2012年08月25日 | にご紹介の「友人の庭のお花」です。
1.先ずは千葉県の名山「鋸山(のこぎりやま)」ご紹介からでした
鋸山(のこぎりやま)は、房総半島の南部、千葉県安房郡鋸南町と富津市の境に位置する山。
鋸山 日本寺のHP http://www.nihonji.jp/yuisho/
この度の鋸山は絶景を中心に紹介されましたが、鋸山=日本寺と鋸山全体が日本寺と言われておりますのでご覧頂きたくHPを紹介させて頂きました。
桝 太一アナンサーは頂上「地獄のぞき」へ挑戦
私は20年前に登りましたが素晴らしい絶景でした
2.日本初!黄金に輝く池の紹介
竹岡の黄金の井戸(千葉県富津市) http://bunbun.hatenablog.com/entry/takeokakogane
3.千葉県のグルメのご紹介
千葉県はお魚も豊富です ハマグリに見えますが早速頂いてみたい!
美味しそう! 千葉県の美味しい梨も幸せに毎日頂いております
4.いよいよ地元若葉区へ
加曾利貝塚について https://www.city.chiba.jp/kasori/infomation/overview/kasori_index.html
世界的にも有名な加曾利貝塚は小学生のころは毎日遊んだ所、幼い時は日本のどこを掘っても貝が出てくるものと思っていたそうです
5.小学校訪問
子供たちが知っていてくれたことに大喜び! 先生が素晴らしい!と読んでくれた日記の事を友人が披露しました
偶然にも「桝 太一アナンサーふる里千葉へ里帰る」に千葉県紹介の報道に出合いました。
地元の子供たちは出会うたびに「桝 太一アナンサー」と連呼しておりましたが、私は近くにお住まいでした千葉市出身者であることを初めて確認させて頂きました。
最初に紹介されました千葉の「鋸山」と言えば「地獄のぞき」が有名スポットです。
20年前頃に「歴史倶楽部」で登山しましたが、あの時の大変さは忘れることができません。
普段鍛えていないこともあり、翌日から自力では歩けませんほどに長い間病院のお世話になりました。
しかし、「地獄のぞき」から見る風景は素晴らしく若き?日の楽しい思い出なりました。
また、千葉の名産の はかりめ=アナゴ 、ホンビノスという2枚貝も初めて知ることとなりました。
昔はハマグリがたくさんとれましたので炭火で焼いてお醤油を垂らして沢山頂きました。新しい貝はどんなお味?かと興味深く拝見いたしました。
各地で風水害に遭われました多くの皆様には申し訳なく思いながら、美しい千葉の紹介を楽しむことができました。
平成30年8月 靖国神社社頭に掲示されました遺書 合掌
お子様への限りない愛情のお便りに誠教様はこのお便りを握りしめて戦後を生き抜かれたことと存じます。
私より少し先輩に思いますが、私も1年生はカタカナを学び、2年生でひらがなを学びました。お互いに辛い戦後でございました。
誠教様がお元気にお過ごしの事をお祈り申し上げております。
平成30年、終戦から73年を迎えた8月15日(水)およそ310万人の戦没者を慰霊する政府主催の全国戦没者追悼式が東京の日本武道館で行われました。
平成最後となる式典には、全国から遺族の代表など6500人余りが参列しました。
天皇皇后両陛下が菊の花で飾られた式壇にお着かれになられたあと参列者全員で1分間の黙とうをささげました。
続いて天皇陛下が「さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。戦後の長きにわたる平和な歳月に思い
を致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼
の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります」と平成最後のおことばを述べられました。
戦争を知らない国民が多くなりました現在、悲惨な戦争の事実も遠い過去の事になりつつありますが、事実は事実として継承して参りたく考えております。
私たち遺族は命ある限り鎮魂の歌を詠み続けて参ります。
今号にも10名の遺族関係者の鎮魂の歌を掲載していただきましたのでご紹介させて頂きます。お目を通して頂けましたら幸に存じます。(掲載順)
わだつみの無念知るべしソロモンの海鳴り夜な夜な浜にどよもす 富士吉田市 遺児男性
野に立てば硝煙消えて草生(お)うる往時の兵の若き語らい 東京板橋区 遺児女性
雨に覚め夢の涙を拭ひたる洋上慰霊水面の父に 南相馬市 遺児女性
死ぬ事を見つけたりとて十八の少年やがては卒寿迎う 佐世保市 遺児男性(鳥海艦長ご子息)
細腕で農と子供ら守りし母寡婦七十路を確と生きたり 南相馬市 遺児男性
子の為と一人で生きし七十二年社会に感謝し父のみ許へ 甲州市 遺児男性
旧仮名の兵(つわもの)の遺書しっとりと靖国の社になじみておりぬ 青森六戸町 田中恭子様
朗々と祝詞ながるる神楽祭集える人等しんと声なし 鳥栖市 遺児女性
月に一度慰霊碑のめぐり清掃す遺児なるわれら心ひとつに 一宮市 遺児女性
父の日にプレゼントしてみたかった戦死の父の写真を見れば 小諸市 遺児女性
九段短歌は長い休載でしたが6月号から開始されました。
おかげさまで6月、7月と連続掲載頂きましたが今号は掲載ならずでした。
しかし、お久しぶりに鳥海艦長ご子息田中暁様のお歌を拝見いたしお元気を確認できました事にとても嬉しく存じます。
7年前の洋上慰霊の折に「ふじ丸」船上に出合い2週間にわたるご厚誼を頂きました事を懐かしく思い出しております。
はるかに田中様のご健勝をお祈り申し上げております。
白扇書道会展授賞式 平成30年8月19日(土) 於 千葉県立美術館講堂
今年度は孫と私、幸いにも「準大賞」を頂くことができました。
多くの友人の皆様、孫の親族が美術館にお出かけくださいまして授賞式に参列頂きを贈ってくださいました。
その折の写真も収めて下さいましたので記念に一部をご紹介させて頂きます。
最初は学生の部「幼稚園生から高校生まで」の受賞者表彰式
受賞者を囲み、指導者、父兄で満席でした
孫の作品「実力」は 平成30年 第58回 白扇書道会展 全国学生書道の部 に紹介させて頂きました
大人の部表彰式
理事長先生のご挨拶 受賞者の皆様
受賞者の皆様 準大賞6名中の1人 ↑ として壇上に加えて頂きました
私の作品は扇面に百人一首6首を創作致しました。
創作に創作を重ねながら先生にご指導を頂き、提出することができました作品でした。
「準大賞」入選のお知らせを頂きました時は夢ではないかと信じられませんでした。
そのうえ先生から「今年度は「大賞」の該当者がおりませんでしたので「準大賞」が最高賞ですよ。」と伺いました。
市川蘭華(天海洋子)先生にご指導を頂きましてから今年は15年目を迎えました。
今春、15年目にして「かな師範」に合格、これを記念してかな作品に挑戦したい!と清書した作品でした。
ダブルのご褒美を頂き、これ以上の賞はあり得ませんので言葉になりませんほどに感激しております。
今後、健康管理をいたしながら筆が持てなくなる時まで精進して参りたく考えております。
この度の作品・賞状と記念品
私の作品 ↑ 準大賞6作品の展示コーナー
市川蘭華先生よりお祝いを頂きました
百人一首6首の作品を記念に掲載させて頂きます
私事に最後までご覧いただきましてありがとうございました。
「書」の文字は扇舟先生の遺作の署名のと伺いました 署名の ↑(はっきり見えませんが)
展 覧 会 会 場
↑扇舟先生の遺作 ↑市川蘭華先生の作品 白扇会所蔵の拓本の一部より
「尹宙碑(いんちゅうひ)」より 白扇展先師所蔵の拓本が時空を超えて原石みるごと
扇舟賞を受賞されました先生方の作品
学生書道の部1650点の展示会場 未歩ちゃんの 「実力」 ↑ 準大賞が展示されていました
早速ご紹介させて頂きます。
写真のように後円部は森の状態ですが、210mもある前方部は草原です。
昭和30年頃までは大和の大部分では農家が牛を飼育していました。
その頃はこのような草原は牛の牧草や、田圃に入れる堆肥として貴重な資源でした。
当時は周辺の農家が宮内庁書陵部の許可を得て草を鎌で刈っていました。
昭和30年頃以降は、耕運機やトラクターの普及で牛を飼う農家もなくなり農業も集約的になって化学肥料を使い、堆肥にする草刈りをしなくなりました。
最近は宮内庁が草刈り作業を外注し、造園業者や建設業者が作業員を30人ほど動員して、エンジン付きの刈り払い機で草刈りをしています。
古墳の下を走る国道からは作業員が小さく見える程です。
丸山古墳 1 丸山古墳 2
丸山古墳 3 五条猫塚古墳
県史跡猫塚古墳 蒙古鉢形冑
目 的 8月15日は 「戦没者を追悼し平和を祈念する日」 として閣議決定されており、政府主催の 「全国戦没者追悼式」 に合わせて
戦没者を追悼し世界の恒久平和 を祈念するため、千葉県忠霊塔において拝礼を行う。
日 時 平成30年8月15日 (水) 午前11時57分から
場 所 千葉県忠霊塔前 (千葉市中央区弁天)
主 催 千葉県
千葉県忠霊塔は1954年完成。日清戦争以来の本県出身者5万7248人の名簿が収められています。千葉県主催の追悼式は終戦記念日に合わせて毎年開催されています。
千葉県忠霊塔 森田健作知事による拝礼式
千葉県森田健作知事による献花 千葉市遺族会代表者による献花
千葉県森田健作知事のお言葉 千葉県遺族会会長丁子(ようろご)源三郎様のお言葉
千葉県知事森田健作様は毎年8月15日は早朝に靖国神社に参拝をされてから千葉県忠霊塔拝礼式にご出席されますことを伺っております。
遺族と致しましてはとてもありがたく森田知事に感謝を申し上げておりますところでございます。
終戦記念日に際しましての記事に多くの皆様にお訪ね頂きまして御礼を申し上げます。
おかげさまで下記のように記録を頂きましたのでご報告申し上げます。
日 時 閲覧数 訪問者数 順 位
2018.08.14(火) |
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2018.08.15(水) 1381 405 2067位 / 2836704ブログ
2018.08.18(土) 1473 452 2509位 / 2837127ブログ
73年前の8月初旬、栃木県の奥日光に同級生らと疎開していた当時11歳の天皇陛下は、戦況の説明に訪れた大本営幹部にこんな質問をした。
「なぜ、日本は特攻隊戦法をとらなければならないの」
▼私たちはギクッとした-と側近が記している。
戦死が前提の特攻という戦法には誰もが疑問を持っていたが、口に出せる時代ではなかった。この質問で「十分すぎるほど殿下のお気持ちはわかった」
(高杉善治著「天皇明仁の昭和史」)
▼多感な少年時代、戦時の雰囲気にさまざまな思いを抱かれたのだろう。終戦直後の食糧難の折には、慣れない手つきで農作業も体験された。
戦中・戦後の記憶は、後に平和を願う強い思いの原動力になったように思える
▼平成で最後となったきのうの全国戦没者追悼式のお言葉には「長きにわたる平和な歳月に思い」との表現が加わり、「深い反省」が4年連続で使われた。
「平和」も1カ所増えた
▼お言葉は、自ら鉛筆を握って推敲(すいこう)を重ねるという。今回のお言葉からは、戦争の記憶が風化することを懸念し、平和の歩みを語り継いでほしいとの願い
も読み取れる
▼来年の追悼式からは、5月に即位する皇太子さまが参列する。
戦争の時代を経験してきた陛下の思いは、戦後生まれの新天皇にどのように引き継がれるのだろう。
過去ログのご紹介 『知覧特別攻撃隊』 高岡 修 編
千 葉 日 報 2018年(平成30年)8月16日(木曜日)
終戦から73年 平成最後の戦没者追悼式(NHKのHPより)
終戦から73年を迎えた8月15日(水)およそ310万人の戦没者を慰霊する政府主催の全国戦没者追悼式が東京の日本武道館で行われました。
平成最後となる式典には、全国から遺族の代表など6500人余りが参列しました。
天皇皇后両陛下が菊の花で飾られた式壇に着かれたあと、安倍総理大臣が「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。歴史と謙虚に向き合い、この決然たる誓いを貫いてまいります。争いの温床となるさまざまな課題に真摯(しんし)に取り組み、万人が心豊かに暮らせる世の中を実現することに不断の努力を重ねてまいります」と式辞を述べました。
そして、参列者全員で1分間の黙とうをささげました。
続いて天皇陛下のお言葉を賜りました。来年4月の天皇陛下の退位を前に両陛下が追悼式に出席されるのはことしが最後となります。
このあと遺族を代表して昭和19年8月に北マリアナ諸島のテニアン島で父親を亡くした宮城県石巻市の鈴木喜美男さん(75)が「遺品となった戦地からの便りは東日本大震災
により流失してしまいましたが、父の生きた証しを伝えていくことは、遺族としての役割と考えております。再び悲惨な戦禍を繰り返すことなく、世界の平和、命の大切さを
しっかりと後世に受け継いでいくため、たゆまぬ努力を続けることをお誓い申し上げます」と述べました。
式典ではこのあと、参列者の代表が式壇に菊の花を手向けて戦争で亡くなったおよそ310万人の霊を慰めました。
式典会場の日本武道館 全国戦没者追悼式式典斎場
最後の追悼式に臨まれる天皇・皇后両陛下 標柱に礼を捧げる天皇・皇后両陛下
正午の時報に合わせて黙祷を捧げました 全国から遺族の代表など6500人余が参列して黙祷を捧げました
オーケストラの演奏による「君が代」斉唱 千葉県代表200余名中の一部の参列者の皆様
天皇陛下のお言葉全文(NHKのHPより)
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみ
を新たにいたします。
終戦以来既に73年、国民のたゆみない努力により今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り
戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。
終戦から73年を迎えて遺族の高齢化が進み、参列した遺族の78%は、70歳以上となり、参列した戦没者の妻も13人にとどまりました。
そのひとりで、最年長の参列者でもある東京 練馬区に住む102歳の芹ヶ野春海さんは昭和20年6月に沖縄本島で、結婚してまもない夫の博さん(当時31)を亡くしました。
芹ヶ野さんは「戦争は絶対やってはだめだ。自分もとても悲しい思いをしたし、みんな困っていた。人生でいちばん嫌な記憶です」と涙を流しながら話していました。
また、戦争の記憶を受け継いでいこうと、18歳未満の若い世代合わせて121人が式典に参列しました。
今年は平成最後の追悼式として記念の式典になりました。
参列者の妻のお立場のお方はお元気なお姿の102歳の芹ヶ野春海様を含めて13名の参列、遺族の78%が70歳以上と報道されました。
その中で「18歳未満の若い世代が121名参列」の記事に励みを頂きました。
しかし献花を行った方、壇上でお手伝いをされたお子様たちの人選は?の疑問も生じました。是非、千葉県にもお声をかけて頂きたい!と思いました。
私は、昨年参列させて頂きましたので今年は参列致しませんでした。
今まで参列できなかったお方を中心に初めてのお方にも参列していただくことができました。
参列されたお方から全員無事でしたと伺い、暑い中お疲れ様を申し上げました。未熟な記録ですがご覧いただきまして有り難うございました。
力作2300点を展示 千葉できょうから
「第58回白扇書道会展」(毎日新聞千葉支局など後援)が14日、千葉市中央区の県立美術館で始まる。19日まで。
一般の部は、同会役員らの臨書作品をはじめ、漢字や近代詩文書、かな、前衛など約650点を展示。
全国から約8300点の応募があった学生の部(幼稚園児~大学生)は、上位入賞した約1650点を紹介する。
準大賞31名の内の1名に加えて頂きました
平成30年度 第58回 白扇書道会展覧会が14日(火)より開始されました。
一緒に学んでおります5年生の孫は、毛筆・硬筆合わせて5点の作品を提出、その中で毛筆の部の1枚「実力」がおかげさまで準大賞を頂くことができました。
初日の本日、孫の家族は旅行中に美術館に出向くことができませんでしたので長女の婿殿にご足労頂き、孫の作品及び私の作品を鑑賞することができました。
孫にはラインに作品の写真を送信、喜びの絵文字が返信されました。
表に出ることを好まない孫は授賞式は出席しないと言っておりますが、何とか一緒に出席したいと願っております。
この記事は2011年(平成23年)8月12日の過去ログですが、多くの皆様がお訪ねくださっておりますことに感謝を申し上げ、当日語り部としてご出演くださいました水嶋 隆様 は82歳でしたが現在、89歳におなりの水嶋 隆様のご健勝もお祈り申し上げ再度ご紹介させて頂きます。
「戦争を知らない子どもたちへ」
まもなく8月15日、66回目の終戦記念日が巡って参ります。
語り部の説明と共に平和祈念展示資料館において、14歳の志願兵 水嶋 隆様 (現在82歳) が戦争を知らない子ども達へ語り継ぎました。
8月10日 日本テレビ 「ミヤネ屋」 の放送 終戦5日前66年前の新聞に見る日本、14歳志願兵、17歳特攻兵の証言を交えた貴重な報道でした。
TV放映によります一部の上層部の間違った戦争意識により尊い多くの命が奪われた戦争の悲劇を振り返り、当時の記録として収めさせていただきます。
子どもたちに体験を話される14歳で航空隊に志願した水嶋 隆様 (82歳)
展示品を見ながら多くを質問しておりました
学童疎開 http://www16.plala.or.jp/senso-koji/gakudou.html
原爆投下後の新聞 原爆投下を報道した僅かな紙面に
玉音放送を聞いた後の驚きを語る水嶋様
「放送を見て」
知らないと恥改めて多くの事を確認できる機会に恵まれましたが、それは皆、悲しい出来事の確認でした。
初めて知ることとなりました疎開の 「残留組」 と言う言葉に愕然としました。
残留組 = 健康上の理由や、疎開させる費用がなく都市に残った。いつの世も弱い者が犠牲になるのですね。
原爆投下後の新聞の記事は表面に記載されることなく 「戦時中の情報統制」 により原爆報道は広島、長崎共に2日後であったことの事実。
それ以上に戦争指導者たる者が戦争終結に即座に導かなかったことの確認。
水嶋様は 「展示物を見ただけでは子どもたちは理解で出来ない」 と話されました。
国の為に尊い命を犠牲にされた多くのみ霊に心からのご冥福をお祈り申し上げます。合掌
過去ログですが平成30年は戦後73年を迎えます。
戦争を知らないお方が多くなっております今日に戦争の悲惨さを知って頂き、二度と戦争が起こりませんようにお祈り申し上げまして過去の事実としてご覧いただきたく再度
ご紹介させて頂きました。
ここにご紹介の記事は2012年3月13日の過去ログですが、毎日多くの皆様にお訪ね頂いておりますことに驚いておりますと共に感謝申し上げております。
終戦記念日が近づきました事もあり、ここに改めてご紹介させて頂きました。又、当時の動画も残っておりましたので合わせてご紹介させて頂きます。
「太平洋戦争末期」
フィリピン・ルソン島で、米軍の日本本土侵攻を遅らせることを求められた第23師団。米軍を島の奥深くに誘い込み、戦いを長期化させることが使命でした。
しかし既に制空権 ・ 制海権を奪われて補給は途絶え、しかも太平洋の島々で激戦を繰り返したため、蓄えていた物資の多くを使い果たしていました。
こうした中で兵士たちに下されたのが、“自活自戦・永久抗戦” 。食糧も物資も自ら調達し、永久に戦い続けろというものでした。
9ヶ月に及んだ、補給なきルソン島の戦いの実態を辿ります。(放送の解説より)
TV放映のご紹介 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210057_00000
上記のご案内にTV報道に を向けさせて頂きましたので後世に伝えるために綴らせて頂きました。
戦死者30万人と言われております激戦地 フィリピン ルソン島
自活 ・ 自戦を強いられた2万人の九州出身者
昭和19年1月からバギオも空襲を受け、野戦病院として使用した場所と言う。マラリア、テング熱などにかかった兵士を洞窟の様なところに、直接寝かせたと言う。
当時はここを地獄病院と言われていたそうです。
毎年お一人で ルソン島へ慰霊巡拝に訪れておいでの 小杉 峯彬(みねもり)様
心境を語る小杉 峯彬(みねもり)様
小杉 峯彬(みねもり)様は戦死されたお仲間のために戦後6回(2012年時)、 慰霊巡拝にルソン島を訪ねておいでのお方です。
「亡くなった方と生きて居るものでは格段の差があり、幾たび手を合わせても自分の気持ちの整理が出来ないと・・・」 と涙ながらに語られました。
この度の放送で真実を語られた高齢者の元兵士の皆様の証言を記録させて頂きました。
私も2000年にフィリピンの多くの島々に慰霊巡拝に参りました。
誰もが 「父は勇敢に戦って戦死した」 と伝え聞いておりましただけに、当時ご案内役の日本人のお方からの悲惨な状況を耳にして、又戦死したであろう現地を案内されました時に、
「来なければ良かった!父があまりにも可愛そう」 と、号泣された男性の姿が忘れられません。
戦争で得るものは皆無です。悲劇です。二度と繰り返してはなりません。
今年は戦後73年を迎えます。犠牲者は私たちで終わりにしたい!そう願っております。
平和祈念式典 平成30年8月9日(木)午前10時35分開始 気温
会 場 長崎市平和公園
原爆の犠牲になられました長崎市民の多くの御霊に哀悼の誠を捧げます。 合掌
長崎に原爆が投下されてから73年となる8月9日、長崎市で平和祈念式典が行われ、国連の事務総長が初めて出席する中、田上富久市長は平和宣言で、日本政府に対して「唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約に賛同して世界を非核化に導く道義的責任を果たすこと」を求めました。
長崎市の平和公園で行われた式典には、被爆者や遺族、それに71か国の代表を含むおよそ5800人が参列し、この1年間に亡くなった被爆者など3511人の名前が書き加えられた17万9226人の原爆死没者名簿が納められました。
平 和 公 園
「平和祈念公園」
原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた公園です。
「平和祈念像」
長崎市民の平和への願いを象徴する高さ9.7メートル、重さ30トン、青銅製の平和祈念像。
制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めました。
毎年8月9日の原爆の日を「ながさき平和の日」と定め、この像の前で平和祈念式典がとり行なわれ、全世界に向けた平和宣言がなされます。
平和祈念像について過去ログですが 長崎の平和祈念像制作者も祈り (NHK放映より)
原爆が投下された午前11時2分に合わせて「平和の鐘」が鳴らされ、原爆で亡くなった人たちに黙とうがささげられました。
水を求めてなくなった犠牲者のために献水が行われました 市長及び市民代表者によります献花が行われました
田上富久市長の平和宣言
「平和への誓い」 田中煕巳様は13歳の時に被爆されましたと語り始めました。ご健勝をお祈り申し上げます。
ご来賓として初めてご参列いただき、初めに日本語でご挨拶を頂き続いて貴重なお言葉を頂きました
最後は山里小学校6年生によります「あの子」をご披露くださいました。
平成30年8月6日(月) 原爆投下から73年、平和記念式典に85の国の代表が参列して
原爆の犠牲になられました広島市民の多くの御霊に哀悼の誠を捧げます。 合掌
【開催内容】(広島市HPより)
原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するため、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)前において、原爆死没者の遺族を初め、
市民多数の参加のもとに平和記念式典を挙行します。
式典の中で広島市長によって行われる平和宣言は、世界各国に送られ、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を訴えます。
又、原爆の投下された8時15分には平和の鐘やサイレンを鳴らして、式典会場、家庭、職場で原爆死没者に哀悼の意を表し、あわせて恒久平和の実現を祈り、
1分間の黙とうを行います。
原爆投下について 過去ログですが テレビが伝えた ヒロシマの悲劇
9日午前11時2分、約24万人が住んでいた長崎市にも原爆が落とされた。
その年の12月末までに推計で、広島で約14万人、長崎では約7万人が亡くなった。
今なお原爆の後遺症で苦しんで居られる犠牲者の平均年齢は82歳と報道されました。
原爆死没者名簿の奉納 今年1年間の原爆死没者数は5393名
原爆投下から73年間の原爆死没者総数は314118名と報道されました
午前8時15分市民代表による「平和の鐘」 「平和の鐘」にあわせて市民の祈り
広島市原爆死没者慰霊式並びに平和記念式式典会場「平和公園」
「平和宣言」 広島市長 松井 一実氏 人が焦げる臭気の中、赤い肉をむき出しにして亡霊のごとくさまよう人々
小学校6年生男女によります「平和への誓い」 壇上に向かわれるお二方
人間は美しいものをつくることができます。人々を助け笑顔にすることができます。 昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分
原子爆弾の投下によって街は焼けたくさんの命が奪われました 「骨をもいでください」と頼む人は皮膚が垂れ下がり腕の肉が無い姿でした
苦しみや憎しみを乗り越え平和な未来をつくろうと懸命に生きてきた広島の人々 私たちが学んで心に感じたことを伝える伝承者になります
原爆投下から73回目の広島市の慰霊の日を迎えました。合掌
松井市長様のお言葉に73年前も月曜日でしたと、そして被爆者の平均年齢は83歳の高齢者になられ、今なお苦しみの日々とお伺いいたしました。
これからの広島市を担う小学生お二方の力強い「平和への誓い」のお言葉に勇気づけられたお方も多かったのではないでしょうか。
お子様方の今後に恒久平和をお祈りしまして平成30年8月6日の記録とさせていただきます。