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(40)石原町(旧片岡村)
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711年の「続(ショク)日本紀」に既に「片岡郡」と名が記されている様に
高崎で一番古い地名と云う事になっている。元は乗附・寺尾・石原の
3町だったのだが、昭和42年の和田橋開通を契機とする急速な
市街地化により50年に八千代・片岡・聖石、56年に城山の各町が誕生。
「石原」とは文字通り大水の度に荒れ果てる「石の原」という地形から。
字清水にある808年に坂上田村麻呂の開基と伝わる清水寺は本尊たる
千手観音菩薩像がある故に「観音山」の名の元になった。良く誤解されるが
白衣観音は昭和11年のもの、滋眼院は昭和15年の物なので、観音山の
名称の元ではない。
明治22年に片岡村の大字、昭和2年に高崎市の大字、26年町として
成立。この信号から左折して吉井街道で寺尾へ。
(41)寺尾町(旧片岡村)
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「寺尾」とは「寺の尾」、つまり「寺の下」の意味。その寺とは石原町の「清水寺」。
吉井への県道を突っ切って上信電鉄踏みきりの手前に標識。
記録的に「吾妻鏡」の1180年の項に「新田義重、寺尾城に拠ってーー」が
始めてで、後の南北朝末期に南朝の東国の頭領・尹良親王が立て篭もったが
1412年に上野守護・上杉憲定に敗れたと伝わる記録がある。
成立の経過は石原町に同じ。
「寺尾城」に付いては「上野誌」や「上野国誌」に「別名・茶臼山城」と書いて
あるので現地調査もしないでこの記事を流用する案内書・解説書は全て
間違いを犯している。失礼ながらこの本も同類。「山崎一」氏の城址図面を
手に現地を尋ねれば、寺尾中城と茶臼山城とは別物である事は明瞭。
茶臼山城は関越高速道路建設用で削られてしまった今の城山町にあつた
古代の先住民時代からの砦、夫々の時代の武将たちが遺構を繕いながら
砦として利用していた。従って何時、誰が築城したかは明確ではない。
お暇のある方は下記URLをどうぞ。
http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/31f1dc0a05b1555930586aba84350294
http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/00e820bf98cebce03a909ac7b9ef20f5
(42)根小屋町(旧多野郡八幡村)
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旧多野八幡村は根小屋・山名・木部・阿久津からなるが、その名は山名にある
山名八幡宮から来ているとの事。八幡の成立は明治22年でも「多野郡」は
古来からの「緑野」の「野」と「多胡」の「多」を合わせて明治29年に成立。
県下の「根小屋」は7ヶ所、何れも中世の山城の麓。つまり、根小屋とは
山城勤めの武士の生活集落。本松橋への三叉路の角に標識。
対象の山城は「根小屋城」で「高崎石碑の路」コース内に遺構が残り
一等三角点がある。記録に拠ると1570年に武田信玄が築城し、望月某が
城将とされるが、西毛の雄・長野氏の滅亡後でもあり一度も戦火を経験せずに
廃城となったと伝わる。但し、大いに眉唾と云われる「甲陽軍鑑」での話。
明治22年八幡村大字、昭和31年高崎市根小屋町。
(43)山名町(旧多野郡八幡村)
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上信電鉄山名駅前と山名八幡宮を過ぎた丁字路の信号にある。
山名の名は711年の「続日本紀」に片岡郡山名郷として出てくるとの事だが
これは吉井の多胡碑の碑文と一致するので当時の山名郷は吉井地区を
含む広大な地域だったらしい。
国指定特別史跡の「山ノ上の碑と古墳」「金井沢碑」は何れも山名町内。
726年とされる「金井沢碑」に対して「山ノ上の碑」は「我が国に年号が
無かった681年」とこの本に書いてあるが、これは誤解を招く不適切な
説明。
日本の年号は645年の「大化」から始まり6年、650年から「白雉(ハクチ)
で5年。所が654年に幸徳天皇の崩御で以後の34年間は年号休止、
686年に「朱鳥」が作られるが又もや天武天皇崩御でたった一年で
15年間の休止、漸く701年に対馬から金が献上されたのを期に
「大宝」として復活している。以後は休止なし。つまり、681年は
「未だ」年号が存在していなかったのではなく、あったが「休止」だったのだ。
勿論、この休止期間にも古代の板碑や古社寺縁起などに40を超える
年号が認められるが、正史に載らない年号は全て「私年号」とされ
認められていない。これを以って歴史学者の頑迷固陋と
言う人も居るが門外漢の爺イには何とも言いようが無い。
明治22年八幡村の大字、昭和31年高崎市の山名町。56年に一部が
城山町として分離。左折して倉賀野方面に。
(44)阿久津町(旧多野郡八幡村)
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木部町の信号の町名標識が見付らないのでパスして新幹線を潜って阿久津へ。
共栄橋を挟んで倉賀野の対岸、烏川の右岸。県内には似たような地名が
8箇所もあるが何れも治水の侭ならなかった時代は洪水被害が多かった。
逆に上流からの肥沃な土砂の堆積で次第に耕地が広がった低い平の地形。
公民館近くの玄頂寺には高崎最古といわれる1343年銘の五輪搭があり
市重文指定。町の成り立ちは山名町と同じ。
共栄橋を渡って倉賀野へ。
(45)倉賀野町
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橋を渡りきったところが旧中山道の「倉賀野・中町」、右折して「下町」手前を
左折し高崎線の線路を越えると17号線倉賀野バイパス、その角に町名標識。
文献上の倉賀野の名は吾妻鑑の1190年の項での倉賀野三郎であるが
地名から姓と考えれば地名はその遥かな以前の筈。この町は古墳の宝庫で
推定では400基を超えているらしいが、明治17年の高崎線工事で多くの
古墳の土砂が使われ今確認出来るのは200基ほどと云われる。
この地を含む「佐野」には古代に強大勢力の豪族が居た証拠。
倉賀野氏の子孫が築いた倉賀野城は戦国時代には波乱万丈であつたが
最後は北條に属したため1590年の小田原攻めで滅亡。
江戸時代は一転して中山道の宿駅、利根川遡行の終点の大河岸として
栄え、1646年以降は日光例弊使街道の分岐点となり、分岐には今も
大きな常夜燈がある。旧中山道を走ると「上町・中町・下町」の信号標識が
連なるが江戸期に分担して問屋場を受け持った町の名残だそうだ。
明治22年に町制、昭和38年に高崎市。北部の「宮原町」は翌年の分離。
17号線上り車線で進んで「新柳ヶ瀬橋北」信号で左折。
(46)岩鼻町(旧岩鼻村)
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「新柳ヶ瀬橋北」からの道が長瀞線13号線に突き当る角に町名標識。
烏川の断崖からの地形で岩鼻の名が付いたと想定され、文書的には
信玄時代の「岩鼻砦」が見られる。
江戸期には中山道が通り1793年には岩鼻代官所も設置されている。
代官所は近隣8郡58.000石の天領を管理し明治元年の「岩鼻県庁舎」。
戦時中の火薬製造所・跡地の原子力研究所・近代美術館・群馬の森・
歴史博物館など科学・文化の中心を担っている。昭和32年高崎市。
(47)綿貫町(旧岩鼻村)
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岩鼻信号を左折して右手に群馬の森を見ながら進んで354号線との
交叉点にこの標識。
文書的には足利尊氏時代の1353年に「上野国綿貫保」とあるのが最初。
「保」とは村の事。かつて「四月朔日」と書いて「わたぬき」と読んだ。旧暦の
四月一日は今の5月上旬なのでこの時期に「綿入れ」を脱いだからと地名
説明がされているが人の風習が何故この地の地名と関係するのか?
全く不明。倉賀野町と同様に古墳が多く「観音山古墳」は国指定史跡。
明治22年岩鼻村大字、昭和32年群南村大字、40年高崎市。
(48)八幡原町(旧滝川村)
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綿貫信号を右折して354号線を玉村方面に進んで関越高速の手前。
「滝川」の名は一瞬の間、前橋城主になった滝川一益からとの説もあるが
天狗岩堰の延長である村内の滝川の開鑿の延長に尽力した江原氏が
滝川の名を与えられたという功績を称えて附けられたとも伝わる。
天狗岩堰開鑿とは関ヶ原以後の総社城主・秋元氏が吉岡・大久保から
利根川の水を取り入れる為に堀削したもの。その延長の話。
玉村に接する高崎の東端の平地。町内にある若宮八幡宮からの町名。
県道から少し南の「円福寺」は頼朝創建と伝わる「円光寺」と廃寺の
「長福寺」の合体。
明治22年滝川村の大字、昭和31年群南村の大字、40年高崎市。
(49)下斉田町(旧滝川村)
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八幡原町信号と関越高速の間の細い町。玉村側に「斉田」があるので
かっては一つの集落だったかもしれない。斉田の名は玉村八幡の
「斉田(サイデン)」、つまり収穫米を神に供える「神饌田」との説があるが
この八幡宮は江戸期のもの、斉田の方が古いから多分違う。
平安中期の記録にこの一帯を「鞘田郷」としているものがあるとの事で
時期不明ながらこの鞘田からの転化の方が有力。但し戦国期には
既に「斉田」だったとの事。成立と経過は途中まで八幡原と同じだったが
高崎編入は一年遅れの昭和41年。
(50)上滝町(旧滝川村)
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再び、綿貫信号に戻って13号線を北上。常慶橋で井野川を渡って
前橋方面と分かれると上滝信号。すぐ先は利根川。
かつて利根川が今の広瀬川を流れていた頃、今の利根川近くには
小さな淵川、この川の滝の上流が上滝、下流が下滝。と言う事だが
現在の利根川のイメージが強いので余りピンとは来ない。
江原家の天狗岩堰の延長は1605年から5年掛かりの12キロ。
「代官堀」とも言われていたが江原家は苗字帯刀を許された上、
江原家一戸で一村を賜り「滝村」と称する事を許されたという。
(51)島野町(旧京ヶ島村)
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京ヶ島の名は明治22年に村ができた時、京目の「京」と島野・元島野・
矢島・西島村の「島」との合成。上滝から北上してインターのある町
島野町信号。
町名は平安中期の「和名抄」の「島名」という郷名からとったと言うが
理由が不明とは残念。南東―北西に長い町。
江戸期は前橋藩―高崎藩と変わったが明治22年京ヶ島大字、
昭和31年群南大字、41年高崎市。
この本に成り代わって「和名抄」に付いて蛇足。
「和名抄」とは平安中期938年に「源順」に依って編纂された言わば
現代で言うなら「辞書」のようもの。正式には「和名類聚抄ルイジュショウ」で
多岐に亘る項目の一つに「国郡部」があり古代律令制の行政区分となる
「国・郡・郷」の名前が網羅されているもの。
(52)元島名町(旧京ヶ島村)
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島野から京目信号に向かう途中にこの標識。
古代の島名郷は大類・京ガ島一帯の広域、「元島名」とは古代には
「島名」と言われていた地域の意味らしい。町内を流れる井野川左岸には
戦国時代の平城「元島名城」があるし、群馬での最古の古墳とされる
「将軍塚古墳」脇には崇神天皇の子孫・彦狭島王を祭った島名神社。
第四弾はここまで、残るは西部地区。
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711年の「続(ショク)日本紀」に既に「片岡郡」と名が記されている様に
高崎で一番古い地名と云う事になっている。元は乗附・寺尾・石原の
3町だったのだが、昭和42年の和田橋開通を契機とする急速な
市街地化により50年に八千代・片岡・聖石、56年に城山の各町が誕生。
「石原」とは文字通り大水の度に荒れ果てる「石の原」という地形から。
字清水にある808年に坂上田村麻呂の開基と伝わる清水寺は本尊たる
千手観音菩薩像がある故に「観音山」の名の元になった。良く誤解されるが
白衣観音は昭和11年のもの、滋眼院は昭和15年の物なので、観音山の
名称の元ではない。
明治22年に片岡村の大字、昭和2年に高崎市の大字、26年町として
成立。この信号から左折して吉井街道で寺尾へ。
(41)寺尾町(旧片岡村)
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「寺尾」とは「寺の尾」、つまり「寺の下」の意味。その寺とは石原町の「清水寺」。
吉井への県道を突っ切って上信電鉄踏みきりの手前に標識。
記録的に「吾妻鏡」の1180年の項に「新田義重、寺尾城に拠ってーー」が
始めてで、後の南北朝末期に南朝の東国の頭領・尹良親王が立て篭もったが
1412年に上野守護・上杉憲定に敗れたと伝わる記録がある。
成立の経過は石原町に同じ。
「寺尾城」に付いては「上野誌」や「上野国誌」に「別名・茶臼山城」と書いて
あるので現地調査もしないでこの記事を流用する案内書・解説書は全て
間違いを犯している。失礼ながらこの本も同類。「山崎一」氏の城址図面を
手に現地を尋ねれば、寺尾中城と茶臼山城とは別物である事は明瞭。
茶臼山城は関越高速道路建設用で削られてしまった今の城山町にあつた
古代の先住民時代からの砦、夫々の時代の武将たちが遺構を繕いながら
砦として利用していた。従って何時、誰が築城したかは明確ではない。
お暇のある方は下記URLをどうぞ。
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(42)根小屋町(旧多野郡八幡村)
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旧多野八幡村は根小屋・山名・木部・阿久津からなるが、その名は山名にある
山名八幡宮から来ているとの事。八幡の成立は明治22年でも「多野郡」は
古来からの「緑野」の「野」と「多胡」の「多」を合わせて明治29年に成立。
県下の「根小屋」は7ヶ所、何れも中世の山城の麓。つまり、根小屋とは
山城勤めの武士の生活集落。本松橋への三叉路の角に標識。
対象の山城は「根小屋城」で「高崎石碑の路」コース内に遺構が残り
一等三角点がある。記録に拠ると1570年に武田信玄が築城し、望月某が
城将とされるが、西毛の雄・長野氏の滅亡後でもあり一度も戦火を経験せずに
廃城となったと伝わる。但し、大いに眉唾と云われる「甲陽軍鑑」での話。
明治22年八幡村大字、昭和31年高崎市根小屋町。
(43)山名町(旧多野郡八幡村)
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上信電鉄山名駅前と山名八幡宮を過ぎた丁字路の信号にある。
山名の名は711年の「続日本紀」に片岡郡山名郷として出てくるとの事だが
これは吉井の多胡碑の碑文と一致するので当時の山名郷は吉井地区を
含む広大な地域だったらしい。
国指定特別史跡の「山ノ上の碑と古墳」「金井沢碑」は何れも山名町内。
726年とされる「金井沢碑」に対して「山ノ上の碑」は「我が国に年号が
無かった681年」とこの本に書いてあるが、これは誤解を招く不適切な
説明。
日本の年号は645年の「大化」から始まり6年、650年から「白雉(ハクチ)
で5年。所が654年に幸徳天皇の崩御で以後の34年間は年号休止、
686年に「朱鳥」が作られるが又もや天武天皇崩御でたった一年で
15年間の休止、漸く701年に対馬から金が献上されたのを期に
「大宝」として復活している。以後は休止なし。つまり、681年は
「未だ」年号が存在していなかったのではなく、あったが「休止」だったのだ。
勿論、この休止期間にも古代の板碑や古社寺縁起などに40を超える
年号が認められるが、正史に載らない年号は全て「私年号」とされ
認められていない。これを以って歴史学者の頑迷固陋と
言う人も居るが門外漢の爺イには何とも言いようが無い。
明治22年八幡村の大字、昭和31年高崎市の山名町。56年に一部が
城山町として分離。左折して倉賀野方面に。
(44)阿久津町(旧多野郡八幡村)
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木部町の信号の町名標識が見付らないのでパスして新幹線を潜って阿久津へ。
共栄橋を挟んで倉賀野の対岸、烏川の右岸。県内には似たような地名が
8箇所もあるが何れも治水の侭ならなかった時代は洪水被害が多かった。
逆に上流からの肥沃な土砂の堆積で次第に耕地が広がった低い平の地形。
公民館近くの玄頂寺には高崎最古といわれる1343年銘の五輪搭があり
市重文指定。町の成り立ちは山名町と同じ。
共栄橋を渡って倉賀野へ。
(45)倉賀野町
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橋を渡りきったところが旧中山道の「倉賀野・中町」、右折して「下町」手前を
左折し高崎線の線路を越えると17号線倉賀野バイパス、その角に町名標識。
文献上の倉賀野の名は吾妻鑑の1190年の項での倉賀野三郎であるが
地名から姓と考えれば地名はその遥かな以前の筈。この町は古墳の宝庫で
推定では400基を超えているらしいが、明治17年の高崎線工事で多くの
古墳の土砂が使われ今確認出来るのは200基ほどと云われる。
この地を含む「佐野」には古代に強大勢力の豪族が居た証拠。
倉賀野氏の子孫が築いた倉賀野城は戦国時代には波乱万丈であつたが
最後は北條に属したため1590年の小田原攻めで滅亡。
江戸時代は一転して中山道の宿駅、利根川遡行の終点の大河岸として
栄え、1646年以降は日光例弊使街道の分岐点となり、分岐には今も
大きな常夜燈がある。旧中山道を走ると「上町・中町・下町」の信号標識が
連なるが江戸期に分担して問屋場を受け持った町の名残だそうだ。
明治22年に町制、昭和38年に高崎市。北部の「宮原町」は翌年の分離。
17号線上り車線で進んで「新柳ヶ瀬橋北」信号で左折。
(46)岩鼻町(旧岩鼻村)
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「新柳ヶ瀬橋北」からの道が長瀞線13号線に突き当る角に町名標識。
烏川の断崖からの地形で岩鼻の名が付いたと想定され、文書的には
信玄時代の「岩鼻砦」が見られる。
江戸期には中山道が通り1793年には岩鼻代官所も設置されている。
代官所は近隣8郡58.000石の天領を管理し明治元年の「岩鼻県庁舎」。
戦時中の火薬製造所・跡地の原子力研究所・近代美術館・群馬の森・
歴史博物館など科学・文化の中心を担っている。昭和32年高崎市。
(47)綿貫町(旧岩鼻村)
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岩鼻信号を左折して右手に群馬の森を見ながら進んで354号線との
交叉点にこの標識。
文書的には足利尊氏時代の1353年に「上野国綿貫保」とあるのが最初。
「保」とは村の事。かつて「四月朔日」と書いて「わたぬき」と読んだ。旧暦の
四月一日は今の5月上旬なのでこの時期に「綿入れ」を脱いだからと地名
説明がされているが人の風習が何故この地の地名と関係するのか?
全く不明。倉賀野町と同様に古墳が多く「観音山古墳」は国指定史跡。
明治22年岩鼻村大字、昭和32年群南村大字、40年高崎市。
(48)八幡原町(旧滝川村)
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綿貫信号を右折して354号線を玉村方面に進んで関越高速の手前。
「滝川」の名は一瞬の間、前橋城主になった滝川一益からとの説もあるが
天狗岩堰の延長である村内の滝川の開鑿の延長に尽力した江原氏が
滝川の名を与えられたという功績を称えて附けられたとも伝わる。
天狗岩堰開鑿とは関ヶ原以後の総社城主・秋元氏が吉岡・大久保から
利根川の水を取り入れる為に堀削したもの。その延長の話。
玉村に接する高崎の東端の平地。町内にある若宮八幡宮からの町名。
県道から少し南の「円福寺」は頼朝創建と伝わる「円光寺」と廃寺の
「長福寺」の合体。
明治22年滝川村の大字、昭和31年群南村の大字、40年高崎市。
(49)下斉田町(旧滝川村)
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八幡原町信号と関越高速の間の細い町。玉村側に「斉田」があるので
かっては一つの集落だったかもしれない。斉田の名は玉村八幡の
「斉田(サイデン)」、つまり収穫米を神に供える「神饌田」との説があるが
この八幡宮は江戸期のもの、斉田の方が古いから多分違う。
平安中期の記録にこの一帯を「鞘田郷」としているものがあるとの事で
時期不明ながらこの鞘田からの転化の方が有力。但し戦国期には
既に「斉田」だったとの事。成立と経過は途中まで八幡原と同じだったが
高崎編入は一年遅れの昭和41年。
(50)上滝町(旧滝川村)
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再び、綿貫信号に戻って13号線を北上。常慶橋で井野川を渡って
前橋方面と分かれると上滝信号。すぐ先は利根川。
かつて利根川が今の広瀬川を流れていた頃、今の利根川近くには
小さな淵川、この川の滝の上流が上滝、下流が下滝。と言う事だが
現在の利根川のイメージが強いので余りピンとは来ない。
江原家の天狗岩堰の延長は1605年から5年掛かりの12キロ。
「代官堀」とも言われていたが江原家は苗字帯刀を許された上、
江原家一戸で一村を賜り「滝村」と称する事を許されたという。
(51)島野町(旧京ヶ島村)
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京ヶ島の名は明治22年に村ができた時、京目の「京」と島野・元島野・
矢島・西島村の「島」との合成。上滝から北上してインターのある町
島野町信号。
町名は平安中期の「和名抄」の「島名」という郷名からとったと言うが
理由が不明とは残念。南東―北西に長い町。
江戸期は前橋藩―高崎藩と変わったが明治22年京ヶ島大字、
昭和31年群南大字、41年高崎市。
この本に成り代わって「和名抄」に付いて蛇足。
「和名抄」とは平安中期938年に「源順」に依って編纂された言わば
現代で言うなら「辞書」のようもの。正式には「和名類聚抄ルイジュショウ」で
多岐に亘る項目の一つに「国郡部」があり古代律令制の行政区分となる
「国・郡・郷」の名前が網羅されているもの。
(52)元島名町(旧京ヶ島村)
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島野から京目信号に向かう途中にこの標識。
古代の島名郷は大類・京ガ島一帯の広域、「元島名」とは古代には
「島名」と言われていた地域の意味らしい。町内を流れる井野川左岸には
戦国時代の平城「元島名城」があるし、群馬での最古の古墳とされる
「将軍塚古墳」脇には崇神天皇の子孫・彦狭島王を祭った島名神社。
第四弾はここまで、残るは西部地区。
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