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町名標識漁りもいよいよ最終段階の西部地区。信号機が少なく探し物は
中々見付らないし、片側一車線の道は駐車に苦労する。
やっと九つだけゲットして終了とした。
(53)浜川町(旧長野村)
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「長野」の地名は七世紀の古墳時代まで遡るのは定説だが、戦国時代この地に
あって善政を誇った豪族も当然長野氏を名乗る。だが、余りにも領民のための
政治理念から、他国を侵さずの方針は長野氏を戦国大名たらしめることなく、
結果として西上野は武田・上杉・北条の草刈り場となつてしまつた。
この信号機の標識は町の西南端、通称浜川四つ角にある。かっては大きな
赤提灯の店が目印になっていたが今は無い。地名の由来は諸説はあるものの
憶測の域を出ずハッキリしないらしいが、井野川上流から高浜・浜川・浜尻と
繋がっているので「浜」つながりの何かのものとしておこう。旧長野村の最大の
地域で昔から長野郷の中心。
北部の来迎寺には市指定史跡の五輪搭、長野氏歴代の廟所があるが
町内には長野氏関連の館跡・砦跡が小字にその名を残しつつ九箇所もある。
東部には広大な浜川運動公園もありその中の花菖蒲で名高い「御布呂ヶ池」の
「布呂」とは「布留」で石上・物部氏の氏神・石上神社の事であるが、信玄の
侵攻で灰燼に帰したとか。長野氏は物部氏の末裔とされている。
明治22年長野村大字、昭和30年高崎市。
(53)菊地町(旧長野村)
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「キクチ」かと思っていたら「キクヂ」が正しい読み方とは新発見。すると
この地の出身で高崎地区高校バレーボールの指導者として有名な
「菊地先生」は「キクヂ先生」だったのか? 時々ゴルフ場で出会うので
その辺を確認してみたいし、九州の菊地氏が中世にここに入植したという
伝承も。南北に細長いので東西の県道はあっという間に町を横断してしまうが
北部にある昔の村社・「抜鉾神社」は長野氏の氏神で武神、物部氏の関連とか。
高崎の昔話の中の「うなぎを食べない村」とあるのは、この神社の氏子の事で
天然痘の流行時に神様がうなぎを身代わりにして病気を治したとの伝説から。
(54)沖町(旧長野村)
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菊地から10号線を南進して町の大半を通り越して新波橋を過ぎた所の信号。
直ぐ目の前は烏川の「町屋橋」でその先は「町屋町」。
この地は古くから高崎からの草津街道と前橋から安中に抜ける板鼻街道との
交叉地点。「沖」の名は集落から見た烏川と白川の状態から昔からあった
そうであるが「状態」なるものの説明が良くわからない。
但し、江戸時代の村名は何と「西新波」、明治22年の長野村成立時も
「長野村大字西新波」で「沖町」になったのは昭和30年の高崎市編入時。
川沿いの桜並木と夏の花火大会が有名。「新波」は「シンパ」ではなく
「アラナミ」と読み、元は「荒波」で榛名白川の流れを表している。
(55)町屋町(旧碓氷郡八幡村)
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町屋橋で烏川を渡ると旧碓氷郡の町屋町。元は大島村の一部だったのが
家並が揃って「町屋」の様になつたから町屋村として独立したらしい。
旧八幡の名は957年に京都・岩清水八幡から分社したと伝わる八幡宮の
存在から。正式には「上野国一社八幡宮」で鎌倉幕府が国毎に一社選んで
「一社」の社格を与えたと言うから凄い由緒。
里見街道(現国道406号線)と室田街道(現県道29号線)に挟まれ、両者を
結ぶ位置で発展したらしい。現在は10号線がその役割を果している。
この標識の北方の「宝福寺」には1439年の銘文がある「町屋の宝塔」が
ある。市指定重文で「赤城搭」の類い。赤城搭とは上から3番目の搭身部分が
甕型というか、壷の様に丸みを持っているのが特徴で赤城山麓に多い事から
(特に粕川流域)その名が在ると言う。
(56)下大島町(旧碓氷郡八幡村)
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町屋から南進して406号線との交点にこの標識。大島との地名は北の
烏川、南の里見川に挟まれ、南北に狭く、東西に長い島状の地形から。
元は旧榛名町の上大島と一体の一つの大島地区であつたらしいが
開発・発展で江戸期に分離したらしい。明治22年八幡村大字、昭和30年
高崎市に編入。里見にかけてこの一帯は梨・桃の名産地。
(57)剣崎町(旧碓氷郡八幡村)
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下大島から東進すると南側が剣崎町で環状線近くまでの長い町、北側が
金井淵町。
「剣崎」とは細く長く伸びている台地の先端という地形からとされる。
東南部の信越線・環状線際は八幡工業団地が伸びてきており工場地帯。
西の西部小辺りは「長瀞西古墳」や「大島原遺跡」「剣崎長瀞西遺跡」。
町の成立は下大島と同じ。
(58)下小塙町(旧六郷村)
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:剣崎から環状線に出て北上、経大前通りとの交点にこの標識。古くは北側の
上小塙と一体の村。
記録では1567年に豊岡藩主・禰津氏に「小鼻」を与えるとの信玄書状とか
翌年に烏子神社へ土地を寄進した時の「信玄寄進状」に「小鼻和郷」とも。
「小」は勿論、狭いところ。塙は土地の高い所。ここは烏川の左岸で
川に向かって突き出たようなやや高いところが地名の元だろう。
二ノ宮神社近くの円性寺には市重文の地蔵菩薩像。
(59)上豊岡町(旧豊岡村)
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再び環状線を南下してその終点が国道18号線との交点でこの標識。
尤も、ここは上豊岡町の西南端。豊岡の地名は若宮八幡宮と頼義・義家
親子との逸話を持ち上げるためなのか、「土用寒」とか「十八日」などが
伝説として残されているが何れもお話の類い。
簡単な話が「農作物が良く実る岡」がその起源に過ぎないーーとしては
夢がなさ過ぎるかな? だが、説話は余り真剣に考えない方が良い。
今度は記録の話だが古代の和名抄の時代は長野郷というのは推定の
域を出ず、1030年が記録上の初デビューだが名の付いた時代は
古いと言うだけで不明。おまけに豊岡が碓氷郡に入つた時期も不明と
いう御粗末で「多分江戸時代」という事でお茶を濁されている。
常安寺開祖とされる禰津氏が封ぜられた豊岡藩はたつた二代で断絶
廃藩。1625年幕府領、1696年高崎藩領。この上豊岡は1676年に
独立、1677年には中・下豊岡分離。
国道沿いの藤塚との境界に「一里塚」、お江戸から28里だそうだ。
中山道の旧道を東進すると「上豊岡の茶屋本陣」がある。
明治22年、上・中・下三村は再び合併で豊岡村で夫々は大字、
高崎市編入は昭和30年。
(60)中豊岡(旧豊岡村)
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豊岡地内には旧中山道と最新の豊岡パイパスの間に戦時中に建設され
当時は「新道」と通称した、かっての国道、現在の県道26号線が他の二本と
ほぼ平行に走つている。その中間、若宮八幡入り口の小さな信号に
この標識。
此の辺の一帯は江戸期から昭和40年代まで高崎と言う市街地を控えた
近郊農業としての野菜供給基地として重要な位置を占め、高崎15連隊から
肥料用として運ぶ人糞の運搬作業は一種の風物詩でもあつた。
古くからの縁起ダルマ作りは現在も受け継がれている。
60ヶ町で切りが良いので本シリーズ終了。
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(53)浜川町(旧長野村)
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「長野」の地名は七世紀の古墳時代まで遡るのは定説だが、戦国時代この地に
あって善政を誇った豪族も当然長野氏を名乗る。だが、余りにも領民のための
政治理念から、他国を侵さずの方針は長野氏を戦国大名たらしめることなく、
結果として西上野は武田・上杉・北条の草刈り場となつてしまつた。
この信号機の標識は町の西南端、通称浜川四つ角にある。かっては大きな
赤提灯の店が目印になっていたが今は無い。地名の由来は諸説はあるものの
憶測の域を出ずハッキリしないらしいが、井野川上流から高浜・浜川・浜尻と
繋がっているので「浜」つながりの何かのものとしておこう。旧長野村の最大の
地域で昔から長野郷の中心。
北部の来迎寺には市指定史跡の五輪搭、長野氏歴代の廟所があるが
町内には長野氏関連の館跡・砦跡が小字にその名を残しつつ九箇所もある。
東部には広大な浜川運動公園もありその中の花菖蒲で名高い「御布呂ヶ池」の
「布呂」とは「布留」で石上・物部氏の氏神・石上神社の事であるが、信玄の
侵攻で灰燼に帰したとか。長野氏は物部氏の末裔とされている。
明治22年長野村大字、昭和30年高崎市。
(53)菊地町(旧長野村)
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「キクチ」かと思っていたら「キクヂ」が正しい読み方とは新発見。すると
この地の出身で高崎地区高校バレーボールの指導者として有名な
「菊地先生」は「キクヂ先生」だったのか? 時々ゴルフ場で出会うので
その辺を確認してみたいし、九州の菊地氏が中世にここに入植したという
伝承も。南北に細長いので東西の県道はあっという間に町を横断してしまうが
北部にある昔の村社・「抜鉾神社」は長野氏の氏神で武神、物部氏の関連とか。
高崎の昔話の中の「うなぎを食べない村」とあるのは、この神社の氏子の事で
天然痘の流行時に神様がうなぎを身代わりにして病気を治したとの伝説から。
(54)沖町(旧長野村)
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菊地から10号線を南進して町の大半を通り越して新波橋を過ぎた所の信号。
直ぐ目の前は烏川の「町屋橋」でその先は「町屋町」。
この地は古くから高崎からの草津街道と前橋から安中に抜ける板鼻街道との
交叉地点。「沖」の名は集落から見た烏川と白川の状態から昔からあった
そうであるが「状態」なるものの説明が良くわからない。
但し、江戸時代の村名は何と「西新波」、明治22年の長野村成立時も
「長野村大字西新波」で「沖町」になったのは昭和30年の高崎市編入時。
川沿いの桜並木と夏の花火大会が有名。「新波」は「シンパ」ではなく
「アラナミ」と読み、元は「荒波」で榛名白川の流れを表している。
(55)町屋町(旧碓氷郡八幡村)
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町屋橋で烏川を渡ると旧碓氷郡の町屋町。元は大島村の一部だったのが
家並が揃って「町屋」の様になつたから町屋村として独立したらしい。
旧八幡の名は957年に京都・岩清水八幡から分社したと伝わる八幡宮の
存在から。正式には「上野国一社八幡宮」で鎌倉幕府が国毎に一社選んで
「一社」の社格を与えたと言うから凄い由緒。
里見街道(現国道406号線)と室田街道(現県道29号線)に挟まれ、両者を
結ぶ位置で発展したらしい。現在は10号線がその役割を果している。
この標識の北方の「宝福寺」には1439年の銘文がある「町屋の宝塔」が
ある。市指定重文で「赤城搭」の類い。赤城搭とは上から3番目の搭身部分が
甕型というか、壷の様に丸みを持っているのが特徴で赤城山麓に多い事から
(特に粕川流域)その名が在ると言う。
(56)下大島町(旧碓氷郡八幡村)
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町屋から南進して406号線との交点にこの標識。大島との地名は北の
烏川、南の里見川に挟まれ、南北に狭く、東西に長い島状の地形から。
元は旧榛名町の上大島と一体の一つの大島地区であつたらしいが
開発・発展で江戸期に分離したらしい。明治22年八幡村大字、昭和30年
高崎市に編入。里見にかけてこの一帯は梨・桃の名産地。
(57)剣崎町(旧碓氷郡八幡村)
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下大島から東進すると南側が剣崎町で環状線近くまでの長い町、北側が
金井淵町。
「剣崎」とは細く長く伸びている台地の先端という地形からとされる。
東南部の信越線・環状線際は八幡工業団地が伸びてきており工場地帯。
西の西部小辺りは「長瀞西古墳」や「大島原遺跡」「剣崎長瀞西遺跡」。
町の成立は下大島と同じ。
(58)下小塙町(旧六郷村)
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:剣崎から環状線に出て北上、経大前通りとの交点にこの標識。古くは北側の
上小塙と一体の村。
記録では1567年に豊岡藩主・禰津氏に「小鼻」を与えるとの信玄書状とか
翌年に烏子神社へ土地を寄進した時の「信玄寄進状」に「小鼻和郷」とも。
「小」は勿論、狭いところ。塙は土地の高い所。ここは烏川の左岸で
川に向かって突き出たようなやや高いところが地名の元だろう。
二ノ宮神社近くの円性寺には市重文の地蔵菩薩像。
(59)上豊岡町(旧豊岡村)
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再び環状線を南下してその終点が国道18号線との交点でこの標識。
尤も、ここは上豊岡町の西南端。豊岡の地名は若宮八幡宮と頼義・義家
親子との逸話を持ち上げるためなのか、「土用寒」とか「十八日」などが
伝説として残されているが何れもお話の類い。
簡単な話が「農作物が良く実る岡」がその起源に過ぎないーーとしては
夢がなさ過ぎるかな? だが、説話は余り真剣に考えない方が良い。
今度は記録の話だが古代の和名抄の時代は長野郷というのは推定の
域を出ず、1030年が記録上の初デビューだが名の付いた時代は
古いと言うだけで不明。おまけに豊岡が碓氷郡に入つた時期も不明と
いう御粗末で「多分江戸時代」という事でお茶を濁されている。
常安寺開祖とされる禰津氏が封ぜられた豊岡藩はたつた二代で断絶
廃藩。1625年幕府領、1696年高崎藩領。この上豊岡は1676年に
独立、1677年には中・下豊岡分離。
国道沿いの藤塚との境界に「一里塚」、お江戸から28里だそうだ。
中山道の旧道を東進すると「上豊岡の茶屋本陣」がある。
明治22年、上・中・下三村は再び合併で豊岡村で夫々は大字、
高崎市編入は昭和30年。
(60)中豊岡(旧豊岡村)
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豊岡地内には旧中山道と最新の豊岡パイパスの間に戦時中に建設され
当時は「新道」と通称した、かっての国道、現在の県道26号線が他の二本と
ほぼ平行に走つている。その中間、若宮八幡入り口の小さな信号に
この標識。
此の辺の一帯は江戸期から昭和40年代まで高崎と言う市街地を控えた
近郊農業としての野菜供給基地として重要な位置を占め、高崎15連隊から
肥料用として運ぶ人糞の運搬作業は一種の風物詩でもあつた。
古くからの縁起ダルマ作りは現在も受け継がれている。
60ヶ町で切りが良いので本シリーズ終了。
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