海軍とともに発展した呉の街
平成24年のお誕生日に頂きました時の「アナベル」とご紹介ラベル 平成28年の「アナベル」黄緑色~白いお花に変化時
2年前に挿し木したアナベルの芽 2022.4.10撮影 残念!お花は1輪のみ 2022.6.12撮影 大切なアナベル1輪 2022.6.26撮影
5年前に今は亡き大切な短歌の先輩から頂きました半夏生ですが、夏至から数えて11日目の半夏生の頃に白い花を咲かせますと言われておりますのに令和3年はとうとう白いお花を1枚も見る事が
できませんでした。今年は?と心配になって毎日、半夏生の成長を祈りながら眺めておりました。
半夏生の芽 2022.4.10撮影 白い葉・花?が見え始めました 2022.6.12撮影 嬉しい!半夏生になりました 2022.6.26撮影
2年前に挿し木をしたアジサイ5本は見事に成長しましたが花は咲きませんでした 同情してくださった隣の奥様から「額アジサイ」を1鉢 頂きました
元事務所前に開花を待つ30本余のアガパンサス 6月12日撮影 道行く皆様が愛でてくださいます 2022.6.26撮影
平成4年6月に夫逝去から令和4年は6月は31周忌を迎えましたが、アガパンサス開花の頃になりますと司法書士開業の折にお客様から頂きました1鉢に想いが募ります。
この間、多くの皆様に株分けし喜んで頂きましたが事務所開設初めての でしたので、頂きましたお客様は今はどうされておいでなのかしら?などと想いを巡らせております。
近くに幼稚園がありますので「もう少しで咲きそうね~」・「わ~沢山咲いた~」などの通園の親子の会話を耳にして嬉しい昨今でございます。
以前に友人から頂きました6月のお花は?に過去のブログをめくってみましたら 2014年06月25日 に頂きましたお花に出会いましたので懐かしく再度ご紹介させて頂きます。
「当時のメールより」
今回は季節がら「破れ傘」をのせました。この花を見かけることは珍しいのではないでしょうか?
梅雨時に長い茎の先に1センチほどの白い小花を円錐状に多数つけます。
多年草で春の芽時の形状はよく知られているものです。
我が家の山ももは「瑞光」で3センチほどの実をつけます。ジャムやシロップ漬にします。
山 も も 夏 椿
七 段 花 草あじさい
黄つり舟草 破れ傘
「県内の小中高と特別支援学校の児童・生徒から寄せられた911点から選出された沖縄「平和の詩」朗読は小学校2年生の徳元穂菜さん」
6月23日沖縄県糸満市の平和祈念公園で催された「沖縄全戦没者追悼式」で、沖縄市立山内小学校2年生の徳元穂菜(ほのな)さん(7歳)が「平和の詩」を朗読した。
「こわいをしって、へいわがわかった」と題した詩。沖縄戦の実相を描いた絵を見て感じた怖い気持ちや悲しい気持ち、普段の生活で感じる平和のありがたさを、抑揚を付けて読み上げた。
徳元さんは毎年、「慰霊の日」に家族で糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園にある「平和の礎(いしじ)」を訪れる。
沖縄戦で亡くなった曽祖父将保(しょうほ)さんの名が刻まれた碑の前に折り鶴や手紙を置き、手を合わせる。
新型コロナウイルスの感染が拡大していた昨年は6月20日に平和祈念公園を訪れ、その後に宜野湾市の「佐喜眞美術館」へ行った。
徳元さんは展示されている「沖縄戦の図」(作・丸木位里・俊)の前で、恐怖に身をすくめた。
惨劇を描いた絵の中央で、正面を見つめる同じ年代の子どもに目を留め、「悲しそうにこっちを見ている。子どもだけでお母さんがいない」と母親の千鶴さんにしがみついた。
母に触れた時のぬくもりに「これがへいわなのかな」と感じた。
「世界中の人たちが仲良くなって協力すること。戦争がいけないことだと強く思ってほしい」と願う。
そして「せんそうがこわいから へいわをつかみたい ずっとポケットにいれてもっておく ぜったいおとさないように」と詩を綴った。(HPより)
徳元穂菜さんの詩の題材になりました「沖縄戦の図」が展示されております宜野湾(ぎのわん)市の「佐喜眞美術館」の紹介がTVで報道されましたので保存させて頂きました。
佐喜眞(さきま)美術館の「沖縄戦の図」 をみて詩を作りましたと紹介されました 詩の題は「こわいをしって、へいわがわかった」
【徳元穂菜(ほのな)さんが見学された 「佐喜眞(さきま)美術館」について初めて学ぶことができましたので保存させて頂きました。】
沖縄・宜野湾(ぎのわん)市の洞窟跡 広大な基地が広がる
普天間基地周辺は学校が密集しています 佐喜眞(さきま)美術館は普天間基地に入り込んだ場所に立っています
先祖からの土地をほんの一部返還させて海が見える場所に建設しましたと語る佐喜眞美術館長
「幽霊の行列」他「沖縄戦の図」を描かれた丸木ご夫妻様
過去のNHK短歌大会入賞歌 描かれし「幽霊の行列」に息止まる丸木夫妻の怨念ここに
炎に包まれる市民を描いた悲しい絵 母親が泣く我が子を殺める様子を描いた悲しい絵
過去にレイテ島慰霊巡拝にご一緒しましたお仲間との埼玉県の旅に「丸木美術館」を見学しました事を振り返ってみました。
埼玉県 見学 2011年06月06日
埼玉県護国神社から観光 で約1時間半、40km?のドライブを楽しみながらかなり遠くに所在しておりました
「丸木美術館」 https://marukigallery.jp/原爆の図 丸木美術館 | Maruki Gallery For The Hiroshima を訪ねました。
を降りてから約15分、爽やかな鶯の声を楽しみながら農道?を散策、案内板に到着しました。
「原爆の図」 について (HPより)
1950年に丸木位里・丸木俊の共作により、「第1部・幽霊」が発表された。
最後は1982年の「第15部・長崎」であり、この作品のみ長崎原爆資料館が所蔵。
残りの14作品が原爆の図丸木美術館に所蔵され、巡回展に出る以外は常設展示されている。
それは幽霊の行列。
一瞬にして着物は燃え落ち、手や顔や胸はふくれ、むらさき色の水ぶくれはやがて破れて、皮膚はぼろのようにたれさがった。
手をなかばあげてそれは幽霊の行列。
ー (原爆の図第1部 幽霊 より) ー と記述されておりました。
以前 では拝見したことがありましたが館内のあまりにも悲惨な作品に言葉を失いました。しかし、再び訪ねることの難しさに貴重な資料館を見学できましたことに感謝を致しました。
都幾川のせせらぎに耳をすまし、鶯の優しい鳴き声に癒されたこの環境は丸木ご夫妻の故郷に似ていることからこの地を選ばれましたことを伺いました。
丸木美術館の入り口に写る今は亡き富山県の竹腰様 合掌 丸木ご夫妻様が故郷の川に想いをしました都幾川
過去のNHK短歌大会入賞歌 都幾川の流れに故郷の川重ね埼玉県に丸木美術館建つ
「琉球新報より転載」
沖縄は6月23日(木)戦後77年の慰霊の日を迎えた。
午前11時50分、糸満市摩文仁の平和祈念公園では家族を思いながら犠牲になった人々をしのび、恒久平和を願う「沖縄全戦没者追悼式」(県、県議会主催) が始まった。
2020年の新型コロナウイルス流行以後、式典は縮小されてきたが、今年は戦争体験者の高齢化に配慮し、340人の参列者が招待された。
参列者らは、正午の時報とともに黙とうをささげ、熾烈な戦闘に巻き込まれた住民ら20万人余のみ霊を慰め、世界の恒久平和を誓った。
「平和の礎」(いしじ)=建設の趣旨(HP)より
沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられた全ての人々の
氏名を刻んだ記念碑「平和の礎」を、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して1995年6月23日に建設した。
令和4年6月 靖国神社社頭に掲示されました遺書 合掌 上記の件、残念です
この度ご紹介の齊藤 大五郎様は激戦地の硫黄島にて激しい戦いの中に戦死されました。
「身体だけは無事にて・・・」 ↑ のお手紙はいつお書きになられたのでしょうか?
奥様への安心のお届けのお手紙が最後になりました。残念!合掌
【テニアン島の日本統治時代】
1900年代に入ると第一次世界大戦が終結するほんの短い期間ですが日本はアメリカ合衆国、大英帝国、フランスと同盟を結び、太平洋統治機関としての称号を得ました。
第一次世界大戦終結と共に国際連盟の元でマリアナ諸島は日本の委任統治領となりました。
事実上マリアナ諸島が日本に併合された後、1935年に日本は国際連盟を脱退しました。
当時の産業は製糖と漁業でした。人口はサイパン島で約3000人だったのが、日本からの入植もすすみ約24000人にも増えました。
第二次世界大戦の暗雲が立ち込め始めた頃、日本軍人だけで約30000人いたと言われています。
日本漢字能力検定は6月、10月?、2月の年3回実施されています。
孫は小学校4年生の7級から始めましたが私は5年生程度の6級から一緒に挑戦しております。
中学校では校内受験を行っておりますが孫は私と一緒が良いと外部受験を行っております。
中学1年時はコロナ禍に受験の機会を逸しましたが昨年2年生は4級に合格、今年度は中学校終了程度の3級に挑戦しました。
私自身は、漢字の正しい楷書の きへん木、のぎへん禾は、ハネズに止める、てへん 扌はハネル、糸 へんはハネズ、余 はたてはハネル等、書道文字は次に続くから木・禾へん等殆んどはねますので戸惑いながらも何時間?も机にむかって真剣に鉛筆を走らせましたが結果は?
しかし、孫は是非合格して欲しい!と願わずにはおられません程に6月15日(水)~17日(金)まで2泊3日の修学旅行に石川県へ参加、18日(土)はお休みに机に向かったようですが
19日(日)試験当日の午前中はテニスの試合に出場、帰宅後は昼食もゆっくり食べられずに幕張新都心の会場へママの車を走らせましたハードスケジュールでした。
結果は7月中旬と伺いましたが、もし不合格なら2回、3回目がありますので孫共々何とか中学校終了程度を取得したいと願っております。
次に紹介の問題は部分的になりますが、帰宅後の確認にペン書きをしてしまった箇所は紹介できませずに失礼いたします。
尚、漢字の読みは30問、漢字書き取りは20問でした。
私のブログはテーマはなく父を偲んで戦争関係が多くなりますが単なる日々の日記です。
孫とのかかわりなどを残したく記しました。
会場でお見かけしましたお互いに腰を曲げ、手をつなぎながら歩いておりました老夫婦の受験に合格あれ!と祈りたく思いました。
言い訳を一言!試験官は30分経過と終了10分前をお知らせしますと、ありましたが腕時計を忘れて時間の配分が出来ずに困りました。
比企の丘様 の 2014-06-13 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと より転載させて頂きましたのでご紹介させて頂きます
69年前の沖縄・・・海軍司令官大田実の打った電文・・・沖縄県民 斯く戦えり
その世界でも最も美しいヤンバルの海(沖縄北部)が壊されようとしています。
今日は6月13日、今から69年前の6月13日、太平洋戦争の日本本土の唯一の地上戦といわれる沖縄戦争で日本海軍沖縄根拠地隊司令官大田実少将が、沖縄本島豊見城村の海軍壕の中で自決した日です。その10日後の6月23日朝、沖縄南部の摩文仁の丘の壕の中で日本帝国陸軍第32軍(沖縄方面)最高司令官牛島満中将が自決、沖縄戦は終結しました。
大田実少将は少将は自決の7日前の6月6日、豊見城の海軍壕から海軍省の海軍次官宛に電文を打ちました。
本職 県知事より依頼を受けたるに非ざれど現状を看過するに忍びず 之に代って緊急御通知申上ぐ
県民は青壮年の全部を防衛招集に捧げ残る老幼女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と家財の全部を焼却せられ
僅かに身を以て軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難若き婦人は率先 軍に身を捧げ 看護婦烹炊婦はもとより
砲弾運び 挺身切込み隊を申出るものありひたすら日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ一木一草焦土と化せん
糧食六月一杯を支えるのみなりと謂う
沖縄県民 斯く戦えり
県民に対し 後世
特別のご高配を賜らんことを
※この電文はいくつか存在するといわれています。モールス信号によって発信され、それを漢字とカタカナの軍隊調文語体でタイプに打たれたもの。
損傷して判読できない個所や誤字もあるため判読して書き起こしたもの。米軍が傍受して英訳したものも残っているそうです。
上記の電文は2013年8月7日のTBSドラマ「生きろ」より書き起こしました。
大田実海軍司令官が、何を思い、この電文を起草したか、いま私たちが解釈することはできません。海軍省への電文ですが海軍の軍事作戦的なことに触れていません。
訣別の文として常套の「天皇陛下万歳」「皇国の弥栄を祈る」という文言も「辞世の句」も入っていません。
ひたすらリアルに盟友沖縄県知事島田叡に代わって沖縄県民の実情を伝えています。世界の戦史に残る例のない電文といわれます。
特別のご高配を賜らんことを
どういう意味でしょうか。
沖縄県人の矜持、尊厳を大切に守ってほしいということでしょうか。
比企の丘様おかげさまで大切な事柄を学ぶことができました。この度も誠にありがとうございました。
ご自宅前の大田實中将の顕彰碑
「顕彰碑・ご家族のお写真はHPより頂きました」
昭和48年6月千葉県長柄町高山にある生家の長屋門入り口左側に有志により顕彰碑が建てられています。
太平洋戦争末期の沖縄戦で自決した海軍部隊司令官、大田實中将の命日にあたる6月13日、長柄町高山の生家に隣接する顕彰碑前では毎年慰霊と供養の集いが行われて
おりますことが報道されますが、今年は新聞紙上、ニュースにも探すことができませんでしたので顕彰碑のみご紹介させて頂きました。
千葉県民の一員として大田實中将の命日にあたる6月13日に合掌を捧げました。
第52回 旧海軍司令部壕 慰霊祭
日時: 令和4年6月13日(月) 16:00 中継開始
献 花 台 旧海軍司令部壕での慰霊祭に3年ぶりに遺族が参列されました
77年前の沖縄戦で旧日本海軍の司令部が置かれ多くの犠牲を出した豊見城市の旧海軍司令部壕で13日慰霊祭が執り行われました。
沖縄戦当時、激しい戦闘が行われた旧海軍司令部壕では将兵およそ4000人が命を落とし大田實司令官が自決した6月13日に合わせて毎年慰霊祭が執り行われています。
大田 實は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。千葉県長生郡長柄町出身。-
慰霊祭では宇栄原小学校の児童が折った千羽鶴が捧げられあと新型コロナの流行のため3年ぶりに出席した遺族らによる献花が行われました。
OCVB下地芳郎会長「国際情勢が不安定化する中、戦争のない平和な世界を築いていくことが、私たちの責務だと今日この日に改めて強く念じております。」
参列者は戦争を繰り返さないという誓いを新たに平和への思いを強くしていました。(以上の写真、お言葉はHPより転載させて頂きました。)
下記の は平成18年11月23日~25日 千葉県南方諸地域戦没者追悼式・戦跡巡拝に参加して の折に撮影した写真です。
海軍慰霊塔 大田中将自決の部屋(平成18年慰霊の折に撮影。現在は撮影不可)
司令官室の壁面には 「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」と大田中将の歌が鮮やかに残されていました。
昭和20年6月6日、決別電報と辞世の句を打電。
同日夜、沖縄県民の献身的な戦い振りを述べ、後世にわたる国の配慮を訴えた世界史上不朽の 電文 「沖縄県民斯く戦へり」 を打電。
6月13日幕僚6人とともに自決、54歳の仁愛と波乱に満ちた生涯を終える。
辞世 身はたとへ沖縄の辺に朽つるとも守り遂ぐべし大和島根は、平成18年には撮影出来ましたが、現在は近くまで行かれず、撮影も不可と聞いております。
平成18年追悼式参列の折りに、バスガイドさんが「千葉県の方に足を向けて眠れません。」とお話下さいましたことが思い出されます。
千葉県民の一人としても大切なお方を偲んで参りたく考えております。
「5月3日にナス(4本)、きゅうり(3本)、トマト(3本)、ピーマン(2本)、しそ、パセリ、オクラ、ナスタチューム等をプランターに植えました」
5月3日に植えたナスの成長? 6月12日撮影 6月12日に5個めを収穫、後ろに見えるナスはいつ?
4月28日に植えたゴーヤ6本 5月3日撮影 みょうが・ゴーヤの成長 6月12日早朝撮影
6月12日ゴーヤのお花を一輪見つけました
6月12日早朝きゅうりの子ども6本確認しました
トマトも一応元気です 赤くなるのはいつかしら 6月12日早朝撮影
結構、実をつけてくれております お花も沢山咲いてくれております 6月12日早朝撮影
わずかなプランター野菜ですが、本日12日(日)は雨降りの予報に、昨日から追肥、土寄せ、支柱の補強等を行い、12日早朝、雨が降る前に成長の様子を収めました。
そして先ほど2時ころに大雨、落雷に見舞われオロオロしましたが、現在3時半にはお日様が輝いております。
野菜たちも倒れることも無く一安心しております。
プランターは道路から見えますので、道行く友人たちから「元気に育っているわね~」と励みを頂きながらわずかな収穫を楽しみにしております日々です。
カフェ 風のいろ
信州あづみ野池田町 北アルプス展望カフェ ☆併設ドームで天体観望も
・・Since 2011・
・ブログ毎日更新中(最新情報も)
・・今日の風は何色でしょう・・・
季節の移り変わりを味わいながら、ゆったりと薫り高い珈琲、軽いお食事、冷たいデザート、自家製焼き菓子をお楽しみください。
店内で少量ずつ焙煎した珈琲豆を使い、心をこめておだしします。
店の大きな窓(季節によってはウッドデッキのテーブル)から北アルプスの展望と安曇野の田園里山風景を眺め、のんびりくつろぐ時間を。
あなたも今日の風の色を見つけに来てください。
以上は短歌の友人の娘様ご夫妻が経営されておられます素敵な「カフェ 風のいろ」です。
ご夫妻様は天文学を専門に学ばれたお二方です。
「季節の移り変わりを味わいながら、ゆったりと薫り高い珈琲、軽いお食事、冷たいデザート、自家製焼き菓子をお楽しみください。」
以上のご案内にお近くの皆様にお訪ね頂きたくご紹介させて頂きました。
比企の丘様に 初夏の信州塩田平・・・戦没画学生慰霊美術館「無言館」と102歳の画家野見山暁冶 のご紹介のご了解を頂きましたので
転載させて頂きました。いつも貴重なご紹介を頂いておりますので楽しみに拝見させて頂いております。
5月14日、藤の花の花見に近辺の散歩。
上田市前山・・・独鈷山中腹の林道・・・標高660mにある塩田平パノラマ展望台から。
戦没画学生慰霊美術館「無言館」
1977年NHK出版から「祈りの画集 戦没画学生の記録」という画集を出版。
取材にあたっていたのは洋画家の野見山暁冶ほか。信州上田で美術館「信濃デッサン館」を開いていた窪島誠一郎がそれを読んで感銘、1995年の「槐多忌」に野見山を講師に呼び、会食の際に
「祈りの画集」の話題が出て、窪島は戦没画学生の慰霊美術館の設立を決意。
野見山を口説いて、その年から戦没画学生の遺族を訪ねる旅が二人三脚ではじまります。野見山75歳です。
以下は・・・2022年1月30日テレビ東京放映・・・日系スペシャル「野見山暁冶 私の履歴書」から・・・
戦没画学生の遺族を訪ね遺作をお預かりする旅は大変だったようです・・・詐欺のように見られたり。
それを着せてくれたお母さんの手が、ずーっと背中を触ったきり離れないんですね。
「あぁぁぁ」と思いました。
その一瞬で・・・「もうこれは僕がやるより手がないな」と。
苦労の末、1997年開館の運びに。資金は全国からの個人浄財により。土地は上田市が提供。
親子、兄弟、友人、恋人・・・
「あぁ 絵というものはこんなものだ そのなかに感情を没入してる」
「絵」は画こうとする相手を 愛していなければ画けません・・・窪島誠一郎「私たちの無言館」より。
★野見山暁冶・・・1920年福岡県飯塚市に生まれる。洋画家、東京芸大教授、名誉教授。
中学生のときから肺疾患、東京美術学校卒業、応召。満州に。肺疾患で入院、内地に送還され敗戦を迎えます。
一緒にいた戦友はどうなったか。
仲間を見殺しにして敵前逃亡したのではないかと・・・その思いがきっかけとなり、当時の絵を志した画友たちの絵を捜し歩きます。
比企の丘様、「無言館」について度々詳しくご紹介を頂いておりますことに感謝を申し上げております。
一度お訪ねしたく思いながら比企の丘様のご紹介を拝見させて頂くのみにもう訪問は無理?とも思っております。
この度は有り難うございました。
御社殿全景 御創立145年記念事業 新境内地 新社殿造営竣功 宮司 竹 中 啓 悟氏のご挨拶ご紹介
主な祭典行事等 ご 由 緒
御本殿 御創立145年記念事業 新境内地 新社殿造営竣功
新千葉県護国神社までのご案内 記念品を頂きました
当初、護国神社が移転?と言うことにビックリしましたが、建物全体も老朽化、階段も多く遺族たちの高齢化に伴い参拝者が激変しました事に諸経費の問題もありました事も伺っております事に
この度の運びとなりました。
新境内地は千葉市営霊園に隣接し、新しい社殿は階段も無く参拝しやすくなりました。
戦死されました千葉県の多くのみ霊に永久に安らかにお眠り下さいますようにご祈念申し上げましてご挨拶状、新社殿などのご案内を保存させて頂きました。合掌
「千葉県護国神社が移転に至るまでを過去のブログから紹介」
平成28年4月10日の「春季大祭」の表示から幾段もの階段を上って会場に臨む千葉県内の遺族の皆様
平成28年4月10日の春季大祭まではテント・椅子が準備された式典に臨む千葉県内の遺族
しかし、平成28年秋季大祭より御参拝要綱に基づいて下記の通り「参列方式」から「参拝方式」に変更して開催される運びとなりました。
1.施 行 日 平成28年10月10日 秋季大祭から実施
1.当日の参拝時間 午前10時から午後3時まで、時間内に参拝
1.参 列 者 来賓招待者、各地域遺族会会長他関係者
1.ご 案 内 方 法 テント及び椅子の敷設無く、「祭典参列方式」→「祭典参拝方式」に変更
平成28年「秋季大祭」からテント及び椅子の準備も省略され閑散とした千葉県護国神社境内
2022年(令和4年) ちば市制だより 6月号より転載
大賀ハスは26年3月に3個発見にも開花は1個のみ。大賀ハスはわが故郷千葉市の大切なお花です。
発見者は当時、千葉市立第七中学校の女生徒と名前は長く公表されませんでしたが、後に第七中学校から千葉市立花園中学校と改名されました我が母校の先輩が発見しました
その1個は昭和27年7月18日にわが故郷の伊原醤油屋さんの鉄釜の中に咲きました。
後に千葉市立花園中学校3年生の女生徒は西野 真理子さん(現在は87歳?と思います)が見つけた種と公表され、これ以上の喜びはありませんでした。
わが母校千葉市立花園中学校の校庭の一角には西野 真理子さんを称える記念碑が建立されております。
大賀博士と千葉市花見川区畑町 伊原 茂氏(今は亡き醤油屋のおじさんが懐かしい!)宅に咲いた1輪の花を見るお二方
上記の写真は孫が小学校4年生の時の社会科の教科書から頂きました。
「最初の大賀ハス1輪を咲かせた伊原 茂様の思い出」HPより
伊原家(千葉市花見川区畑町 伊原醤油屋)の広い庭の中央、醤油の豆をむすのに使った古い鉄釜を据え、博士からの指示どおり、発掘された場所の田の泥を町民が
リヤカーで運び、伊原氏宅の鉄釜に入れ、泥に植えて育てられた。
このかいあって昭和27年7月18日見事な淡紅の花を開いた。
ほかでは開花しないで、ここだけ開花したのは、ひとえに伊原さんの一年間の丹精のたまものである。(HPのお言葉より転載)
過去ログですが 大賀ハスについて孫と学ぶ も一緒にご覧いただけましたら幸いに存じます。