千葉は今日も冷たい に見舞われておりますが、お訪ねいただいております皆様のご当地は如何かとご案じ申し上げております。
台風発生の予報に各地のご無事をお祈り申し上げております。
長かった猛暑も記憶が薄れるほどに急にお寒くなりました。
皆様のご健勝をお祈り申し上げまして美しいお花のご紹介をさせていただきます。
「 この夏の酷暑と乾きに耐えぬいた草花は、美しい色彩です。
今春まで野生していた 大葉升麻 は残り2株のみです。来春まで大切に養生させます。
多年草の 南天萩 は透明感のある紫色の美しい花を咲かせました。
水引は前回掲載の 金水引 に続き、 銀水引、 紅色の水引 です。」
と頂きましたのでご一緒にご覧いただけましたら嬉しゅうございます。
大葉升麻 南天萩
平成22年10月 靖国神社社頭に掲示された遺書
高知県出身 海軍一等兵曹 楠瀬 益實 様(23歳)
昭和18年10月12日 ニュープリテン島方面にて戦死 合掌
今号もお若いお方の遺書をご紹介することとなりました。
魂は永遠に生きる
遂に死ぬべき時が来た。
帝国軍人として最大の名誉の時が来た。
今より小生は昇天するのだ。 (中 略)
魂は永遠に生きる。
靖国へ行って待っている。折りがあったら会ひに来られ度。 (後略)
ご一同様
靖国神社にはこのようにお国の為に散華した多くのお方の魂が眠っております。
国会議員の役職にある皆様は参拝をしないと明言しておりますが、そのお心に気持ちは許されるのでしょうか。
英霊のお気持ちに対して、国立墓地は許されないと考えます一人です。
大臣の皆様は強い信念を持って外交問題にものぞんでいただきたく切望致します。
今号に寄せられました鎮魂の歌をご紹介させていただきます。
お目を通して頂けましたら有難く思います。
亡き母が父の思い出語らむ時きらり光る何かを見たり さいたま市 女性
いつまでも三十五才のお父上想像できぬ百才の姿 広島市 女性
いつの世もいくさは悲しと医王寺に 「咲かで散る椿」 の物語きく 横手市 女性
海岸の椰子の葉渡る風ありてソロモン海にのぼる太陽 富士吉田市 男性
戦ひをじっくり孫や子に聞かす涙拭きつつ今日終戦の日 青森県 女性
父の顔知らぬ息子も孫を抱き父の位牌に幸せ告げる 松江市 女性
兵となり生きて帰らぬ吾が父を迎へに行きたし遠きシベリア 大阪市 女性
恐山つゆの晴れ間に散策す戦没者の碑にしばし黙せり 南相馬市 男性
終戦のわが思ひ出は夜ごと照らすサーチライトの灯の消えしこと 名古屋市 女性
ミャンマーと聞き読むたびにビルマこそ父が散華の地なりと思ふ 尾道市 男性
織姫の彦星恋ふる様にあり年に一度の靖国千灯祭は 常滑市 女性
父の戦死知らざりしわれの帯解きは母の手作りのセーラー服着き 千葉市 私
ご夫婦合作の作品
趣味の講座で御世話になっております先輩ご夫妻様から、この度も素敵なお手紙を頂きましたので記念に収めたく存じます。
奥様が素敵に描かれた上に、ご主人様が素晴らしい毛筆で 日野草城 の句を添えて頂きました。
日野草城 【ひの そうじょう】 についてHPより学びました。
明治34年7月18日 ~ 昭和31年1月29日。
草城は近代俳句のさきがけとして、また、新興俳句の旗手として、さらには病床から生み出された境涯俳句によって、広く知られた俳人です。
戦後、池田に移り住み 「俳句は東洋の真珠である」 という言葉を添えた『青玄』をこの地で創刊しています。
草城は大正10年、弱冠19歳で『ホトトギス』雑詠巻頭を占めました。
初期には、清新な感覚と甘美な抒情性をもった句を作り、後期には、療養生活の中から自己の生を静かに見つめる句を作りました。
虚構の結婚初夜を詠んだ 「ミヤコホテル」 の連作が、俳壇に一石を投じ、この一連の活動が、草城の『ホトトギス』同人除籍へとつながっていくことになりました。
【代表句集】
『草城句集 (花氷)』 昭和2年
『昨日の花』 昭和10年
『人生の午後』 昭和28年
『銀』 昭和31年
以上、日野草城 について学ぶことができました。誠に有り難うございました。
平成22年度 千葉県戦没者追悼式
日 時 10月19日 (火)
会 場 千葉県文化会館
「式 辞」 千葉県知事 森田 健作様
この度、千葉県主催 戦没者及び戦災死没者の冥福を祈ります 千葉県戦没者追悼式 が執り行われました。
いただきました資料より
●日清戦争以後の千葉県の戦没者 57,248名
(日中戦争以後ですと、約52,000名です。)
●一般戦災死没者 1,320名
平成22年度の千葉県戦没者追悼式の参列者数
●遺 族 約1,000名
●来 賓 約 100名
●市町村職員等 約 100名 合計 約1,200名
犠牲になられました尊い多くの御霊に心からご冥福をお祈り申し上げます。 合掌
千葉県内、各市町村遺族代表の皆様が参列され、千葉県警察音楽隊によります「ふるさと」の演奏が流れる中、厳かに執り行われました。
千葉県健康福祉部長の開式のことばに続き、千葉県知事 森田 健作様 による 礼拝、黙祷、「式辞」 を戴きました。
森田 健作知事は「戦争の悲惨さと、平和の尊さを次の世代にしっかり伝え、恒久平和の実現に努力していくことを誓います。」と力強くお言葉を述べられました。
「追悼のことば」 遺族代表 法木 宏様 「献 花」 各市町村遺族代表
「追悼のことば」
千葉県議会議長
千葉県市長会代表
千葉県町村会代表
遺 族 代 表 君津市 法木 宏様
法木 宏様は中国で戦病死されましたお兄様の悲しい思い出を語られました。 合掌
「追悼のことば」
本日ここに来賓多数ご臨席のもと、平成22年度千葉県戦没者追悼式が厳粛のうちに挙行されましたことは遺族として誠にうれしく、衷心より御礼申し上げます
とともに、主催いただきました森田県知事をはじめ関係者各位に心から感謝を申し上げます。
先の大戦終結から早65年、刻々と変化する世界情勢の中で国も社会もそして人心も大きく変わりつつあります。かっての連帯意識は薄れ弱くなって来た感がございます。
思い起こせば私が小学3年生、空襲警報が鳴り敵機が飛来する度に物陰にかくれ又、松の幹から松脂を採り学校に持って行く時代でした。
学校近くに住んで居た仲間は艦載機グラマンの機銃掃射により亡くなりました。
当時、私の兄は小糸村農協に勤務しておりました昭和19年の暮れ、寒さも身に堪えるようになった12月半ば3人の仲間と共に、村民の打ち振る日の丸の小旗に送られ出征
いたしました。
結婚を約束した女性を置いていった気持ちはどんなであったろうかと思います。明けて20年の4月、戦地から私宛の便りが届きました。
「俺は支那大陸で頑張っている此の手紙が着く頃は、宏も4年生だろう。小さい妹の子守もしっかりやってくれ。勉強もガンバレ」 と、私への便りはそれが最後となりました。
終戦の翌年1月、兄は中国上海の兵站病院で戦病死、元気で内地に帰ることはありませんでした。
どんな思いで逝ったか知る由もありませんが、さぞ無念であったろうと思います。
今も世界には戦火を交えている国々があり国益をそして民族を守るという名のもとに人命を軽視した戦いが報道されるとき、一個人ではどうにもならない無力感に襲われ、胸がしめつけられます。
今、私たちに出来ることは、世界が安泰なる方向へ互いに努力し合うことを只々願うのみです。
地味ではありますが日々の遺族会活動を通じ、英霊憲章を続けることが肝要であることを思い今後も更に力を注ぐことを誓い、英霊各位のご冥福をお祈り申し上げ追悼のことばと致します。
平成22年10月19日
遺族代表 君津市 法木 宏
お兄様の御霊に心からご冥福をお祈り申し上げまして、ここに 「追悼のことば」 をご紹介させていただきました。
「献花」 は千葉県知事 森田 健作様を初めとして、国会議員、県議会議員、来賓、各市町村遺族代表の皆様で献花を捧げ閉式となりました。
翌20日の讀賣 ・ 千葉日報の各紙面の何処にも 「千葉県戦没者追悼式」 の記事が掲載されず、戦後65年、戦争の事実を風化させてはならないと新たな悲しみを覚えました。
自宅前の公園の大木のための道路の落ち葉掃除が始まりました~12月31日までです。
道路までも枝が伸びている大木に本当は ゴミ収集日に合わせての道路掃除は大変です
2時間程の道路掃除が終わって 公園入口も綺麗にを心掛けています
のように自宅前の公園にはケヤキ ・ イチョウ ・ プラタナス他の大木が多く、今年も始まりました道路掃除。
2時間ほど汗を流し、綺麗になった道路に佇む気持ちは爽やかですが、腰を伸ばすのも大変な程、実は疲れます。
掃除終了後に公園の端から端(ゴミ集積所)まで歩いてみましたら80歩程ありました。
週に2~3回、1回2時間程に、健康の為とも思いますがあまりにも大木に枝打ちもして欲しいとも願っております。
お掃除を済ませた後の気持ちは格別ですが、外出の多い日々に夜、公園の街灯で掃除をすることもしばしばに時には負担も感じます。
公園の大木が落葉して枝ばかりになる12月31日までとにかく道路掃除を頑張ります。
千 葉 市 戦 没 者 追 悼 式
平成22年10月14日(木)
於 千葉市市民会館
会場案内板 千葉市受付担当の皆様 参列者に配布された資料
先の大戦にて尊い命を落とされました4200余柱のご冥福を祈る 千葉市戦没者追悼式 が千葉市消防音楽隊の皆様による演奏が流れる中、厳かに執り行われました。
式典には、熊谷市長様を初め、市議、県議、国会議員、母子推進委員、民生委員等のご来賓の皆様、遺族関係者約400名が参列いたしました。
式典は3時開式、式次第に添って進行されました。
式 次 第
1.開 式 の 言 葉 千葉市保健福祉局長
2.国 歌 斉 唱 ( 一 同 起 立 )
3.拝 礼 ( 一 同 起 立 )
4.黙 と う ( 一 同 起 立 )
5.式 辞 千 葉 市 長
6.追悼のことば 千 葉 市 議 会 議 長
千葉県遺族会会長
千葉市遺族会会長
千葉市戦災遺族会会長
7.思い出のことば 遺族代表 小関 道生 様
8.献 花 市長・来賓・遺族代表
9.献 詠 千葉市役所吟詠会
10.お礼のことば 遺族代表 湯浅 一 様
11.閉式のことば 千葉市保健福祉局次長
式典会場 熊谷市長様 式 辞
「追悼のことば」 千葉市遺族会会長 鈴木 登 様 「思い出のことば」 遺族代表 小関 道生 様
献 花 千葉市役所吟詠会の皆様
会の終わりは千葉市役所吟詠会の皆様の 「献詠」 を有り難く拝聴させていただきました。
弔 慰 式 (寺岡弥三郎)
庵然夢の如く 幽明を隔つ
定めなき人生 限りなきの情
骨肉親朋 皆席に列し
拈香三拝して 泣いて声を呑む
亡き人を 終いの別れと弔えど
心は消えず ありし面影
金州城外作 (谷口廻瀾)
父は明君に奉じ 子は親に奉ず
我来って憑弔し 涙痕新なり
金州城外 秋深き処
坐に憶う 斜陽馬を立つるの人を
遺族の皆様も高齢化が進み会場の空席が目立ち始め、一抹の寂しさを感じますが、幸いにもお天気に恵まれ、追悼式に参列させていただきました事に千葉市関係者の皆様に御礼を申し上げます。
例年、父方の実家の従姉が一緒に参列してくださいますが、今年は父方の従姉3名のお方が、千葉市在住とはいえ会場からは遠く、足が不自由で杖をつきながらタクシーでお出で頂きましたお方、
何時までも父を偲んで頂けます皆様のご厚意に有難く、亡き父もさぞ喜んで居りますことと、心から御礼と感謝を申し上げました追悼式でございました。
10月10日 (日) 小 時々
秋季大祭が行われました千葉県護国神社
各遺族会が受付を済ませて 昭和42年9月現在地に遷座記念碑
千葉県内から遺族約1000名が参列
夜来からの激しい 音が、朝まで続き、遠くから参列されるご遺族の皆様に思いを致しながら、地元千葉市遺族会の役員として、来賓接待に9時集合に参加しました。
遠くは千葉県南端の 南房総市 を初め、都心に近い 流山市 方面から で2時間も要しながらの参列でしたが、千葉県内から約1000名程の遺族関係者が到着の頃には幸にも大 の予報が
はずれて もいらないほどに 空に恵まれ、無事に10時開式を迎えることが出来ました。
今年は戦後65年を迎えました。
戦後生まれの国民が多くなっております現在ですが、私達は悲惨な戦争を再び繰り返す事がないように、後世に語り継ぐべき大切な式典に鎮魂の誠を捧げました。 合掌
千葉県悲願の天皇 ・ 皇后杯 獲得
選手の皆様感動を有難う!お疲れ様でした
天皇杯を掲げる羽鎌田直人選手(山岳) 紀子様から皇后杯を受ける高橋友果選手(走り幅跳び)
“再会誓い” 国体旗 山口県へ
第65回国民体育大会 「ゆめ半島千葉国体」 は5日、場所を開会式のマリンスタジアムから千葉市稲毛区の千葉県総合スポーツセンター陸上競技場に移して閉会式が行われました。
この競技場は 37年前の 「若潮国体」 のために造られたものでした。
37年振りに開催されたスポーツイベントは数え切れないドラマと感動を頂きました。
成績発表の後、秋篠宮ご夫妻から少年男子山岳で2種目制覇の羽鎌田直人選手 (幕張総合高)と、少年女子陸上走り幅跳びで優勝した高橋友果選手 (佐原高) に天皇杯と皇后杯が手渡され
ましたこの感激は、お二人にとって一生の思い出になりますことと の前で大きな を送らせていただきました。
千葉県勢は1973年の 「若潮国体」 では女子が総合2位に終わり、両杯を同時に獲得するのは今大会が初めてでした。
悲願達成に森田健作知事談
「37年前はなかった皇后杯を取ることができた。
多くの関係者が11日間に備え、何年も準備に汗をかいてきた。
今回の結果は、本県チームスピリットの総合力だ」 と声を震わせていました。
しかし、この期間中 の影響で野球などの試合が中止となる競技も相次いだため、競技によっては参加者が伸び悩みましたことも報じられておりました。
10月23日 (土) からは 全国障害者スポーツ大会 「ゆめ半島千葉大会」 が開幕します。
国体と変わらぬ 「おもてなしの心」 で全国の選手の皆様をお迎えしたい!
と県民の一人として願っております。