平成20年3月靖国神社社頭に掲示されました遺書 合掌
弟進へに始まり、妹富美子へと書き残された最後の手紙。
「兄は戦争に行く二度と会ふ事は出来ぬ、」と書かれておりますが、何て残酷でしょうか。
福田様を初め多くの方々が犠牲になりました。
先般、3月10日の東京大空襲の様子が放映されましたが、あまりにも惨く直視出来ませんでした。
多くの方が、二度とあってはならぬ事、何故早く・・・等々、いろいろと感想を持たれた事と存じます。
私たち遺族は生ある限り永遠に消えません、悲しみ、悔しさが・・・。
今号にも全国から鎮魂の歌が寄せられました。
ご一読いただければ幸いに存じます。
ふしぎにも夢は何回見てもゆめ一度も話し笑ふ事もなし 米子市 女性
米寿近き身のつつがなく夫征きし宇品の冬海またも訪ひきぬ 横手市 女性
着膨れてゐても小さく成りし母還らぬ父の事を語らず 大阪市 女性
命日の近き思へばその夜の夢に現はるる写し絵の父 青森県 女性
靖国の社に眠る亡き父を偲びて吟ず九段の桜 京丹後市 男性
古希すぎて思ひ染むるは父のこと二十八才征きて戻らす 南相馬市 男性
黄落の山懐に抱かれし兵の骨掘る六十年経て 出雲市 女性
益荒男の御魂眠れる軍人墓地銀杏黄葉の散り初めにけり 篠山市 男性
遠き日に米を求めて妣の来し虹立つ信濃のいづこのあたり 名古屋市 女性
もみぢ見に通天橋を訪ぬれば錦繍に皆歓声が飛ぶ 京都市 男性
ふるさとの仏間の寫眞見てわが思い出に父のこと無し 千葉市 女性
菊かをる朝に夫は召され征く奉公袋一つ手にして 常滑市 女性
一村の全滅したる跡に建つ「しづたまの碑」に花絶ゆるなく 千葉市 私
「千葉県南方諸地域戦没者追悼式」に沖縄を訪問し、式典に参列させて頂きました折に詠ませて頂きました。
各地を慰霊巡拝に献花を捧げましたが、特に「しづたまの碑」の建立の説明に涙致しました。
千葉実年大学校 歴史倶楽部 平成20年3月度定例会
江戸時代 "波を彫らせたら天下一” と言われた、名彫刻師 「波の伊八」 の作品を訪ねます。
「波の伊八」の作品は、千葉県南部にあり平成18年3月は鴨川地区を訪ねましたが、今回は夷隅(いすみ)地区を訪ねます。
飯縄寺(いづなてら)の「天狗と牛若丸」 、行元寺(ぎょうがんじ)の「波に宝珠」など、初代波の伊八(本名:武志伊八郎伸由)の傑作が見られます。
上記のご案内に大勢の会員が参加を致しました。
開催日 平成20年3月21日(金) 少~し
参加者 77名
集 合 千葉NTT前 7時45分
千葉NTT前 8時丁度発 大型 2台は千葉東金道路・東金IC→ 東金九十九里道路 → 「飯縄寺」(いづなでら)に向かう車中、会長さんから改めて 旅行先の説明 をいただきました。
今回の旅は、安房の名工「武志伊八郎伸由」の欄間彫刻を訪ねます。
伊八の彫刻は主に千葉県南部にあります。一昨年3月は、主に鴨川地区の寺院を訪ねましたが今回は、主に夷隅地区の寺院を訪ねます。
江戸時代「波を彫らせたら天下一」とうたわれた名彫刻師がいました。
その名を 「波の伊八」 と言い、厚彫りで躍動感のある波と龍の彫刻を得意としていました。
作品は遠近法や陰影法をうまく取り入れおり、他の彫刻師の作品にない迫力が伝わってきます。
伊八の技術を継ぐ彫刻師は江戸中期から昭和まで五代続き、千葉県南部を中心に関東一円におよび欄間彫刻や像を彫り続けていました。
初代武志伊八郎伸由 (1751~1824) は鴨川市打墨村の生まれです。
(1)天台宗・飯縄寺 (いづなでら) (夷隅郡岬町和泉)
大同3年(808)慈覚大師により開山された南総屈指の名刹。
ご本尊は飯縄大権現、天狗のお姿をしているところから「天狗のお寺、おいづなさん」と古くから親しまれています。
寛政9年 (1797) に再建された本堂は平成の大修理を経て、平成7年千葉県指定有形文化財となりました。
“見所”
「結界欄間彫刻」、天井画墨絵 「龍」
結界欄間彫刻は正面 「天狗と牛若丸」 、左右二画 「波と飛龍」。
伊八壮年期 (45歳1796年) の最高傑作の一つとされています。
本堂再建 (1797年) 時の約10年間逗留して彫ったものとされています。
伊八の彫刻を見た中では素晴らしく、見る人を圧倒します絶品です。
四面に花鳥風月の彫刻が施された鐘楼 本堂屋根内側
結界欄間 作品に初代伊八の銘あり 正面「天狗と牛若丸」左右2面「波と飛龍」
(2)天台宗・行元寺 (ぎょうがんじ) (いすみ市荻原)
山号を東頭山と称し嘉祥2年 (849) 慈覚大師によって開山されました。
大正14年 (1586) 現在地に移築して本多忠朝などの信仰を集め、徳川家の庇護のもとに10万石の処遇を受け、学問寺として末寺100ヶ寺、人材育成や文化向上に努め、この間に多くの
学僧などを輩出し、天海と共に家康の信頼を集めた。
"見所”「伊八の彫刻」、「高松又八の彫刻」、等随の怒気土岐の鷹 (杉戸絵)」客殿欄間には欄間彫刻があります。
58歳 (1809年) の作品です。
「波に宝珠」、「梅」、「波に旭鶴」。
「波に宝珠」は葛飾北斎の名作富岳三十六景に影響を与えたのではないかと言われています。
本堂欄間には、高松又鉢の 「牡丹に錦鶏」 があります。花や鳥が漆や金箔、岩絵の具を駆使して絢爛豪華に表現されています。
桃山時代です。杉戸絵に描かれているのは鷹と老梅です。
波の伊八 「波に宝珠」 北斎名画の原風景 伊八の波
豪華絢爛 「幻の名工 高松又八の世界」
日本一「大葵紋」に毘沙門天紋様
(3)天台宗・長福寺 (ちょうふくじ) (いすみ市下布施)
大同2年(807)宗祖伝教大師自ら建立されたと伝えられる古刹。
源頼朝が平家追討の書状を当寺でしたため、その時当寺の差し出した硯が素晴らしかったので「硯山」の山号を頂戴したとも伝えられます。
“見所”
「欄間彫刻」、「筆掛の槙」、「薬師如来座像」、「端渓硯」、「欄間彫刻」 は波の浮き彫りで、中央に龍のすかし彫りをあしらった堅牢で色彩明瞭な作品。
欄間という定形の空間にとらわれない自由な装飾彫刻の特徴ある作品で、初代伊八の作品、正面と左右の三画があります。
伊八が師匠から独り立ちした(38歳 1789年)最初の作品です。
御朱印 「欄間彫刻」 正面と左右の三画
開山1200年記念建立の硯堂 「無量壽庵」 と 「端渓硯」
(4)浄土宗・称念寺 (しょうねんじ) (長生郡長南町千田)
開基は徳冶2年 (1307) 旅行真教上人。
欄間彫刻は 「龍三体の図欄間三間一面」。
右は紅、中央は青、右は白で彩色されています。伊八晩年の傑作とされています。
制作時期は江戸時代後期の文化年間頃とされ、長南町の町指定文化財に指定されています。
本堂への立ち入りは出来ません。本堂のガラス越しに拝観する事が出来ます。
(5)天台宗・笠森寺 「笠森観音」 (長生郡長南町笠森)
延暦3年(784)最澄上人が楠の霊木で十一面観音菩薩を刻み山上に安置し、開基されたと伝えられています。観音堂は長元元年(1028)後一条天皇の勅願により建立された。
明治41年 (1908) 国宝 に、その後、昭和25年 (1950) 国指定重要文化財となりました。建築様式は日本唯一の 「四方懸造」 でそれぞれの高さが違う61本の柱で支えられています。
笠森寺は 「板東三十三観音札所」 の三十一番札所として古来より巡礼の霊場となっています。
集合時は肌寒く 空、 に乗車後もコートを着たままにお天気を祈りながらのスタートでした。
海沿いを走る窓外には 「名工 ・ 波の伊八」 の作品に出会ったかのような荒波に歓声を上げ、 がようやく一台通れる程の田舎道に を進めながら、郷土の生んだ 「名工・波の伊八」 の
作品を訪ねる事が出来ました。
先日、総武線の中吊りで 「波の伊八。北斎の神奈川沖浪裏の原点がここにある。」のキャッチフレーズで房総を宣伝していました。
伊八の色刷りの版画がポスターの大部分を占めていてビックリ致しました。
ある住職さんが、おかげさまでこの山奥にも大型の観光 で大勢の皆さんが訪ねて下さり有り難い事とお話下さいました。
会長さんを初め、担当役員の皆様のご案内に有意義な旅が出来ましたことに心から感謝申し上げております。
役員の皆様有り難うございました。そしてお疲れ様でした。
最後に、この記事をご覧頂きました歴史倶楽部の皆様、訂正箇所などご指摘いただければ大変嬉しく存じます。
本日の旅を記念して詠む事ができました。
1. 鐘楼に花鳥風月彫られある飯縄寺(いづなでら)訪ぬ先師の跡を
2. 欄間なる天狗と牛若丸の厚彫りが時代を超えてその技語る
3. 伊八日本一と掲ぐる行元寺に浄財感謝のノミの音冴ゆ
4. 窓越しに見る重波(しきなみ)の躍動に名手伊八の彫刻かさなる
5. あと一歩と足引きずりて登り来ぬ地獄のぞきもこれが見納めか
平成15年1月、60の手習い いいえ60過ぎの手習いに目覚め、念願の書道を始めて5年目に入りました。
この間、半紙、筆、墨などは私なりに消費し、練習不足ながらも毎月の作品提出に心掛けて参りました。
そしてこの度、「ペン字が写真版ですよ。おめでとう」 のお言葉に 「先生本当ですか」
と信じられない気持ちに失礼を発してしまいました。
頂きました書道誌に名前を見つけ、ペン字 「5回目」 の 版掲載にとても有り難く静かに喜びを味わいました。
作品の中ではペン字が一番苦手です。しかし一番練習はします。
先ず、高野切の臨書をしてから書くように心掛けておりますが、普段の文字が悪筆ですのでなかなか納得する作品が出来ませんが、今回はかなり練習をした作品でした。
返却された 版の作品を子どもたちに見てもらいましたら、娘たちからは普段の悪筆に
「ママの文字ではないみたい」 と。
「でもいつも真面目に練習している様だから」 とも、練習成果に嬉しい批評もありました。
準師範の名に納得出来る練習を重ねて参りたく、私事に大げさに綴ってしまいました。
結社の短歌雑誌 「軽雪」 が届きました。
作品が何首掲載されているかは勿論ですが、先ず最初にページの後方に掲載される「前号作品評」 に目を移してしまいます。
我が名を見つけたときの感激は言葉になりません。
前号は、昨秋の 「千葉県戦没者追悼式」に於ける 「遺族代表追悼のことば」 に指名されました折の気持ちを詠みました。
七首掲載していただき、その中の一首
亡き父の励まし受けむと軍事郵便かたへに式の追悼の辞書く
「作品評」
戦後生まれの首相も出て戦争を知る世代は高齢となってしまった。
検閲をうけ日数をかけて届いた書簡。
大切に仕舞われているお守りに事ある時には励まされている。
切々たる親子の情。
と嬉しい 「作品評」 を頂きました。
又、今号には「初孫」に寄せる歌を九首載せていただき、他に 「旅」 の原稿依頼に「父への戦跡巡拝」 を掲載していただきました。
遺児による「フィリピン慰霊友好親善事業事業訪問団」に参加をし、レイテ湾に眠る父への慰霊、又、フィリピン全島で50万余名と言われる英霊に追悼の誠を捧げました
事等々を綴りました。
この原稿依頼は短歌を始めて日も浅い私にとりましてはとても勇気のいる経験でしたが「軽雪」 五〇周年の記念の年に掲載させていただきましたことは生涯忘れ得ぬ思い出
にとても有り難く思っております。
浅学の身、先生の叱咤激励のお言葉を大切に作品作りに努力をしております昨今です。
東京大空襲 語られなかった33枚の真実!
地獄の写真を撮影した石川光陽氏の闘い! の見出しのTVを見て、涙が溢れました。
戦争犠牲者に手を合わせながら撮影した命に代えても守った真実、そのフィルムは今尚、3人のお嬢様達によって大切に保存されておりますとの事。
又、その写真の一部が「東京都慰霊堂」に掲げられておりますことも伺い、2006年12月に尋ねましたおりに拝見致しました悲しい写真
当時は石川氏の人となりを存じませんでしたので今日のTVで初めて真実を知りました。
死者達の代弁者として写真で歴史を語って下さった石川氏は平成元年85歳でご逝去 合掌
2006年12月に撮影した「東京都慰霊堂」と「犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」
又、放送は悲しみを背負って生きてこられた生存者の証言、妹を火の熱さから助けようとしてかけた土で妹が破傷風になり、天涯孤独の人生を歩まれた方。
戦争が終わって63年、悲しみは続く・・・
B29のワッペンの付いた帽子をかぶった米元操縦士達の同窓会に 感想は ? 「戦争だから」の一言に言いしれぬ悲しみ、悔しさがこみ上げました。
戦争は絶対反対です。
身近な家庭、近隣との和を大切に本当の幸せを求めながら日々を歩んで参りたいものと痛感致しました。
この度のTVを見ました衝撃から次の歌を詠みました。
六十三年甕に隠して守られしフィルムは三月十日を証す
東京の惨状写す三十三枚一枚一枚問いかけ巡る
背負ひゐし黒こげの赤子はかたはらに落ちゐて母の背のみの白く
空襲に焼かれし人らの脂にて言問橋に黒じみ残る
慰霊堂に空襲伝ふる写真展予想を超ゆる惨状ばかり
B29のワッペン帽子に付けて元操縦士ら言ふ「戦争だったから」