日中平和友好条約締結30周年記念・江戸東京博物館開館15周年記念特別展、書のふるさと中国の北京故宮博物院からの名宝65点が展示されますと紹介がありました。
中でも王羲之「蘭亭序」日本初公開! として複製中、現存している 「蘭亭序」の中でも最も保存状態が良い「八柱第三本」が展示されております素晴らしい展覧会に、
書道の先生のご指導のもと見学する機会に恵まれました。
掲載の はパンフレット及び絵葉書によります。
北京故宮博物院
王羲之 「蘭亭序」 (八柱第三本) 原本:東晋時代
先生にご指導を戴きましたことをパンフレットから転載しておきたいと思います。
王羲之(おうぎし)はどんな人
王羲之は、4世紀の初め中国の晋という時代の名門貴族の出身で、若くして将軍や地方の長官を歴任しました。
7歳の頃から書を学び、現代の漢字書体の発展に大きく貢献し、後の人々に大きな影響を与えました。
「蘭亭序」とは何
会稽(かいけい)現在の中国浙江省紹興市という地方の長官だった王羲之は、永和9年3月3日その地方で名勝とされる「蘭亭」という場所で、地元の名士達を招き
「曲水の宴」という詩会を開催しました。
この詩会の作品を集めた詩集の序文を書きました。
これが「蘭亭序」という世界的に有名な作品と言うことです。
「蘭亭序」にはどんな事が書いてあるの
「蘭亭序」 には、詩会当日の天候や会場周辺の様子のほか 「時代は変わっても感動の源は同じ。
後にこれらの詩文を読む人も心を動かすことであろう」 というように人間の普遍的な感動も書かれています。
王羲之は書を芸術の域にまで高めただけでなく、感じた事、思った事を素直に文章に書くと言う意味でも先んじていたと言われています。
「蘭亭序」はなぜ有名なの
王羲之の時代から約300年後、中国の唐の時代の皇帝・太宗は、王羲之の作品が大好きで各地から集めました。
中でも「蘭亭序」をこよなく愛し「昭陵」という自分の墓にまで持って行ってしまいました。
よって王羲之が自ら書いた「蘭亭序」は存在しません。
今回出品の「蘭亭序」とは
王羲之の「蘭亭序」を愛した唐の皇帝・太宗は、当時の一流の書人に沢山の「蘭亭序」の複製を作らせました。
その中で、最も出来の良い作品のひとつが今回展示される「八柱第三本」です。
現存している 「蘭亭序」 の中でも保存状態がよく、鮮やかな墨色で文字がくっきりと見えます。
北京故宮博物院でも通常は公開されていない貴重な作品です。と説明を頂きました。
日 時 8月27日 (第4水) 13:00~16:00
出席者 8名 (欠席3名)
指導者 鶴岡 美代子先生
目覚めましたときは、清々しくヤッタ~ 秋の気配のお出掛け日和にうきうきでしたが、午後は残暑に逆戻りしたかのような暑さに見舞われました。
残念ながら3名の会員の欠席でしたが、傘寿を迎えた先輩の皆様のお元気なお姿に身の引き締まる思いでした。
この度は、あらかじめ申し込みをしておりました 「短歌歳時記」 上・下 (短歌新聞社)を求める事から始まりました。
帯の説明から 四季折々の名歌鑑賞!
万葉から現代までの遙かな時のすぎゆく中で、各時代の歌びとたちは、四季の移ろいを繊細な心で詠いとめてきた。
その数多くの歌の中から、今日の短歌作者が心に響いた季節の名歌を精選、鑑賞した 珠玉の短歌歳時記!
(上巻は1月 ~ 6月 ・ 下巻は7月 ~ 12月)
短歌新聞に掲載された歳時記を、昭和55年~平成19年までを収録した「短歌歳時記」です
が、執筆者全員ではなく選択され各月、19名~23名が執筆。
その中に我が 鶴岡 美代子先生は、上巻 六月のうたに「六月の風景」を執筆されておりますことにとても嬉しく皆さんで を贈りました。
先生の益々のご活躍を皆さんでお祈り申し上げました。
勉強会にはあらかじめ配布されております22首について、1首に2名ずつが感想・意見を述べ、最後に先生から感想・添削を戴きますがこの度は、3名欠席という事もあり、
何回も意見を述べ合いながらとても活発なお勉強会になりました。
入選歌には及びませんでしたが、次の4首については、沢山の意見が寄せられました。
人体より蛆(うじ)を取りしと言うをみな八月六日 黙祷長し
イージス艦帰港間近に隙無しや今だ帰れぬ父子の御霊
グーグルが鮮明に我家を映しをり上空はるか見下ろす眼あり
華やかに開幕の演技続く中“虚”と“威”の文字が頭に浮かぶ
高得点歌
ミシン踏む母の面影顕(た)たせゐき簡単服は亡父の白飛白(しろかすり)
私の歌ですが、戦死の父が遺した何枚かの白飛白の浴衣から、母が作ってくれた簡単服、今のワンピースですが寂しさの中にも嬉しかった出来事に思いを致しました。
今月の入選歌 4首
猛暑の日友より届く絵手紙は朝顔の藍すがすがとして
難しい言葉はなく、詠むだけで涼しさを呼ぶ歌です。
早朝の水やり楽し我が菜園猛暑にぐんぐん苦瓜育つ
猛暑に苦瓜が良い。きゅうりやなすではダメ。
稜線の切り立つ尾根に雲ひとつ乗鞍岳の夏空高し
夏空高しが良い。
こまくさの紅の花目の奥に刻みつつ下山の仕度を始む
観察が細かくて良い。
積極的に意見・感想を述べ合いながらの3時間でしたが、程良い疲労感にも充実した歌会に幸せなひとときでした。
平成20年8月靖国神社社頭に掲示された遺書
「遺書」 熊本県出身 立山 英夫様
昭和12年8月22日 支那河北省辛荘附近にて戦死 合掌
若し子の遠く行くあらば 帰りてその面見る迄は 出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず己れ生あるその中は 子の身に代らんこと思ひ 己れ死に行く
その後は子の身を守らんこと願ふ あゝ有難き母の思、子は如何にして酬ゆべき あはれ地上に数知らぬ
中 略
お母さん お母さん お母さん ・・・ とお母さんを24回も書かれております。
上記のお方の遺書には年令が書かれておりませんが、お若い方と想像できます。
お母様への限りなき感謝のお言葉を残されての戦死に、お母様のご無念さはいかばかりかと心からご冥福をお祈り申し上げます。
先日、戦争関係の 報道のインタビューに応えてあるお方が 「戦後、我が国は一回も戦争をしていません。
戦争で死んだ人、殺した人も一人もいません。今の若い人たちは命を粗末にしすぎていると思います。」
と語っておりましたが、お若い皆様、命を尊び、これからの日本を一人一人が前向きに努力して住み良い社会にしようではありませんか。
今号にも全国から鎮魂の歌が寄せられました。
私達は永久に忘れられません、戦争の悲惨さを。ご一読いただけましたら幸せに存じます。
うぶすなの森の奥処にさくら咲き兄らの慰霊碑春の日をうく 横手市 女性
母の手を取りてゆっくり父の名を書けば頷きその眼潤めり 青森県 女性
征く叔父を小旗を振りて見送りき英霊となりて我を見守る 青森市 男性
捕虜の日の辛き暮らしは語るなく父は四十一シベリアに逝く 大阪市 女性
生きてをれば百歳となる兄上は大和島根の礎となりぬ 京都市 女性
還らざる夫の安否を占ひし事もありけり遠きとほき日 諫早市 女性
つつましく無言に散るや桜花在りしあの日の兄を思へり 篠山市 男性
わが進路決めかねし時戦死せる父の助言を聞きたくありし うきは市 男性
靖国に幾度来しが声なき兄今日も淋しくまたくると約す 京都市 男性
子や孫に散華の父を語り継ぐ誓ひ新たに慰霊祭の日 尾道市 男性
危ぶみつ千灯祭の予約せり夫が待つゆゑ逢ひ度きゆゑに 常滑市 女性
われ五歳白木の箱に寄り添ひき父の戦死を知るよしも無く 千葉市 私
平成20年8月20日 於 青葉の森公園にて
名前に応えてハ~イのポーズ
おかげさまで未歩ちゃんは明日21日は一歳のお誕生日を迎えます。
健康そのもので過ごしてくれましたことに未歩ちゃんと両親そして支えてくださった多くの皆様に感謝を申し上げております。
我が家の近くには春夏秋冬それぞれに彩り豊かに楽しませてくれる素敵な「青葉の森公園」があります。
最近、森林浴を兼ねた「水遊び場」 の開設を知ることとなりました。
未歩ちゃんはすでに何回も訪れているようですが、水も怖がらずに楽しんでおります様子を に収めてみました。
海岸や、プールと異なり公園の中に、沢山の緑に囲まれた森林浴を兼ねた水遊びに大人も子どもも残暑の厳しさから逃れて、ひとときの涼しさを満喫しているようでした。
奥様先生お手製カード
未熟な ですが 先生ご夫妻の素敵なダンスショー
チャリティダンスパーティ 2008 開催
日 時 平成20年8月17日 (日) 午後 3:00 ~ 6:15
会 場 ホテル ザ ・ マンハッタン
主 催 サワタダンスプロジェクト
秋が駆け足で参りましたような爽やかな朝を迎え、会場のホテルに向かう足取りも軽やかにダンスパーティ に参加を致しました。
先生のご挨拶の中に、使用済みテレホンカードは “海外の子供にワクチンを送る会” に、外国紙幣・コインは “ユニセフ” (国際児童基金) へ寄贈しますと。
貧困の国の赤ちゃんのミルクをとくために綺麗な水を したいの から、多くの皆さんからの浄財が井戸を掘るために協力されております事に感謝のお言葉がありました。
その浄財のお話に賛同下さいました歴史倶楽部で親しくご一緒させていただいております I 様が今まで保存してありました20カ国以上ほどの沢山のコイン・紙幣を国別に区分して提供
戴きましたことに先生ご夫妻からお礼のお言葉を戴きました。
友情の有り難さに感謝を申し上げた真のチャリティダンスパーティを楽しむことが出来ました。
美味しい に舌鼓を打ちながら沢田先生ご夫妻の素敵なダンスショーに魅せられ、又、競技会に出場された先輩の皆様の華麗なダンスに惜しみない を贈りました。
競技会出場の皆様のご披露 パーティ終了後、懐かしい皆様とご一緒に
終戦記念日:全国戦没者追悼式 約4600人の遺族が参列 (写真はTVより)
追悼対象者 軍人・軍属約230万人、空襲・原爆の死亡者約80万人 合掌
天皇陛下のお言葉(写真はTVより) 最高齢94歳の靖国の妻(写真はHPより)
終戦から63回目の8月15日が巡って参りました。
日本武道館で行われました全国戦没者追悼式に約4600人の遺族が参列しました様子を今年はTV報道により記す事になりました。
毎年、まだ参列されていない方に参列希望の有無を伺い、千葉県・市代表として参列していただきたいとささやかな努力をしております。
しかし、歳月の積み重ねが高齢化を生み、健康上の理由から参列を断念せざるを得ない遺族も年々増えていることも事実です。
報道によりますと、約4600人の遺族の参列は過去30年で最小の人数で、平均年齢は70歳と報じられました。
又、遺族参列者は7割近くが戦没者の子や孫。
父母は3年振りにゼロ に80年代は過半数を占めた妻も全体の2%以下の85人にまでに減ったそうです。
最高齢となる94歳の飯村ヨツ様はフィリピン・ルソン島でご主人様が戦死された靖国の妻です。
参列者が年々減少の報道に 「淋しくなってしまう」 と車椅子にて初参列をされたそうです。 合掌
最年少の参列者は高知市の小学校3年生 (9歳女児) は曽祖父の追悼のために祖父母と参列され「戦争は殺し合いだから、やってはいけないと思う」と異国の地で散華した
曽祖父を偲ばれました報道に感激致しました。 合掌
今日もとても 一日でした。
63年前の今日もとても かった日と聞いております。
祖父の命にラジオに向かって正座して、昭和天皇の終戦のお言葉を聞いたあの日、小学校入学前の私でしたが、何故かとても悲しい出来事である事に思えた63年前の
8月15日でした。
日の丸に包まれた北島選手 観客に応える金メダリスト
上記 はTVからですが、納得できるチャンスに でした。
北島選手が世界新を獲得した瞬間は、 中、息子とお墓掃除を済ませて、車中でホット一息ついた時でした。
お盆を迎える為に特別丁寧にお掃除を済ませた後の金メダルの報道にとても気持ちよく万感込めて万歳を叫んでしまいました。
息子がちょっと黙って! タイムが聞こえないだろうよ と。本当に嬉しかったですね。
北島選手 100m 世界新58秒91 で 2連覇 おめでとうございます
自宅到着時、表彰式が始まっておりましたので、急いで を に向けましたところ丁度、日の丸が掲げられ、北島選手が日の丸に包まれました瞬間を収める事ができました。
長崎原爆 (新聞より)
1945年 (昭和20年) 8月9日午前11時2分頃、米軍のB29爆撃機ボックスカーが長崎上空で投下したプルトニウム型原子爆弾。ファットマンと呼ばれる。
熱線や爆風で約74000人が死亡。 合掌
約75000人が重軽傷を負ったと推定されている。長崎市によると、その後亡くなった人を含め、これまでに原爆死没者名簿に記載された人は14万5984人。
生存している被爆者も、がんや白血病を発症するなどさまざまな健康不安に直面している。とありました。
被爆63年、8月9日平和祈念式典の様子が報道されました。
田上長崎市長は「あの日、この空に立ち上がった原子雲を私たちは忘れません」と核の恐ろしさを世界に訴え、核廃絶に力を尽くす決意の「平和宣言」を表明しました。
又、『長崎の鐘』の著者 永井隆博士の生誕100年の追悼のお言葉もありました。
永井隆博士の事
8月9日長崎医科大学で被爆し、26年5月1日 ご逝去 合掌
まで病床で自らの半世紀 『長崎の鐘』ほか数多い著作を残されました。
最初に出版された 『長崎の鐘』 が大きな反響を呼び、後に歌が出来ました事改めて確認させていただきました。
作詞 サトウ・ハチロー
作曲 古関 裕而
歌 藤山 一郎
こよなく晴れた 青空を 召されて妻は 天国へ
悲しと思う せつなさよ 別れてひとり 旅立ちぬ
うねりの波の 人の世に かたみに残る ロザリオの
はかなく生きる 野の花よ 鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る ああ 長崎の鐘が鳴る
多くの皆様が歌い・聴いた事のある歌に存じますが、この歌を耳に致しました頃は、まだ幼く意味も分かりませんでしたが、平和への願いが込められていると思います。
浦上天主堂前の道路の壁面には『長崎の鐘』の楽譜が書かれているそうです。
被爆者平均年齢は75歳を超えましたとの報道に今尚、多くの方々が被爆の苦しみに耐えて懸命に生きています。
インタビューに応えてあるお方が「戦後、我が国は一回も戦争をしていません。戦争で死んだ人、殺した人も一人もいません。
今の若い人たちは命を粗末にしすぎていると思います。」
と語っておりましたが、命を尊び、一人一人が前向きに努力して住み良い社会にしようではありませんか。
遺児として懸命に生きてきた者の願いです。
原爆が投下された 午前8時15分 「平和の鐘」 がうち鳴らされるなか に向かって黙祷を捧げました。
被爆者の皆さんの平均年齢が75歳を超えましたと言う報道に、長い間のお苦しみにお慰めする言葉もございません。
私は 呉市 江田島 海軍病院 に出生ですのでとても人ごととは思えません。
尊い命を犠牲にされた多くの御霊に心からのご冥福を申し上げたく存じます。合掌
先般、戦後60年記念誌 「あなたに送る平和へのメッセージ」 が発刊されました。
その中の 「戦後60年記念座談会」 に於ける原爆被害者の会代表のお方の悲しいお話の一部をご紹介させていただきます。
「 私の長男の長男、私の孫なんですが、中学校で陸上競技の選手でした。ところが、監督の先生から、白血球がどうも少ないから精密検査を受けるようにと言われたと
いうのですね。その時には泣きました。
原爆に遭ったのは私なのに、子供や孫までこういう目に遭わせるのかという思いで。
しかし、健康診断の結果は普通の男の白血球は8000といわれて、それが4000。
それで病的とまでは言えないとの事にほっとしているところですが、私が原爆に遭って子供や孫まで白血球が少ないということでいまも迷惑をかけているという思いです。」
と語られておりました。
私達遺児はいつも語り合っております。
誰が 、何故戦争を 、 何故早く止めなかったのか と。とても残念です。
ご紹介の 戦後60年記念誌 「あなたに送る平和へのメッセージ」 は千葉県内の各図書館などの公共施設に配本されておりますことを伺っております。