独り居の充実ライフを求めて!

ご訪問を頂きまして有り難うございます

令和7年度 終戦80年記念版「靖 国」のカレンダーの一部をご紹介させて頂きます

2025年01月11日 07時00分00秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                         
                                                  令和7年度「靖 国」のカレンダーの表紙

                    
                                      昭和天皇御製 及び 靖国神社のお正月風景

                    
                                  上段は令和6年度歌会始御製御歌 及び 1月・2月のカレンダー

                    
                             上段は昭和20年10月靖国神社を参拝する人たち         昭和20年8月15日 皇居前
                    

                    
                                    上段は「終戦の詔書」 及び 7月・8月のカレンダー

        日本遺族通信 12月号の「声なき声」より一部転載してご紹介させて頂きます。
        2024年の重大ニュースと言えば何といっても「平和の語り部」事業が国に認められ、国から補助を受けて47都道府県遺族会と共に一致協力して事業を進めることになったことに尽きる。
        水落会長は「平和の語り部事業を永続的に行うことが、遺族会に課せられた社会的責務を果たす事」と語り、さらに「組織運営にも繋がる」として「青年部組織の結成、育成を第一に組織一丸となって取り組もう。」
        力強い決意表明をされ、新たな遺族会のスタートを切ったことでした。
        令和7年からは新たに「終戦80年からの組織強化3ヶ年計画」と「終戦80周年記念平和の語り部事業計画」が策定され、遺族会にしかできない事。
        それを実現する活動者を育成し、そして増えていく、遺族会の真価が問われる年を迎える。と

        「平和の語り部」は小学校の高学年を対象に、各教育委員会を通して各学校のご理解をいただきながらご希望に沿う内容にすべき行ってまいります。
        千葉市遺族会と致しましては今春早々に千葉市内の小学校のご理解を頂き「対馬丸事件」対馬丸 - Wikipedia につきまして資料を整えて発表の準備を進めております。

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千葉県 松戸市PTSDの日本兵家族会「寄り添う会」開催に90人が参加しました

2024年12月23日 13時10分09秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                   2025年(令和7年)は戦後80年を迎えます。国民の約90%が戦後生まれとも報道され、昭和も遠くなりました。
            又、日本が残酷な戦争を経験したことをご存じない方もお出でになりますことの報道にも驚いておりますが、戦争は絶対に繰り返してはなりません。
                     遺族も高齢になり、年々減少しております。戦争の事実を語れる方は私も含めて間もなく皆無になります。

      又こんな記事を?と思われるお方もおいででしょうが、「語り部」の一人として尽力しておりますことをお許しいただきましてお目を通していただきたくご紹介させて頂きます。

                    お若い皆様方どうぞ、今後の長い人生が心豊かな戦争のない平和な日本が続きますことを切に祈念する者でございます。
                        戦争で得るものは皆無です。「戦争は悪・戦争は絶対にやってはいけない!」と叫び続けてください。

        先日、私が父を偲びました短歌に 医師!と名乗る方から「あなたいい年をして父乞うの激しさはおかしいぜ。医師の診察を」とコメント頂きました(再掲載です)

          今でも気持ちがおさまりません。このお方のお父さまがもしPTSDに苦しみ、そのご家族でしたらどのような感想をおもちか?お伺いしたく思います。    

            又、2022年12月11日 のブログにNHKにて放送されました下記の記事を保存してありましたので再度ご紹介させて頂きます。      

                                   NHK12月9日放送 ネタドリ!
                                  「“戦禍の傷” 親子に連鎖した苦しみ」
                                     太平洋戦争81年
          
           
       

     この度の新聞記事を拝読して又、NHKの放送を見まして国のために出征し、困難から無事に帰還されましたことにご家族の皆様はお喜びになられたはずです。
     しかし、旧日本軍が「戦争への恐怖から精神病となる兵士は一人もいない」と主張したためにPTSDになられました患者は保護されることも無く放置されてきたそうです。
     そのために最大で約300万人の元日本兵がPTSDに苦しみ、家族ともどもご苦労されましたことを知りました。
     私の父はレイテ沖海戦に「鳥海」と共に昭和19年10月27日戦死とされてより後は父の良い思い出のみを信じて今日まで参りましたことを申し訳なくも思っております。
     帰還兵がPTSDに苦しみましたご家族だけではなく原爆の後遺症に今なお苦しむ皆様方のお心にご理解頂きまして「戦争は絶対やってはいけない!」と叫び続けてください。

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千葉市遺族会 靖国神社昇殿参拝へ

2024年12月14日 07時00分00秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                                       千葉市遺族会代表者による靖国神社昇殿参拝

                                  日 時 令和6年12月13日(金)
                                  参拝者 宍倉会長・副会長2名


                           靖国神社境内の桜紅葉も散り果てし寸前の平日の静けさの中に迎えていただきました


         靖国神社昇殿参拝記念御朱印                   靖国神社限定販売の美味しい「銘菓 白鳩の願い」をお土産に購入


         昇殿参拝を済ませて帰路に見る美しいさくら紅葉              宍倉会長と副会長の帰路のお姿と前方の道路の両側に見る美しい銀杏並木の紅葉

           コロナ前は靖国神社境内及び千鳥ヶ淵の美しい桜を愛でながらバス2台ほどで、千葉市遺族会行事として昇殿参拝を行っておりましたが、
                          遺族も高齢化に参加者の減少を余儀なくされます昨今となりました。

            昨年からは会長の自家用車に副会長2名が同乗させて頂き、千葉市遺族会代表として多くの御霊に昇殿参拝を行ってまいりました。
                     この度は「遊就館は休館」の看板に見学することができませんことが残念でございました。

 

下記は昨年12月5日に昇殿参拝しました折の見学時の写真です。


     遊就館に展示されている回天一型改一。国内では唯一の実物。       「ゼロ戦」の愛称で親しまれた「三菱零式艦上戦闘機五二型」        三菱零式艦上戦闘機五二型の説明書                        

「回天とは」(HPより転載)
 先端に爆薬を搭載し、搭乗員が自ら操縦して敵艦に体当たりする水中特攻兵器。
 1人乗りで全長約15メートル、直径約1メートル。脱出装置はなかった。
 1944年8月に兵器として承認された。
 回天記念館によると17~27歳の106人の搭乗員が戦死した。


             三菱式零艦上戦闘機五二型の座席及び説明書   ↑                 ↑ 旧日本軍の高射砲などは元戦場のジャングルなどに残されたままと聞きました

戦後生まれの国民が90%になりました報道に戦後も遥かになりました。
戦争を知らない?と言うお若い方が居りますことに愕然としますが、遺族も高齢になりました。
お若い皆様には「戦争は絶対にダメ!」と、継承して頂きたく願っております。
現在、遺族会では日本各地において「語り部事業」を展開しております。
小学校の高学年を中心に講演会を開催して悲惨な戦争の事実を理解して頂きたく尽力しております。
この度の靖国神社参拝も戦争の悲惨さを理解して頂きたくご紹介させて頂きました。
多くの皆様にお訪ね頂きましたことに御礼を申しあげまして保存させて頂きました。

 12月15日(日)   981PV |588UU |3195579ブログ中 1186

 12月14日(土) 1044PV |598UU |3195535ブログ中   933
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ノーベル平和賞 被団協に授与されました

2024年12月12日 17時41分16秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

戦没者遺児として立場は異なりますがこの度までのご努力に敬意を表し保存させて頂きました。
尚、以下の写真・掲載文は読売新聞及NHK放映から拝借させて頂きました。        

        

 ノーベル平和賞の証書とメダルを手にする被団協代表委員の右から箕牧智之さん、田中重光さん、田中煕巳さん

                                                          
                   ノーベル平和賞の授賞式で講演する被団協の田中煕巳代表委員

          

          
           講演されました田中煕巳様は92歳とご紹介されましたが、とてもお元気に堂々と
           説得力のありました講演のお姿に心から拍手を贈らせて頂きました。
           大変お疲れ様でございました。

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千葉県遺族会女性部・青年部合同会議開催

2024年12月09日 07時00分00秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                          令和6年度女性部・青年部合同会議開催次第                  

                 
                                 「平和の語り部事業について」
                  戦後80周年を目前にして、戦没者遺児等の戦争体験者の高齢化が進む中、
                 その体験した記憶を確実に次の世代へ受け継ぐことは喫緊の課題であるため、
                 これまで慰霊事業に参加した体験も踏まえ、戦争体験の記憶とあわせて次世代に
                 語り継ぐことで、先の大戦の記憶を風化させることなく、戦争の悲惨さ、平和の
                 尊さをつたえていくことを目的として令和6年度より実施。
                  具体的な事業内容としては、語り部の講話活動や座談会、朗読会などを行う。
                  

                  この度、ある小学校の6年生76名を対象に講演会が開催されました。
                  講師は「千葉県原爆被爆者友愛会」の有志の方が「腹話術人形 あっちゃん」を
                 紹介しながら講演会を行い、講演後に児童の皆様から寄せられました感想文が配布
                 されましたので一部を紹介させて頂きます。
                  お目を通して頂けましたら幸いに存じます。

                 「担任の先生より」
                      また、再び世界の平和の危機が訪れております今、今回のお話を聞くことができました事、
                     身が引き締まる思いが致しました。先人の方々の犠牲の上に今の平和がありますことに慣れて
                 しまっていました。日々、子ども達には平和の大切さを説いているつもりでしたが経験された
                 方々のお話とは重みが違うと痛感しております。
                  子ども達も真剣に話に聞き入っておりました。先ずは、自分の身近なところからの平和を
                 実現していきたいと思います。

           (以下は児童の皆さんからよせられました感想の一部です。)        
           

                       昼食後は昇殿参拝 ~ 千葉県護国神社清掃奉仕活動を致しました。
  
                                青年部の皆様の協力はとても心強いです

  
                                 皆様お疲れ様でございました
                  

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2024年度(令和6年)千葉県戦没者追悼式に参列致しました

2024年10月31日 22時00分22秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                 “不戦の心新たに”千葉県出身の戦没者らを追悼 千葉県熊谷知事「平和の尊さ次世代へ」

               戦争で亡くなった千葉県の出身者らを慰霊する「千葉県戦没者追悼式」が10月31日(木)千葉市で行われました。
                     2024年で71回目を迎えた追悼式には、遺族や熊谷知事ら300人余りが参列しました。
            熊谷知事は、「戦争を経験していない世代が社会の9割近くを占めるいま、平和の尊さを次の世代に継承する責務を果たす」と誓い、
              日清戦争から太平洋戦争までの間に戦争で亡くなった千葉県出身者ら5万7000人余りに対し、全員で黙祷を捧げました。

                     続いて、生まれて間もない頃にフィリピンの戦地で父親を亡くした浦安市の大塚勝幸さんが、
                   「戦没者の無念に心を馳せ、不戦の心を新たに誓う」と遺族を代表して追悼の言葉を述べました


                               (以上はネットより転載させて頂きました)


                                                                            頂きました御供物です

      
       千葉県戦没者追悼式のご紹介をされました千葉テレビアナウンサー               会場が狭いことから千葉県下から遺族・来賓で320名の参列でした


             「青葉の森公園芸術文化ホール」にて挙行されました                       「式 辞」千葉県知事 熊谷 俊人氏


            「追悼のことば」遺族代表 大塚 勝幸様               式典の最後は熊谷千葉県知事を初め来賓、各市町村会長たちが献花台に花を手向けました
 

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昭和19年10月27日レイテ沖海戦に戦死の父の80回忌

2024年10月27日 17時37分41秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

        【レイテ沖海戦】1944年10月、日本占領下のフィリピン・レイテ島周辺海域で米国などの連合軍と旧日本海軍が繰り広げた戦闘。
                 日本の連合艦隊は「武蔵」など戦艦3隻、空母4隻、その他「鳥海」を含む艦艇多数が沈没。
                     約1万人が死亡し、連合艦隊は事実上壊滅。神風特別攻撃隊が初めて出撃した。

                             
                    「鳥海」は昭和19年10月25日敵艦隊と交戦中、敵艦の砲弾が命中し、航行不能となった。
                   警戒に当たっていた「藤波」が鳥海の乗員を収容の後魚雷を発射し鳥海は沈没した。

             「藤波」は鳥海乗員を収容し、主隊と分かれ別行動中10月27日敵航空機の大編隊と遭遇、善戦健闘したが、
                   被弾により火災を誘発しついに戦没し、僚艦が捜索したが1名の乗員も発見されなかった。

                             
                                     「鳥海」・「藤波」慰霊碑
            戦役者 鳥海830名・藤波130名、慰霊碑は佐世保海軍基地保存会の皆様により平成10年12月建立された。
                        以後、護衛艦「ちょうかい」が毎年慰霊祭を行っている。

         父は「鳥海」乗艦者960名とレイテ沖海戦に交戦中、昭和19年10月25日敵艦の砲弾が命中し「鳥海」が航行不能となりました。
                      生存者が「藤波」に収容されるも10月27日敵航空機の大編隊と遭遇し、沈没。
                父の戦死は公報が10月27日とされておりますことに「鳥海」船上ではなく「藤波」船上と考えられます。
                令和6年10月27日は父の80回忌を迎えますことに子供たちと千葉県護国神社に昇殿参拝を致しました。

       
                                 千葉県護国神社から頂きました御神酒・御朱印他

 

                           慰霊友好親善事業20周年記念 「洋上慰霊」 に参加して
          
                    
日  程 2011年(平成23年)3月5日 ~ 16日 (11泊12日)
                    
参加者 44都道府県から 363名 (内千葉県参加者14名)

     上記、初めての「洋上慰霊」に参加しましてから13年の月日が過ぎましたが、その折の「鳥海」戦死者960名中の参加者は田中艦長様のご子息様と私の2名でした。
          ご子息様が千葉県の私をお訪ね頂き「艦長の息子田中です。」とご挨拶を頂きましたあの瞬間は生涯忘れることができませんほどに感激いたしました。
「追悼のことば」を奉読にあたりお言葉の中に「お父さん、ただ今、田中艦長様のご子息様とご一緒しております。娘が喜んでおりますと田中艦長様にお伝えして下さいね。」と添えさせて頂きました。
 
           
          追悼式を前に「鳥海」田中艦長様のご子息様と父の好物を供えて    千葉県代表「追悼のことば」 を奉読中に大震災発生3・11を夕刻に知る

                           「鳥海」の艦長の子息に出会ひたり船上に交はす熱きあつき握手 

                            海底に今なほ眠るみ霊らにわが生の限り祈り捧げむ

   「田中艦長様のご子息様との今はですが」
    佐世保市にお住まいですが今年のお誕生日で97歳になられました。数年前に奥様をなくされ、お子様たちに支えられながらお一人でお住まいでしたが、安全のために昨年より施設に入所と伺っております。
    時々お電話をさせて頂いておりますが、お元気のご様子を嬉しく思っております。この度の読売新聞の記事をお届けいたしましたところ「お父さんの供養になりましたね。」と喜んで頂ました。
    令和7年6月に最後の「洋上慰霊」が実施されますが、田中様は「もう参加はできませんのであなたが代表して「鳥海」の戦没者にお参りをしてきてください。」とお言葉を頂いております。
    参加申し込みの結果は此れから発表されますが日々健康に留意をして是非参加をしたく考えております。そして田中様に良い報告ができますように尽力したく考えております。

    

 

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2024年度(令和6年)千葉市戦没者追悼式が行われました

2024年10月19日 07時00分00秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                      戦争や戦災による死没者に弔意を表し、平和祈念のための追悼式を行います。(千葉市のHPより)

    
                      「千葉市戦没者追悼式」式 典 斎 場
                   

                   
                                「式 辞」千葉市長 神 谷 俊 一 様                   

                   
                              「追悼のことば」千葉市遺族会会長 宍 倉 操 様

               
                         「思い出のことば」 遺族代表 新
井 一 江 様

               
                       千葉市内の中学校の生徒会の皆様が献花を行ってくださいました

               
                             献花をされる常任委員の川上智子様

               

                          Jcomの取材を受けました常任委員の川上智子様
                
               
                          遺族の高齢化に年々参列者が減っております

                      
                        「お礼のことば」千葉市遺族会 副会長が述べました

                
                          献花を行いました千葉市遺族会遺族代表の皆様

                
                   本日の式典の様子は 10月26日(土)~1週間  Jcom  にて報道されます

千葉市戦没者追悼式の記事に多くの皆様にご覧頂きましたことに御礼を申し上げます。
遺族も高齢になりました。一番お若い方でも昭和20年生まれですので今年は80歳を迎えます。
今後の継承の有り方を日本遺族会を中心に「語り部」の拡大を目指しておりますが、過酷な戦争の事実を忘れることなく恒久平和を願っております。

   10月19日(土)  1261PV |597UU |3192915ブログ中 1126
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NHK 戦禍の中絶 埋もれてきた当事者たちの“声”

2024年08月30日 12時50分28秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                   終わらない戦争(2) “生きていることが疎ましい” 知られざる戦渦の中絶

                  初回放送日:2024年8月28日

                   

                    

                旧満州などで性暴力に遭い引き揚げた女性たちは、国立病院などで中絶手術を受けた。
                           今回、関係者70人以上を取材。
    人道目的で自発的に始まった手術を国が組織化し、「外国人の血は本土に入れまい」と「混血児の出生を防ぐ水際対策」になっていた。
                       「身も心もきれいになった」とされた当事者たち。
              実際には「生きていることが疎ましかった」と職も故郷も捨て、壮絶な戦後を送った女性が。
                        戦争と性暴力、顧みられなかった実相に迫る




                   終戦の翌年、外地にいた民間人の引き揚げ事業が本格化。性暴力を受け、妊娠した女性たちへの中絶手術が始まっていきました。

                        未公開の音声記録 

                   取材のきっかけは、医師がのこした未公開の音声記録の存在を知ったことでした。

               

                  昇医師は語る「惨めな服装で。みんな、ソ連軍を恐れて丸坊主になったんだ。
                    うなだれて、ただ促されてトラックに乗って病院に来た。
                もう次から次へ運ばれてくるもんですからね、何も言えない悲惨な状況」

                      2019年に亡くなった産婦人科医・昇勇夫さん(享年102)

              終戦後、九州帝国大学医学部の指示で、国立佐賀療養所(現・東佐賀療養所)に派遣されました。
   療養所に運ばれてきた女性たちは、旧占領地でソ連兵や中国人などからの性被害を恐れ、自ら髪を切り、顔にすすを塗った姿だったといいます。
                   昇医師は妊娠した女性に対し、当時は原則違法だった中絶手術を行います。
  昇医師「ああいう現実にあった人を助ける。だから、そういう意味ではやっぱり法律も度外視して助けなくちゃいけないっちゅう気持ちがみんなあった」

               

 

              当時、満州などには国策として開拓団が送り込まれ、300万人以上の民間人が暮らしていました。
                  しかし、終戦直前に旧ソ連軍が侵攻。女性たちへの性暴力が相次いだのです。

                     昼夜といわず 物に飢えたようなソ連兵と朝鮮人の略奪が始まった
                         ある夜 逃げ遅れた女性が三人組におそわれた
                       悲鳴を聞きながら敗戦の惨めさをいやというほど味わった
                         旧満州 引き揚げ者 大塚文代さんの手記より
 
                             第三病舎は産婦人科
                          引き揚げ女性が数名入院していた
                          麻酔なしの手術で悲鳴があがった
                             胎児は古布に包まれ
                          手術室の片隅に放置されていた
                       遺体を入れた木箱をリヤカーに乗せて運んだ
                           余りにもあわれな姿に落涙
                            元事務員からの手紙

 

 産婦人科医 相馬廣明医師
 「なんとか、こういう人たちを助けなきゃだめだって。人道愛だよ。思いやり。何とかしなくちゃって思うじゃない」
  翌年、広島の国立病院の産婦人科医になった相馬さん。みずからも、妊娠後期の女性への手術を行いました。
 相馬廣明医師
 「もう満期ですよ。赤ちゃん育つのに、(女性に)頼まれて。今でも忘れないよ。赤ちゃん生まれてくる。もう育っているんだよ。それを中絶するって、どうするか。でも、やったの」と語りました。




 


 
上記はNHKクローズアップ現代からご紹介させて頂きましたが、見ること、聞くことに心が悲しく、きちんと報告できませんが、過去にも報道されました女性の犠牲者に言葉がありません。
親御さんが「汚らわしい!そばに寄るないでって」と言われたと証言されましたお方はどのように生きてこられたのでしょうか?あまりにも悲しい!証言に載せることができませんでした。
戦争の悲劇は永遠です。世界の争いごとに胸が痛みます。一日も早い世界の平和を願ってやみません。大切な事柄ですのに未熟な紹介に失礼いたしました。
 
戦争の悲劇に心が痛み報告をためらいましたが今後このようなことが2度と起こらないことを願い綴りました。
毎日多くの皆様にお訪ね頂きましたことに御礼を申し上げまして保存させて頂きました。
 
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2024年度 (令和6年)千葉県忠霊塔拝礼式

2024年08月17日 16時31分33秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

 毎年8月15日の「戦没者を追悼し平和を祈念する日」の政府主催による全国戦没者追悼式に合わせ、戦没者を追悼し、平和を祈念するため「千葉県忠霊塔拝礼式を実施」しています。

          昭和29年4月15日に千葉県主催による千葉県忠霊塔の除幕式及び追悼式が実施してから、毎年行っています。(千葉県のHPより転載)



以下は千葉テレビ放映より

       千葉県忠霊塔追悼式の様子を伝える千葉テレビアナウンサー           70年間、千葉県出身者の戦没者の霊を守り続けてくださいました千葉県忠霊塔


    千葉県忠霊塔は建立より70年の年月を経ておりますことから令和7年より解体に入ります。危険を避けて今年度は忠霊塔から離れて広場に式典会場を設置いたしました。


               熊谷 俊人千葉県知事献花                               神谷 俊一千葉市長献花


              川島 義美千葉県遺族会会長献花                           千葉市遺族会代表者献花


                                   熊谷 俊人千葉県知事のお言葉


                                  川島 義美千葉県遺族会会長のお言葉

猛暑の中に参列されました熊谷 俊人千葉県知事を初め、神谷 俊一千葉市長、川島 義美千葉県遺族会会長、各遺族会代表の皆様ありがとうございました。そしてお疲れ様でございました。

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2024年(令和6年)戦後79年全国戦没者追悼式に参列致しました (NHK放映より)

2024年08月17日 02時35分34秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                                      終戦から79年 武道館で全国戦没者追悼式

              終戦から79年を迎えた8月15日(木)およそ310万人の戦没者を慰霊する 政府主催の全国戦没者追悼式が都内で行われました。


                東京 千代田区の日本武道館で開かれた追悼式には全国から遺族の代表などおよそ4000人が参列しました。
           ことしは新型コロナウイルスの感染拡大以降、最も多くの遺族が参列し、5年ぶりにすべての都道府県から遺族が参加しました。


              千葉県から頂きました招待状・全国戦没者追悼式式次第・千葉県の名札を胸に千葉県庁からバス2台に乗車して武道館に向かい参列致しました


                         迫 昭嘉氏の指揮によりコロナ以来、久々に一同国歌を斉唱しました

奏楽は、東京芸術大学管弦楽研究部に委嘱しました。(ネットより)
指揮者 さこ あきよし 迫 昭嘉(東京芸術大学音楽学部教授)
曲 目 式典の前は、グリーグ作曲「悲しき旋律」より「過ぎにし春」が演奏される。
    献花の際は、ベートーベン作曲交響曲第三番「英雄」第二楽章が演奏された後、バッハ作曲「G線上のアリア」が繰り返し演奏される。


           ご臨席されました天皇陛下・雅子皇后陛下                       式辞を述べられました岸田総理大臣

                                                      岸田総理大臣の式辞の一部より
                                「今日のわが国の平和と繁栄は戦没者の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものであることを私たちは片ときたりとも忘れない。
                                                改めて衷心より敬意と感謝の念をささげる」と述べました。


       正午の合図に天皇・皇后両陛下が黙祷を捧げられました         参列者全員起立して天皇・皇后両陛下と共におよそ310万人の戦没者に黙祷を捧げました

      
       

「遺族代表追悼の言葉」


                         遺族代表はお父様が中国で戦病死されました安齋 満様(86歳)




「語り部として子・孫へと継承していくことが大切で遺族の使命でもある」と結ばれました   最後は各県遺族代表他の参列者によります献花がおこなわれました

「最年長97歳の遺族「平和の実現に力を」


            最年長の参列者として追悼式に出席した北海道に住む97歳の長屋昭次さんは、戦争で8歳年上の兄の保さんを亡くしました。
                        保さんは昭和20年に肺結核のため出征先の中国・天津で戦病死しました。

             以上はNHKの放映より画像を頂き、およそ310万人の戦没者に哀悼の誠を捧げますために保存させて頂きました。
           ことしは新型コロナウイルスの感染拡大以降、最も多くの遺族が参列し、5年ぶりにすべての都道府県から遺族が参加しました。
             千葉市遺族会として久しぶりに15名の遺族関係者が参列致し、私もその一人に加えていただき参列させて頂きました。

戦争を知らない国民が増えておりますことを耳にするたびにあの恐ろしかった戦争の事実は単なる悪夢に終わって欲しくないのです。
私を含め辛く、哀しい思いをされた遺児たちも高齢化には勝てずに残念ながら次々に鬼籍に入っております。
「語り部」を担う遺された遺児の一人として命のあるかぎり、慰霊祭、追悼式の様子をお伝えさせて頂きたくどうぞよろしくお願い申し上げます。
この度も多くの皆様にお訪ね頂きましたことに感謝を申し上げまして保存させて頂きました。

  8月17日(土) 1969PV |854UU |3188697ブログ中   794

    8月16日(金) 1106PV |614UU |3188645ブログ中 2028

       

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令和6年度(2024年)長崎平和祈念式典

2024年08月09日 17時46分42秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

「長崎市のHPより転載」             長崎 原爆投下から79年 平和祈念式典 “最後の被爆地に”

 長崎市では毎年原爆投下の8月9日に松山町平和公園の平和祈念像前において、原爆犠牲者の霊を慰め、あわせて世界の恒久平和を祈って長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を挙行しています。
 式典は、原爆犠牲者のご遺族をはじめ、市民多数の参加のもとに行われ、この席上での長崎市長の平和宣言は、国連加盟の各国元首をはじめ、全国の地方公共団体などへ送るとともに、
 インターネットを通じ全世界に発信し、核兵器廃絶と世界恒久平和の確立を訴え続けています。


    令和6年度の長崎市の平和公園で行われた平和祈念式典には、被爆者や遺族、岸田総理大臣のほか、あわせて100の国と地域の代表などおよそ2300人が参列しました。
          一方、長崎市は令和6年度の式典でイスラエルの駐日大使を招待しておらず、各国の駐日大使らが参加を見合わせる事態となっています。




   令和6年度の長崎平和祈念式式典の司会は今年も高校生が務められました                    爆心地の慰霊塔



「原爆死没者名簿について
    広島に投下された原子爆弾により死没した方やその後に死没した方(被爆者健康手帳の有無、国籍は問いません。)の霊を慰め、人類の恒久平和を祈念するため、
    死没した方の氏名・死没年月日・死没時年齢を、昭和27年(1952年)から原爆死没者名簿に登載し、広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)に奉納しています。

「名簿登載者数 34万4,306名〔令和6年(2024年)8月6日現在〕

    ・名簿冊数128冊(「氏名不詳者 多数」と記した名簿1冊を含む。)
    
・令和6年8月6日 追加奉納数:5,079名
    ・上記のほか、「長崎原爆死没者名簿(広島奉納希望者)」1冊(登載者数13名)を奉納


 「午前11時2分黙祷」  
     式典ではこの1年間に亡くなった被爆者などあわせて3200人の名前が書き加えられた19万8785人の原爆死没者名簿が「奉安箱」に納められました。合掌
     そして原爆がさく裂した時刻の午前11時2分に「黙とう」をささげ、犠牲者を追悼しました。


                   献  水                                    献  花

鈴木広島市長の「平和宣言」
「長崎平和宣言」が引用の詩 作者は52歳で死去の「闘う被爆詩人」今年、没後50年を迎えた被爆者で詩人の福田須磨子(1922~74年)の詩「原爆を作る人々に」が引用された。
 原爆で肉親を奪われ、病苦と貧困にあえぎながら創作を続けた被爆詩人。その訴えは、核兵器使用をちらつかせて緊張を高める世界の首脳に強く警鐘を鳴らす。
 福田須磨子は長崎市浜口町の青果問屋に生まれ、県立長崎高等女学校を卒業後、尋常小学校の代用教員を経て、長崎師範学校の会計課に勤務していた。
 45年8月9日、23歳の時に爆心地から約1・8キロにあった同校で被爆。自身は助かったが、爆心地から約600メートルの自宅で被爆した両親と姉は、焼け跡から骨となって見つかった。


           長崎市 鈴木 市長 「平和宣言」                       原爆を作る人々よ!しばし手を休め眼をとじ給え


         昭和20年8月9日 あなた方が作った 原爆で・・・              平和な家庭が破壊しつくされたのだ、残されたものは・・・








 被爆者代表「平和への誓い」

       被爆者代表「平和への誓い」三瀬 清一朗さん(89歳)             子供や孫たちが安心して過ごせる青い地球を遺していくために


         被爆国日本こそが核廃絶を世界中の最重要課題として                ”平和は人類共有の世界遺産である!と申し上げて


         亡き御霊へ捧げる平和への誓いの言葉といたします。                最後にと、流ちょうな英語で平和を訴えられました。
「来賓のご挨拶」

国際連合事務総長 アントニオ・グテーレス氏のお言葉を中満泉国連事務次長・軍縮担当上級代表が代読されました。 長崎県知事 大石 賢吾様のご挨拶


                                      「あの子」を歌い継ぐ山里小学校 児童の皆さん


             整列されました山里小学校 児童の皆様                   壁に残った らくがきの おさない文字の あのこの名


       ついに帰らぬ おもかげと 知ってはいても 夕焼けの                 運動会の スピーカ― きこえる部屋に 出してみる
                                    
                                    「あの子」内容紹介

                           長崎市の山里小学校は、原爆で児童1300人が命を落とした。
      奇跡的に生き残った37人の手記は永井隆博士によって『原子雲の下に生きて』として出版され、彼らは「あの子」と呼ばれて平和への願いの象徴とされてきた。
                            彼らをNHKは継続的に取材、2015年にも18人に会えた。
                              被爆体験を周囲に話せずひっそりと生きる人。
                     家族の一言に深く傷ついた人…「戦争よりも戦後がつらかった」と語る被爆者の歳月を描く。

テレビから頂きました写真を並べただけですが「被爆79年めの長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に原爆の犠牲になられました原爆死没者の御霊に心からの哀悼の誠を捧げたく保存させて頂きました。
言い訳です!これだけの写真を整理しますのにもテレビに向かって100枚余ほどのシャッターを切り、なるべく文字を真っ直ぐに表現したい!を心がけながらの整理ですが素人ですのでうまく参りません。

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令和6年(2024年)平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)

2024年08月06日 16時00分03秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                   令和6年8月6日までに 原爆慰霊碑に納められました34万4360名の御霊に心から哀悼の誠を捧げます。合掌

        「広島市のHPより転載させて頂きました。」
         広島市は毎年8月6日に、原爆死没者への追悼とともに核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を願って平和記念式典を行い、広島市長が「平和宣言」を世界に向けて発表しています。
     広島・長崎の悲惨な体験を再び世界の人々が経験することのないよう、核兵器をこの地球上からなくし、いつまでも続く平和な世界を確立しようと、これからも平和宣言は訴え続けていきます。
                                  
                                    「原爆被害の概要」

                          
                                             原爆投下の映像

                     昭和20年(1945年)8月6日、月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。
        深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。
                    この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。
            一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。
 この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴りました。古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。
    「中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上がりました。

                             昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
                          人類史上初めて、広島に原子爆弾が投下されました。

         原子爆弾は、投下から43秒後、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。
      火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には半径200メートルを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。

   爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
  原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。
                          (以上は広島市のHPより転載させて頂きました。)
「以下はNHK放映より転載」

  
                   原子爆弾が投下されました8月6日午前8時15分に平和の鐘」とともに黙祷を捧げました
「平和宣言」広島市 松井 一實市長






















      令和6年8月6日までに 原爆慰霊碑に納められました34万4360名の御霊に心から哀悼の誠を捧げまして戦後79年目の報告とさせていただきます。
                    

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2024年度(令和6年)6月23日 沖縄戦没者追悼式にて(NHK放映よりより)

2024年06月24日 21時03分43秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

                    
                    
               県立宮古高校3年の仲間友佑さんが今年の「平和の詩」に選ばれた「これから」を朗読しました

                              「これから」(全文)

                             短い命を知ってか知らずか
                             蝉が懸命に鳴いている
                             冬を知らない叫びの中で
                             僕はまた天を仰いだ

                             あの日から七十九年の月日が
                             流れたという
                             今年十八になった僕の
                             祖父母も戦後生まれだ
                             それだけの時が
                             流れたというのに

                             あの日
                             短い命を知るはずもなく
                             少年少女たちは
                             誰かが始めた争いで
                             大きな未来とともに散って逝った
                             大切な人は突然
                             誰かが始めた争いで
                             夏の初めにいなくなった
                             泣く我が子を殺すしかなかった
                             一家で死ぬしかなかった
                             常緑の島は色を失くした
                             誰のための誰の戦争なのだろう
                             会いたい、帰りたい
                             話したい、笑いたい
                             そういくら繰り返そうと
                             誰かが始めた争いが
                             そのすべてを奪い去る

                             心に落ちた
                             暗い暗い闇はあの戦争の副作用だ
                             微かな光さえも届かぬような
                             絶望すらもないような
                             怒りも嘆きも
                                  失くしてしまいそうな
                             深い深い奥底で
                             懸命に生きてくれた人々が
                             今日を創った
                             今日を繋ぎ留めた
                             両親の命も
                             僕の命も
                             友の命も
                             大切な君の命も
                             すべて

                             心に落ちた
                             あの戦争の副作用は
                             人々の口を固く閉ざした
                             まるで
                             戦争が悪いことだと
                             言ってはいけないのだと
                             口止めするように
                             思い出したくもないほどの
                             あの惨劇がそうさせた

                             僕は再び天を仰いだ
                             抜けるような青空を
                             飛行機が横切る
                             僕にとってあれは
                             恐れおののくものではない
                             僕らは雨のように打ちつける
                             爆弾の怖さも
                             戦争の「せ」の字も知らない
                             けれど、常緑の平和を知っている
                             あの日も
                             海は青く
                             同じように太陽が照りつけていた
                             そういう普遍の中にただ
                             平和が欠けることの怖さを
                             僕たちは知っている

                             人は過ちを繰り返すから
                             時は無情にも流れていくから
                             今日まで人々は
                             恒久の平和を祈り続けた
                             小さな島で起きた
                             あまりに大きすぎる悲しみを
                             手を繋ぐように
                             受け継いできた

                             それでも世界はまだ繰り返してる
                             七十九年の祈りでさえも
                             まだ足りないというのなら
                             それでも変わらないというのなら
                             もっともっとこれからも
                             僕らが祈りを繋ぎ続けよう
                             限りない平和のために
                             僕ら自身のために
                             紡ぐ平和が
                             いつか世界のためになる
                             そう信じて

                             今年もこの六月二十三日を
                             平和のために生きている
                             その素晴らしさを噛みしめながら

         以上は今年の「平和の詩」に選ばれた「これから」の全文ですが、録画を忘れての外出に拝聴することができませんでした。
         幸いにもネットに全文が掲載されておりましたのでご紹介させて頂きました。そして私も改めて学ばせて頂いております。

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2024年度(令和6年)6月23日 沖縄戦没者追悼式(NHK放映より)

2024年06月24日 06時00分00秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

 沖縄県         戦没者追悼式 沖縄戦から79年 「慰霊の日」合掌

              沖縄は23日、20万人を超える人が亡くなった沖縄戦から79年の「慰霊の日」で、平和の祈りがささげられています。
                最後の激戦地となった沖縄本島南部の糸満市では、正午前から沖縄県主催の戦没者追悼式が開かれました。                
                                
                      
                     正午 黙とう
                      
  平和祈念公園では正午前から沖縄県主催の戦没者追悼式が開かれ、岸田総理大臣や沖縄県の玉城知事のほか一般の人も参列し正午には全員で1分間の黙とうを捧げました。
                      
                     
玉城知事 「平和宣言
                      
      玉城知事が「平和宣言」を読み上げ「いわゆる安保3文書により自衛隊の急激な配備拡張が進められており悲惨な沖縄戦の記憶と相まって
私たち      
      沖縄県民は強い不安を抱いている。今の沖縄の現状は無念の思いを残して犠牲になられたみ霊を慰めることになっているのか」と述べました。
      そして沖縄が本土に復帰する際に政府が出した声明に触れた上で「沖縄県民が願う平和の島の実現のため在沖米軍基地の整理・縮小、普天間飛行場
            の1日も早い危険性の除去、辺野古新基地建設の断念など、基地問題の早期解決を図るべきだ」と政府に対し訴えました。

                     平和の詩「これから」朗読 宮古高校3年 仲間友佑さん
                      
               式典では県立宮古高校3年の仲間友佑さんがことしの「平和の詩(し)」に選ばれた「これから」を朗読しました。

                     ・平和の礎
                      
          20万人を超える人が亡くなった沖縄戦から79年の「慰霊の日」を迎え、戦没者を追悼し、平和への願いを新たにする一日となりました。
          糸満市の「平和の礎(いしじ)」や「魂魄の塔」では、朝早くから遺族などが訪れ、静かに手を合わせて平和への祈りをささげました。

          以上はNHK報道から転載させて頂き保存させて頂きました。
          沖縄の戦跡慰霊巡拝に過去4度訪れてそれぞれの地に手を合わせてまいりましたが、見るも、聞くもとても堪えがたいことばかりでした。
          特に「ひめゆり平和祈念資料館記」の見学は女性として言葉に言い尽くせない悲しみに涙が止まりませんでしたことを思い出しております。
          沖縄戦に犠牲になられました多くのみ霊のご冥福を心からお祈り申し上げまして大切な日の記録とさせて頂きました

                               ここに2006年11月最初の沖縄戦跡慰霊巡拝のブログを振り返ってみました。

            千葉県南方諸地域戦没者追悼式・戦跡巡拝に参加して】の2日目【千葉県南方諸地域戦没者追悼式・戦跡巡拝に参加して                     

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