱咤激励してくれた母を懐かしく思い、

小春日和のあの日
義父が「あなたのおかげで今年も美味しい柿が沢山実りましたよ」とざるいっぱいに沢山の柿を一番最初に手渡してくれた義父の温もり。
嫁してから僅か2年、「お母さん(義母)と息子(夫)を頼みます」と、昭和40年2月13日77歳で旅立ちました義父に大切な忘れられない想いが蘇りました。

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「思い出の家」を作成して!7/1

2005年04月20日 13時46分42秒 | 我が家・親族

2005年(平成17年)4月19日(火)
週1回のパソコン教室へ通い始めて早5年、先生友人に恵まれなかなか卒業できずに新しいカリキュラムを組んで頂き、学ぶと言うよりは楽しんでおります。
続けていたからこそブログにも出会え、念願の 「思い出の家」 編集も完了!

今回はドリームブックソフトを使用。
ワードで作成より、より簡単に新しく学ぶことが出来ました。
アルバム編集!いつも題材に苦慮し悩み苦手な講座ですが、今回は私なりに大作(?)に挑んだ!
千葉市区画整理事業により 「わが家の庭の真ん中に18m道路が!」 今から38年前の事でした。
夫の両親が半世紀に渡って大切に育んでくれた我が家を、小さな庭園を、一瞬にして全てを失ってしまいました。
このことを知る最後の責任者として夫が残してくれた懐かしい写真を手がかりに編集をしました。
                 
           
          表紙は 昭和43年最後の春 門から自宅を望む を挿入
最初の1ページ 
「思い出の家」 に寄せては昭和38年に嫁いでからの両親への思い等を記しました。
最初の家は、昭和初期に400余坪を有する庭には、珍しい樹木と四季折々の花が咲き乱れ、秋には沢山の甘柿が収穫され、兄姉、隣人達にとても喜んでいただきました。
当時、町内には2階建は珍しく、その2階部分に造られた 「丸窓」 は家族は勿論ですが、隣人にも親しまれ「丸窓のあった家」としていまだに語り継がれております。
しかし、昭和39年4月3日付千葉市長 宮内 三朗名で送付された 仮換地(宅地)指定通知  を受理せざるを得なく、区画整理事業に協力する事になりました。
      (中  略)
ブルドーザーが初めて庭に進入してきた時の病床にあった母の嗚咽はいまだに耳から離れません。
「私のお家に何をするんですか。いやですよ。」 悲痛な叫びでした。
      (中  略)
尊敬する両親と今は亡き夫に 「有り難う」 の感謝の気持ちを捧げながら  を学んだ証として 「思い出の家」 を作成しました。

      川柳 幸せはご先祖様に守られる 2004.8.22 千葉日報掲載 (以上抜粋より)
   
2ページ目には
初代家族の写真(昭和8年頃)を挿入。
夫(11年生)は可愛い赤ちゃんの写真を別に挿入しました。
      
先生のおかげで大切な「思い出の家」の歴史を綴ることが出来ました。
先生有り難うございました  

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