糸瓜忌(へちまき)
(正岡子規の命日)
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へちま三句 ↓ |
・糸瓜(へちま)咲て痰(たん)のつまりし仏かな
・痰一斗(たんいっと)糸瓜の水も間に合はず
・をととひのへちまの水も取らざりき
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病気と闘いながら文学活動を続けた正岡子規は
明治35年9月19日に東京の子規庵で亡くなりました。
寝たきりの子規は、家族や仲間に助けを借りて
死の数時間前に上の三句を書き残します。
どれもヘチマの句だったので「ヘチマ三句」と呼ばれ
このことから子規の命日9月19日を「糸瓜忌(へちまき)」と言います。
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上記ご紹介のHP http://home.e-catv.ne.jp/hanatori/hetima.htm
短歌雑誌 「輕雪」 千葉歌会 「洸の会」 学習会は毎月第4水曜日に行われます。
9月23日(第4水)午後1時から若葉区千城台公民館において開催されました。
この度は、先ず9月30日(第5水)正岡子規のへちま忌開催中の「子規庵訪問」に正岡子規について講義を頂きました。
以下は先生の資料及びHPからの転載
喀血したことから、「鳴いて血を吐く」[2]と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。
1897年(明治30年)に俳句雑誌『ホトトギス』(ほとゝぎす)を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。
漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。
短歌においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本』に連載。古今集を否定し万葉集を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新に
つとめた。根岸短歌会は後に伊藤左千夫・長塚節・岡麓らにより短歌結社『アララギ』へと発展していく。
やがて病いに臥せつつ『病牀六尺』を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録と、現在まで読まれている。
同時期に病床で書かれた日記『仰臥漫録』の原本は、兵庫県芦屋市の虚子記念文学館に収蔵されている。
子規は詩の世界にも専念することとなり、1897年(明治30年)に俳句雑誌『ホトトギス』(ほとゝぎす)を創刊します。
ホトトギスでは、夏目漱石の『坊っちゃん』『吾輩は猫である』が発表されるなどして話題を呼び、大正、昭和初期において、俳壇の中心的な雑誌として、隆盛を誇ります。
夏目漱石と子規とは生涯の親友で、イギリスに留学した漱石は、闘病生活を続ける子規を慰めるために、ロンドンでの暮らしについて語った手紙を送っています。
子規はこれを非常に喜んで『倫敦消息』という題名を付けて、ホトトギスに掲載しました。
しかし、その身体は日に日に弱っていき、死の1年前の1901年、ロンドンで英文学の勉強を続ける夏目漱石に「ぼくはもうだめになってしまった。毎日わけもなく号泣しているような次第だ。
……ぼくはとても君に再会することはできないと思う。……じつはぼくは生きているのが苦しいのだ」という自らの悲痛な心境を綴った手紙を送っています。
そして、34歳の若さで、漱石に再会することなく、この世を去りました。
偶然にも書道9月月例作品「ペン字」の部の課題が『病牀六尺』よりであったことも学びの大切さを感じました。
ペン字課題『病牀六尺』より 悟りという事は如何なる場合にも
平気で死ぬる事かと思っていたの
は間違いで、悟りと云う事は如何
なる場合にも平気で生きて居る事であった。
今月の秀歌(悲しみの歌)より
ハンセン病ゆゑに母と別れしは九歳と八十歳(はちじゅう)の眼はしだいに潤む (ハンセン病療養所 草津栗生楽泉園(くりうらくせんえん)を訪ねて)
先生よりハンセン病を「やまひ」と詠むことは×です。字余りでも「ハンセン病」とはっきり詠むこと。
再現の重監房の体験す鍵の音響き闇の迫り来 (ハンセン病史料館見学にて)
この度は、ハンセン病療養所 草津栗生楽泉園を見学されたお方から資料を拝見致しながら説明を頂き、初めて知る多くを学ぶことが出来ました。
どうぞ、ご紹介のHP他をご一読して頂けましたら有り難く存じます。
重監房史料館 http://sjpm.hansen-dis.jp/facility/