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平成30年度 第3回 歴史倶楽部友の会 「千葉県船橋市旧名所めぐり ~ 新年会」

2019年01月26日 11時00分19秒 | 千葉実年歴史倶楽部(友の会・同好会を含む)

                 開催日 平成31年1月24日(木)
                   参加者 男性 19名 女性 14名 計33名

「事務局長様に船橋市の歴史・見学先の説明を頂きましたのでご紹介させて頂きます」
 歴史散策の仲間が集う“友の会”今年で10周年を迎えました。若さ溢れる男女各25名が年に3~4回集まり、小旅行と食事を楽しむ仲間達の旅の記録です。

 今年度の例会は10月JR市ヶ谷駅近くの防衛省を訪ね、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷となった大講堂などを移設・復元した「市ヶ谷記念館」や新宿区立歴史博物館を見学しました。

 1月は船橋市の歴史に浸ると共に、船橋市屈指の料亭“なべ三”での新年会でした。

 「船橋市の歴史紹介」

①船橋と云えば徳川家康の御成街道、御成街道は船橋から東金迄の約37キロの沿道の村97か村の農民を総動員し、三日三晩で造ったとい われています。
 街道沿いには、徳川家にまつわる社寺(船橋東照宮、金光院など)や屋敷跡(御茶屋御殿・東金御殿)が点在しています。

   今回は船橋大神宮・船橋東照宮にお参りしました。

②延亨3(1746)年津波で亡くなった人々などを供養する為“大仏追悼供養”がありました。
   市指定文化財です、昨年も各地で大災害が発生し多くの被災者が出ました。

③明治時代、明治天皇が近衛隊演習をご覧になるため明治6年から45年迄の10回に亘り行幸されました。
 本町通りには“明治天皇船橋行在所”の碑がありました。

④本町通りには木造二階建て瓦葺、切妻造の構造で現在も使用中の呉服店や老舗和菓子店が営業中。古い街並みが残っています。

⑤昭和10年“太宰治”が1年3ヶ月住んだ街でもあります。
 太宰治の旧居跡、文学碑、又旧居の庭に植えた夾竹桃を移植した場所などを見学しました。

 JR船橋駅に集合した33名、寒風吹き交ふなか、“太宰治の旧居跡”、近くの新海老川橋欄干に“太宰治のモニュメント”を見学。

「太宰 治」 明治42年(1909年)~昭和23年(1948年)
本名・津島修治 明治42年(1909年)、青森県北津軽郡金木村の大地主の家に生まれる。
『逆行』で第一回芥川賞候補になった後、沈滞した時期もあったが、昭和14年の石原美知子と結婚後、『富嶽百景』 『走れメロス』 『津 軽』 など秀作を次々と発表。 
昭和14年『満願』が国民新聞の短編小説コンクールに当選、昭和15年短編集『女生徒』が北村透谷文学賞の副賞に選ばれた。

戦時中も創作意欲は衰えることを知らなかったが、戦後 『ヴィヨンの妻斜 陽』 で流行作家となった。
典型的な自己破滅型の私小説作家であった。玉川上水で遺体が発見された6月19日を命日に桜桃忌が営まれる。  

「1年3カ月の船橋滞在」
盲腸炎をこじらせ腹膜炎を起こし、鎮痛剤パビナールによる中毒にもなってしまった太宰が、療養のために東京杉並から船橋へ転居したのは、昭和10年7月1日、26歳のときでした。
太宰はここで内縁の妻であった“初代(はつよ)”とともに、1年3カ月の時を過ごしました。
大地主の家に生まれながら、故郷の津軽を離れ、東京近辺で住まいを転々とし、短い一生を駆け抜けた太宰。
そんな彼が、自身の回想記『十五年間』(昭和21年)の中で、「最も愛着が深かった」と述べているまちが、船橋です。

九重橋 (通称太宰治橋)

     

              太宰治が住んでいた住宅の近くの橋                      通称太宰治橋の 「ここのえばし」の碑            

 
                             九重橋には走れメロスの本のレリーフ  があります
 

次の見学先“船橋大神宮”で新年の参拝、世界平和を祈りました。

「船橋大神宮」 

意富比神社 (おおひじんじゃ) は、式内社で、旧社格は県社。
船橋大神宮 (ふなばしだいじんぐう) の通称で親しまれており、「日本一小さい大神宮」 の異名もあります。
江戸時代に幕府から50石の朱印地をあたえられた船橋地方で最も古く格式のあるお宮です。
境内の 灯明台 は国内最大級の民間灯明台と言われ、千葉県指定有形民俗文化財 に指定されており、年末、酉の市で演じられる神楽は船橋市指定無形民俗文化財となっています。 

  
                                                    船橋大神宮参拝の皆様

 
                                                                                                                              八重の山茶花が咲いていました
“明治天皇船橋行在所”について(船橋市のHPより)

明治天皇の最初のご来県は、明治6年(1873)4月29日から5月1日までで、近衛兵の演習をご覧になるために大和田原へお出ましの時です。
この第1日目に昼食をとられたのが、当時船橋町九日市の旅館業桜屋、山口丈吉宅(現在の千葉銀行船橋支店の位置)です。
この後も山口宅をしばしばご利用になり、通算して宿泊10回、昼食5回、小休憩2回におよび、千葉県では最も多く立ち寄られた場所でした

 
            
千葉県指定史跡の碑                              明治天皇船橋行在所の説明板

市指定文化財(民俗文化財)  “大仏追善供養”について(船橋市HPより)

船橋浦は専猟場であったが、専猟場と入会の境については常に他村との争いが絶えなかった。
特に文政7年(1824)の船橋村と猫実村(浦安市)との係争中、一橋家の侍を船橋猟師が殴打したため猟師惣代3名が入牢し、うち2名が死亡に至った。
また、延享3年(1736)8月1日の津波によって溺死した漁夫ならびに猟師町住民多数の供養のため建立された石造釈迦如来座像である。
養式に大仏の肩から口にかけて白米の飯を盛り上げる程つけるのは牢内で食が乏しかったのを償うためのの口伝がある。

船橋浦にまつわる争いによる2名の猟師惣代の供養と津波による溺死者との供養が重なり、文政8年(1825)正月28日(明治以降2月28日)より毎年欠かさず行う行事として遺った。
昭和57年3月31日 船橋市教育委員会

  
                           海老川の「長寿の橋」(海老川橋)欄干には“船橋地名発祥の地”の碑がありました。
                         海老川には多くの橋が架かっています、そこには江戸時代・明治時代の歴史が刻まれていました。

最後の見学先は“太宰治文学碑”、昭和21年「十五年間」に記した、その文の石碑と自分で植えた夾竹桃”が移植されていました。 

 

太宰治旧居跡の碑                        
 

太宰は船橋の家に住み始めてほどなく、近所に住む人から“夾竹桃”をもらい、庭に植えたそうです。
故郷の津軽では珍しかった夾竹桃。後日、自宅を引き払うときも、この夾竹桃への愛着を口にし、涙したといいます。 

   
                      太宰治 『十五年間』 より                              太宰治の植えた夾竹桃と『十五年間』 より

寒さに震えながらの散策を終え、いよいよ“料亭・なべ三”で新年会です。

「船橋の料亭紹介」

船橋には、“割烹旅館玉川”(創業大正10年太宰治ゆかりの老舗旅館)、“三田浜楽園”(三田浜塩田跡には文豪・川端康成ゆかり旅館があります、のち廃業)及び“なべ三”(創業は昭和23年頃)
があります。今回は“なべ三”で懐石料理を堪能致しました。

                        新年会会場 “料亭・なべ三” のご紹介 https://www.kappou-nabesan.jp/

 
              新年会会場 “料亭・なべ三”                            “料亭・なべ三” の素敵な中庭

 
              美味しかった懐石料理                           お食事後に「ビンゴゲーム」を楽しみました

に恵まれました一日、午前中は船橋市の旧名所散策に新しく生まれ変わった街並みに目を見張り、また古の街並みにも思いをよせながら、楽しい散策に程よい疲れを感じた船橋市散策でした。
12時開催の新年会は、知る人ぞ知る素敵な“料亭・なべ三”に集い、お互いの健康に感謝しての再会、美味しい懐石料理に舌鼓を打ちながら楽しい語らいに時間を過ごし、ビンゴゲームでは「ビンゴ」と歓声を上げながら景品ゲット、地元特産「船橋三番瀬産・ホンビノス貝」でした。
帰路は“女子会”コーヒーブレークで楽しい一日でした。

今年1年、役員の皆様には素晴らしい企画のもと、いろいろとご配慮を頂き有意義な時間を過ごさせて頂きました。
役員の皆様に心より御礼を申し上げます。
有り難うございました

コメント (9)
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