クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

上磯部の伝承(1) 大野九郎兵衛 H-18-9-15

2006-09-15 18:15:13 | 伝説・史跡探訪
昨日は雨でコンペが流れてがっくり。今日も分厚い黒雲が山々を覆っている。
仕方なく、例によって伝説の跡を訪ね歩く事にした。
今回は忠臣蔵で不義不忠者の代表になつて、三百年以上も叩かれ続けている
大野九郎兵衛の墓と称するものが上磯部にあると聞いて早速の探訪開始。
18号線を西進して「原市信号」を左折、中橋で碓氷川を渡って214
号線に出て右折。磯部小の少し先の「松岸寺」へ。ここの墓地の入り口に
「滋望遊謙居士」と刻まれた大きな石碑がある。これが九郎兵衛のもの
という話。

九郎兵衛は赤穂開城のあと、次席家老の職に在りながら逐電した事になって
いるが、これは大石の作戦で、大石たちが万一上野介を打ち損じた場合、
吉良の上州千石の所領(藤岡・白石、松井田・人見、安中・中野谷)に
逃げてくるのを予測して討ち取るべく待機したと言うもの。
待機中は「林遊謙」を名乗って寺子屋の師匠をつとめ、人望があり死後、
遺品の中から大石の密書が見つかり九郎兵衛であったとされたと言う。
この遊謙なる人物は神明神宮の掲額・灯篭や仮名手本が現存するから
実在であるが、遊謙が九郎兵衛であったかは誠に怪しい。
石碑に「宝延四年」とあるがこれは討ち入り後、五十年経っている。
討ち入り時老人であった彼がそれから半世紀も生きたとは考えにくい。
彼の墓はここより数㌔東の「普門寺」にもあると言うので早速、訪問。

墓地には何の標示も無いので全く分からず、住職に頼んで案内してもらう。
古いが刻字など全く読めないので何とも言いようが無い。住職も伝承は
知っていると言う程度。同席の檀家の人もうーんと唸るだけ。教育委員会の
関心からは大きく外れている代物だが、忘れ去られるのも少々残念。

ところが彼に纏わる伝説は未だある。甲府市にある「能成寺」は信玄所縁の
「甲府五山」として名高いが、何とここに九郎兵衛の墓がある。
(甲府・能成ノウジョウ護国禅寺HPより)

伝承によると、彼は一旦京都に潜むが、後に柳沢吉保を頼って甲府に来て
生涯を終えたと言うのである。
更に派手なのは山形県五色温泉の「坂谷峠」には立派な石碑があって
顕彰されているので吃驚仰天。(蓑上誠一氏の「峠と旅」より)

ここの伝説では、大石の策略で討ち入り失敗に備えて赤穂第二陣を率いて
ここに潜伏していたが、大願成就を聞いて翌年、一統ともどもこの地で
切腹し殉死したとのこと。
或る記録には墓所は京都・黒谷墓地(光明寺)にあると記載されているが
この寺は黒谷派総本山であり、幕末の京都守護職本陣の在った所で
余りにも著名人の墓地が多いためか、関連ページに九郎兵衛の墓のこと
又は写真は発見できなかった。

念の為、数多いテレビドラマでの彼の取り扱いについて手持のビデオで
検証して見た。
(1) 池宮彰一郎原作「最後の忠臣蔵」NHK
ここで九郎兵衛を演ずるのは「浜田晃」、淡路島に逃亡したが大石の配慮で
資金を貰い、大阪で両替商を営むが、主役の瀬尾孫左衛門・香川照之、
寺坂吉右衛門・上川隆也の熱演の蔭で目立たない。 
最後は大石の十七回忌の席で京都組から嘲笑されるなど良いところ無し。
当然、磯部の話も坂谷峠も甲府も出てこない。
(2) テレ朝・45周年記念時代劇他 脚本・吉田求
大石・松平健と意見の相違が甚だしく殉死血判の後、逐電の模様のみ大きく
扱われ完全に卑怯者扱い。配役も石田太郎という知らない人。
同じ脚本の使い回しを配役だけ替えて作ったテレビ東京のものでは配役・西田健
で悪役そのもの。
但し、最近は見直されて藩財政運営の手腕や塩田開発の功績などが評価され、
大石の篭城説に対して最初から開城説を唱えて対立したが、結果は九郎兵衛の
言う通りになったのである。しかし、大石の深謀を察する事ができなかった
堅物振りが破綻の元か、大石の武士の名誉の一人占めの犠牲者かであろう。
次ぎの訪問、佐々木盛綱伝説に向う。

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