平成21年8月靖国神社社頭に掲示された遺書
「お母様の膝下に帰ってゆきます」 陸軍中尉 藤井富一様 (25歳)
昭和20年8月6日 沖縄方面にて戦死 合掌
毎月15日発行の 「日本遺族通信」 が届きました。
毎月靖国神社社頭に掲示される戦死されたお方の「遺書」が掲載されております。
今号もここにご紹介をさせて頂きました。
大好きなお母さんに宛てた最後のお手紙、お母様はどんなお気持ちで読まれたことでしょうか。
(前 略)
永い永い25年間心配ばかりおかけして、一時として安心させる様なことの出来なかったことが何よりも心残りであります。
しかし、富一も一人前の男になりました。
今こそ最後の御安心をさせる秋(とき)が寸前に迫り、喜び勇み居ります。 (中 略)
最初のお言葉を転載させて戴きましたが、終戦直前のお手紙と拝見させて戴き、ただただ残念の一言です。
戦争を憎みます。 本当に残念です。
今号にも全国の遺族から鎮魂の歌が寄せられておりますのでご一読頂ければ有難く存じます。
老いても尚五月の風に若返り力一ぱい鍬振り下ろす 京都府 女性
遙かなる追慕の旅路重ねつつ健脚有りて早暁の町 福岡市 男性
部隊名そらんじ一人息子待ちし母の三十三回忌桜咲く寺 さいたま市 女性
兵となり世を去る父のふるさとは夕日茜に染めぬる奄美 大阪市 女性
「おぢいさん」呼ばれずじまひの父の分ひいばあちゃんと母は呼ばるる 南相馬市 男性
国のため征きて若人散華せり神とし祀らる玉章記して 江南市 女性
吾が部屋に青春の日の忘られず軍服姿の君を飾りき 和歌山県 女性
到来のたけのこ御飯を仏前へ母の味には及ばぬながら 名古屋市 女性
父戦死六十余年経ちたれどいくさ憎む気常に変はらず うきは市 男性
後をたのむ残せし言葉身に染みて兄一日と未だ忘れず 京都市 男性
映される沖縄戦に斃(たお)れ逝く人夫(つま)に見ゆ戦争にくし 常滑市 女性
ミシン踏む母の面影顕たせゐき簡単服は亡父の白飛白 (しろかすり) 千葉市 私
昨夜は全員のお方のお歌をご紹介できませんでしたが、100名余のお方にご訪問戴きまして心から御礼申し上げます。
戦後生まれのお方が多くなりました今日ですが、戦争は過去のこととせず、再び戦禍に見舞われることが絶対に無きことを祈って止みません。
平戸眞彫刻展:教え子ら企画 千葉市中央区の画廊ジュライで開催
詳しくは http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090811-00000083-mailo-l12
会場案内板 ー 土とたわむれた日々 ー 海のひびき 2000年作
平戸 眞先生 作品展示会場
「平戸眞彫刻展ー土とたわむれた日々ー」 あとがきに代えてより
平戸眞先生が亡くなられてから3年が経ちました。
千葉大学教授退官記念の個展以降、先生の作品の多くはご自宅のアトリエの隅でひっそりと眠ったままほとんど私達の目に触れることはありませんでした。
しかし、できることならそれらを多くの方々に見ていただく機会を作れないものかという声が聞かれるようになり、この度有志数名を中心として先生の遺作展を企画させて
いただくこととなりました。
先生は千葉大学を退官されて以降、主にテコラッタによる小品を制作されておりました。
お身体の様子を見ながら酸素吸入器を着装したままのお仕事は、さぞかし不自由で大変なご苦労を伴うものであったことと思います。
しかし一方で、作品はどこか軽やかで喜びに満ちており、先生の楽しげな心の有り様が見えてくるようでもありました。
開かれた思いを語る自由な時間をこよなく楽しんでいらしたのではないかと思います。
今回の展覧会は、それらの作品を中心にご覧頂く事にしました。 (後 略)
以上、遺作展実行委員長さんのお言葉を転載させて頂きました。
遺作展のご案内を頂きました私達は、花園中学校に於いて先生の最初の教え子でした。
有志一同は先生の最後の作品を拝見させて頂きたく会場にお伺いさせて頂きました。
お元気な頃の展覧会展示作品と大きさ等は異なりますが、実行委員長さん「作品はどこか軽やかで喜びに満ちており、先生の楽しげな心の有り様が見えてくるようでもありました。」私達もそのように拝見させて頂きました。
作品集に綴られておりました先生のご功績 1962年 日展入選 以後18回入選他のご活躍、又パブリックコレクションの多くは千葉県内の記念すべき箇所箇所に大切に
保存されますことでしょう。
ご指導頂きました先生の思い出を語りながら楽しい作品鑑賞のひとときでございました。
先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。 合掌
先生の自画像とお嬢様 お嬢様を囲んで
展示会場を後にしましたときは、外の気温もに残暑厳しく、男性の皆さんは喉が渇いたあ~と大騒ぎ 早速予約会場に直行。
平戸先生を初め、最近亡くなられました友人男性お二方のご冥福をお祈り申し上げて献杯いたしました。
健康の大切さ、友情の絆を誓い合いながら美味しい をいただき、男性の皆さんは存分に喉を潤されたことと思います。
素敵なお食事会場でした
御神輿を担ぐ千葉市民 ポートクイーンとオープンカーに乗る熊谷千葉市長
“こどもたちに夢を ふるさとづくり” をキャッチフレーズに市民一人一人の手によって作り上げられてきた“千葉の親子三代夏祭り”は、千葉市民の一大イベントとして、また、真夏の風物詩として
市民の心に定着しています。
前夜祭では、屋台ブースを設置して縁日的な雰囲気の中で、ゆめ半島千葉国体イメージソング、ダンスコンテスト他が開催されました。
本祭りでは、銀座・栄町通りでパレード、神輿・山車の渡御、木遣り梯子乗り、よさこい鳴子踊り、私達も町内会の一員として踊りの輪に加わり1時間余のひとときを楽しい幸せの汗を流しました。
町内会の皆様 踊りに参加した市民の皆様
未歩ちゃんも参加しました 皆様お疲れ様でした。熊谷市長 の言葉
平和への祈り新たに 64回目の終戦記念日
天皇・皇后両陛下をはじめ、麻生太郎首相や全国各地の遺族約4800人や各界の代表が参列され全国戦没者追悼式 が挙行されました。
追悼対象者は 軍人・軍属約230万人 と、空襲や原爆で亡くなった 民間人約80万人と報道されました。 合掌
正午の時報を合図に1分間の黙とうを捧げました。
天皇陛下のお言葉 最高齢101歳の靖国の妻
「戦争の惨禍が繰り返されないよう、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」と天皇陛下のお言葉を頂きました。
天皇陛下のお言葉に続き、遺族代表が追悼の辞を述べ、参列者の代表が式壇に献花。
今年の遺族代表は、父親がニューギニアで戦死した佐賀県小城市の大坪徳広さん(66歳)。
参列した遺族の最年長者は、さいたま市の池端志津江さん。101歳6カ月で、これまでの101歳5カ月を上回る過去最高齢。
陸軍の歩兵隊員として臨時召集された夫が、台湾南方のバシー海峡で戦死されました。
最年少は、沖縄県うるま市の宮城海皇ちゃん(3)。曾祖父が沖縄本島で戦死されたお方。3歳は過去最年少で、祖父母、両親と参列されました。
厚生労働省によりますと、遺族の高齢化が進み、今回の参列者のうち、戦没者の親は昨年に続き3度目のゼロ。
妻の参列が1%台にまで落ち込む一方、子どもが今年も3分の2に。参列遺族の中で戦後生まれが過去最多を更新するなど、遺族の世代交代が一層進んだ報じられました。
今日もとても 日を迎えましたが、64年前もとても暑かったそうです。戦後の千葉市中心街は焼け野原化し、鉄筋の建物が僅かに残るのみでした。
小学校入学前でしたが、竹などを三脚に組み、筵 (むしろ) をかぶせただけの家が点在していた光景が蘇ります。
悲惨な戦争の事実は事実と受け止め、国民の皆様が不戦の誓いを銘記して、恒久平和を心から祈念する者です。
父の名を書きたし古稀を迎ふるに戦争遺児とふ呼び名は消えず
命在る限り父を恋う気持ちは消えません。 残念です。 本当に悔しいです。
会次第及び出席者名 母と子 1995年作 記念文集
平戸 眞氏 (75歳)(元千葉大学教授、教育学部美術科、彫刻家)
2005年12月5日午前0時20分、肺気腫のため千葉市内の病院で死去。
新聞の「お悔やみ」欄に先生のお名前を拝見して友人の皆さんとお葬儀に参列しましてから3年余が経ちました。
私達は花園中学校に於いて先生の最初の教え子になります。
後に千葉大学教授、教育学部美術科、彫刻家としてご活躍され、1994年千葉大学退官まで多くの皆様を育てられました。
この度、千葉大学の教え子有志の皆様が中心となられ 「遺作展」 が企画されました。
その遺作展にあわせて各世代の教え子、同僚、知人、友人の多くの皆様が一堂に会して先生の思い出を語り合う記念パーティが開催されました。
私達一番最初の教え子有志6名も出席させて頂き、100名程の出席者の中に平戸先生と大親友でした多賀先生のお姿がありました。
中学校時代に男子は体育をご指導いただき2年生の時に 「多賀学級」 でお世話になりました方も半世紀振りの懐かしい再会にお話も弾みました。
「思い出を写真で追う!」 に於きましては、スクリーンに映る最初は私達中学校時代の懐かしい思い出の写真でした。
教え子の一人の 大川義行様 教育テレビの理科のお兄さんとして、NHKの芸術祭参加のドラマ「四季ユートピアノ」等に出演されたお方が映像で先生をご紹介したいと
先生が70歳時の「アトリエ訪問」を収録、ナレーションも担当された作品は、千葉TVご紹介されたそうです。
その作品が披露され、先生の制作中のお姿、お声等とても懐かしく拝見させて頂きました。
私達中学校教え子有志一同は先生のご冥福を心よりお祈り申し上げました。 合掌
そして 「先生の思い出」 を綴られました記念文集(上記写真)にお言葉を寄せられました鵜月教頭先生のお名前がありました。
先生が語られました多くのお話に当時が懐かしく蘇って参りました。
先生は「95歳を迎えた私は“都苑”へ習字のボランティアに通うのを生き甲斐にしている。
それも“都苑”の玄関で迎えてくれる「はぐくみ」の母子像(上記写真)を見て母に思いを馳せ、在りし日の先生を思い感激を新たにしてボランティアに臨んでいるからでも
ある。」と結ばれておりました。
パーティが夜の事もあり鵜月先生にお逢いする事が出来ませんでしたが、毎年素晴らしい毛筆のお年賀状を頂き大切に保存致しております。
当日の様子を鵜月・多賀両先生にプリントしてお届けしたく存じます。
最後になりましたが、奥様も彫刻家として美術協会の要職につかれ、千葉市 ・ 千葉県展他に作品を拝見させて頂けますことはとても嬉しく思っております。
奥様の益々のご活躍とご健勝をお祈り申し上げさせて頂きます。
パーティ会場 奥様先生を囲んで談笑
平戸先生に初めてご指導を頂いた花中生徒 奥様先生と親友の多賀先生
奥様先生のご挨拶 奥様・多賀両先生を囲んで出席者吾ら
残暑お見舞申し上げます
暦の上では立秋を迎えましたが、残暑厳しい毎日でございます。
水害に遭われた皆様、犠牲になられましたご遺族の皆様に心よりお見舞申し上げます。
お訪ね頂いております皆様のご健勝をご祈念申し上げます。
この度も素敵なお花の を頂きましたので、涼しげなお花に添えさせて頂きご挨拶申し上げさせて頂きます。
「8月2回目のホームページ更新のご案内をいたします。
狐のカミソリ は春先の葉の形状からの草名で、開花後から春先まで土中で球根を太らせます。
今年は例年に比べ半月早く開花しました。
松風草 は群生して風にそよぐさまは立秋を迎え涼しさを感じさせてくれます。」
狐のカミソリ 藪茗荷 松風草 露 草
奥様先生お手製カード
先生ご夫妻の素敵なダンスショー
チャリティダンスパーティ 2009 開催
日 時 平成21年8月9日 (日) 午後 3:00 ~ 6:15
会 場 ホテル ザ ・ マンハッタン
主 催 サワタダンスプロジェクト
6名(私を含む)のアマチュア競技発表会
高校時代の友人はタンゴを発表しました 私はワルツを発表しました
先輩の皆様の優雅な舞
タンゴを発表された唯一の男性会員 ベテラン会員のジルバの発表
今年のダンスパーティに初めてアマチュア競技発表の時間を設けて頂き6組が出場致しました。
一番経験が浅い私でしたが、そのお仲間に加えて頂きワルツを披露させて頂きました。
この日の為に熱心にご指導頂きました先生ご夫妻そして当日、奥様先生に入念にお化粧をして頂き「貴女はどなた」と思われる程に変身。
初めての舞台に充分に力を発揮することが出来ませんでしたが友人・知人が見守る中、広いフロアで気持ちよく踊ることが出来ました。
健康の為にと始めたレッスンでしたが、発表会出場まで熱心にご指導を頂きました先生ご夫妻様に御礼を申し上げます。
多くの反省点は残りますが思い出に残るデモの機会に恵まれました幸せに先生ご夫妻様を初め、応援を頂きました先輩・友人の皆様に感謝を申し上げます。
又、この日のために多くの親しい友人と できましたこと、沢山の の を戴き、最良の一日を過ごさせて頂きました。
応援をして頂きました皆様に厚く御礼を申し上げます。
誠に有り難うございました。
64年前の恐ろしい原爆投下 「平和の鐘」 黙とう 合掌
原爆ドーム 御霊への祈りを込めて
平和記念式典は午前8時に始まり、各都道府県の遺族代表や麻生首相、民主党の鳩山代表のほか、過去最多となる59か国の代表が参列。
この1年間に亡くなったり、死亡が確認されたりした5639人を加えた原爆死没者名簿3冊が慰霊碑に納められた。
今回新たに作成された 「長崎原爆死没者名簿 (広島奉納希望者) 」 1冊 (4人分) も含め、名簿は計96冊、記載された死没者は26万3949人になった。
遺族代表やミゲル・デスコト国連総会議長らの献花の後、原爆が投下された午前8時15分、遺族代表の広島市安佐南区、高校教諭西村知子さん(35歳)と、同市安佐北区、市立高南
小6年来島圭介君(11歳)が「平和の鐘」を打ち鳴らし、参列者が1分間の黙とうをささげた。
秋葉市長は「私たちの世代が核兵器を廃絶しなければ、次の世代への最低限の責任さえ果たしたことにならない」と述べられました。
大統領を支持する世界の多数派を「オバマジョリティー」とし、「Together,we canabolish nuclear weapons.力を合わせれば核兵器は廃絶できます)
Yes,we can.」と英語で締めくくった。平和宣言で英語を使うのは初めて。
私達遺族はいつも語り合っております。
誰が 何故戦争を 何故早く止めなかったのか と。とても残念です。
事実を事実として受け止め、戦争の悲劇を風化させる事のないように恒久平和を心から念願しております。