本日の整理はどの文箱も皆、大切な戦死の父の沢山の関係書類の中の1箱を開けました。
元サンケイ新聞社記者から論説委員、編集委員を歴任されました諏訪繁治様のお手紙を32年ぶりに拝読させて頂き改めて多くのお心遣いを頂きました感謝に涙があふれました。
40年ほど前「鳥海の思い出を語る会開催」の新聞記事に目をとめました。全員戦死に誰が何を語るのかしら?に連絡先は発起人の諏訪繁治様でした。
1本の電話からお付き合いが始まりました。
当時諏訪様は六本木で喫茶店を経営されてお出ででございましたが、「お父さんの情報を知っている方がいるかもしれない」と諏訪様のお誘いを頂き、六本木まで度々お邪魔致しました。
出席者は全員男性で毎回30名程、いつもいつも「鳥海」乗艦の思い出を懐かしそうに熱く語り合っておられました。
私が父の情報を求めておりますことに何人かのお方がもしや?とお心遣いを頂くことになりました。
このことは後ほど綴りたく思いますが、諏訪様については何も存じ上げずに、かつて「鳥海乗艦経験者」のお方と、お世話になっておりました。
10年前に購入しましたご紹介の著書に初めてお人柄を知ることとなりました。
長い間、ご丁寧にお手紙、資料などを頂きました事に資料のほんの一部ですがここに保存させて頂きまして心からのご冥福をお祈り申し上げさせて頂きました。合掌
上記の本とは10年前に出合いました 刊行のお言葉をご紹介 平成2年12月ご逝去に平成3年最後のお年賀状
諏訪繁治氏のご紹介 「鳥海」は 昭和19年10月25日2度にわたる爆撃を受け、生存者は藤波が救出するも入港を前に27日沈没=戦死とされる。
鳥海乗組員960名全員が海中に消えましたが、田中艦長様と神川副艦長様は「鳥海」艦上にて25日戦死とされております。
「鳥海」に関する沢山の資料を同封して頂きました昭和63年5月8日のお手紙を32年ぶりに有り難く再度拝読させて頂きました
(個人的に頂きましたお心遣いの前文のお言葉は一部省略させて頂きました)
頂きました「鳥海」に関する資料の一部ご紹介 ↓ 諏訪様の説明
諏訪様の上記の説明文の拡大ご紹介
↓ 諏訪様の説明
諏訪様の上記の説明文の拡大ご紹介
永遠に南海に眠ります数多の軍艦のご冥福をお祈り申し上げます
↑○「鳥海」昭和19年10月25日沈没地
「重巡鳥海」の最後(行動年表より抜粋)
19・6・6艦長田中穣大佐着任と記載あり 昨夕の我が家の「夕顔」を諏訪繁治様と田中穣艦長様に捧げます
「田中艦長様のご子息様とただ一人の遺児の感激の出会いを頂いて」
「鳥海」の艦長の子息に出合ひたり船上にかはす熱きあつき握手
「鳥海」とともに眠れる艦長と父また九六〇名のみ霊よ
2011年(平成23年)3月5日~16日迄洋上慰霊に参加の機会を頂きました。
鳥海乗組員960名全員戦死と聞いておりましたので、遺児のどなたかにお会いしたい!とひそかな夢を抱きながらの乗船でした。
3月13日(金)朝、千葉県代表として班長会議出席の資料の「本日の追悼式参列者名」の男性遺児のお方の艦名が「鳥海」と記載されており、「鳥海」の戦死者の遺児は男性と私の2名と確認する
ことができました。
当時の様子を過去ログから振り返ってみました。 慰霊友好親善事業20周年記念 「洋上慰霊」 に参加して (3-2)
3月11日 (金) 7回目 ルソン島南方 (シブヤン海) 洋上慰霊祭 (午前)
8回目 サマール島北方洋上慰霊祭 (午後)
私は11日 (金) 午後、日本時間2時からは私を含む20名の遺児の慰霊祭を執り行って頂くことになっておりました。
個人情報関係から、参加者名簿には、住所、電話番号、艦名などは記載されず、艦名は慰霊祭の朝に公表されました。
父が乗艦しておりました 「鳥海」 は960名全員が戦死とされておりますので、どなたにお会いできますかと名簿に目を移しますと、ただお一人長崎県から参加の男性の船名欄に 「鳥海」 と記入
されておりました。
すぐにお会いしてみたい と思いながらも班長としての仕事が先行しております所へ笑顔の紳士が訪ねて下さいました。
「私は 「鳥海」 艦長の息子 田中 暁 と申します」と名刺を頂きました。
瞬間、父に出会えたかのように感激、喜び、幸せで 胸がいっぱいでどのようにご挨拶を申し上げましたか記憶にありません程に溢れる涙を止めることができませんでした。
慰霊祭に同席させて頂き、千葉県代表して父への 「追悼のことば」 を奉読させていただきましたことに、父への最後の大切な供養が出来ました幸せに感謝を申し上げました。
洋上慰霊に田中暁様に出合いました喜びは、今もなおご厚誼を頂いております事にも感謝を申し上げてご紹介させて頂きました。
田中様は本年は確か93歳をお迎えと存じますが、先日もお元気にご活躍のお声を伺うことができました。
又毎月発行されます日本遺族通信の「九段短歌」にも投稿されておいでですので、お元気の様子を確認できます事も嬉しゅうございます。
田中艦長様のご子息様と父の好物を斎場に供えて 「追悼のことば」 を奉読中に大地震(3.11)発生を後に知る
3月11日 (金) 「東日本大地震発生」 については 「サマール島北方洋上慰霊祭」 が終了後に艦内放送により知る事となりました。
夕刻頃より船も大分揺れはじめ、廊下を歩くことがとても困難だったことが思い出されます。
海上では、テレビ、携帯、電話など全て不可。被災地の皆様には連絡方法などに特別の配慮があったようですが
私たちはラジオから聞こえるアナウンサーの声に耳を傾け、事の重大さに誰もが被災地とされる皆様のご家族のご無事をただただお祈り申し上げておりました。
次々にボードにはられた記事の一部より
「洋上慰霊に遭遇しました3・11の想い出」同好会誌 「洸」 に掲載して頂きました
船会社に関係しておりました友人よりのメールを保存させて頂きました。
「鳥海に係わる長大なブログ拝読させて頂きました。
関係者にとっては大変貴重な資料なのでしょう。
これからも幅広く資料の収集に努め、発表されることを期待しています。」