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北風も収まった1/14、観音山丘陵に連なる四つの三角点探訪に出かけた。
切っ掛けは京都在住の上西勝也氏から「観音山に鉱東と刻字された珍しい
石柱が在る」とのメールが来たから。かつて東京鉱山監督局が鉱区の測量用に
設置したらしいとの事だった。確かにこの丘陵一帯は八幡までを含めて
1960年代まで石炭・亜炭の鉱山が稼動していたのだ。早速、監督局に
問い合わせると現在の所管「関東経済産業局資源エネルギー環境部鉱業課」から
直ぐに回答が来た。それによると
「現地にはかつて亜炭の鉱業権が複数存在し、鉱業権の区域を確認するため
監督局が多数の石柱を設置した。但し、現在は其の所在を示す書類は廃棄されて
居るので設置場所を示せない」と。早い割りにはつれない返事。
と言う事で、其の探索と言うわけ。だが、広大な観音山丘陵を闇雲に歩いても
多分、見付らない、観音山のものが三角点傍と言うなら三角点を探した
方が早いと爺イは考えたのだ。
市内から今週末には立体交叉になる和田橋を渡って護国神社脇を抜けて西から
観音山へ。この観音山、白衣観音や洞窟観音があるから観音山と言うんじゃ
ないですよ。808年の創建と伝わる清水(きよみず)観音(寺)があるからです。
平城天皇の時代、坂上田村麿が永年の東夷討伐による戦没者を供養する為
京都東山の清水寺から勧請し開基したもの。
因みに白衣観音は市内の実業家・井上保三郎氏によつて1936年に建設、
高さ41㍍のコンクリート製。一方の洞窟観音は同じく市内の山田徳蔵氏が
1927年から37年をかけて建設した全長400㍍の洞窟で、巨岩銘石を配した
洞内には名工による39体の御影石観音像他がある。
参拝客が多くて路傍駐車場所探しに苦労、やっと「野鳥の森」付近に駐車。
この野鳥の森の場所はかつて県林業試験場、榛東へ移転した跡に造られた。
反対側の小高い丘に「桜松苑」、そこの立像脇に三角点と問題の石柱発見。
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三角点は點名も観音山
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石柱は頂部に小型の十字
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側面にはっきりと「鑛東」と刻字されている。昔の漢字は重みがあるな。
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観音山に別れを告げて次は乗附城址近くの三角点・乗附探し。
消防署南信号を左折して49号線へ左折、ずっと走って右の関東動物霊園入り口の
看板で左折して登り道、ゴルフ練習場近くの大平団地で左の料亭・静香への細道、
但し、工事中で全面通行止めなので適当に路傍駐車。城址が見える。
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此の辺、正確には
「おおひら」ではなく「おおびら」、大体が「たいら」とは縁のない山の斜面、
アイヌ語系の言葉で「おおびら」は「奥にある崖」で「大平」は当て字。
但し、此の先の「大平台地」は関係の無い固有名詞だから「おおひらだいち」は
間違いではない。
本音を言えば由来の判らない地名があると直ぐにアイヌ語と片付ける安易な
風潮には賛成できない爺イだが。
城址近くで草叢の道に入る。こんな感じ。
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城址を右に見て通り越し、数百㍍で明治35年の「東宮殿下お手植えの松」
の石碑、
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しかし近くに松ノ木もなく、囲みの御影石の柱の大部分は倒壊、横の石碑の
文字はすっかり消えている。
昭和天皇は明治34年の誕生だから、この東宮殿下とは大正天皇のことだろう。
「東宮」とは皇太子の尊称であるが、其の昔、聖徳太子の居所が皇居の東に
あったことから「令集解リョウノシュウゲ」に「東宮、太子之所居也」と
書かれ、皇太子の宮殿の意味から転じたとか。
更に進むと高崎市の水道施設のフェンス、ナビはここだと言っているので
付近を長時間捜すも三角点は見付らない。仕方なく右の深い笹薮の中を
這いずり廻ると石柱発見、三角点ではなく「鉱東」石柱だ。
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尚も付近を丹念に探したが三角点は駄目。ナビのセットが間違いかも
しれない。発見したのは藪の中のこの石宮だけ。
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諦めて次に向かうが折角だから掘や腰曲輪らしき段差があり枯れた葛に
覆われた城址に這い上がるも藪だけで何の表示もなくでがっかり。
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寺尾上城と言われるこの乗附城祉は南北朝時代の正平四年1349年の築城。
寺尾中城に尹良親王が来た時より五十年も前の時期であるが、その10年前
には尊氏の足利幕府は成立しており南北朝時代の真っ只中。直義と師直の仲
に亀裂が入った年でもあるし、関東管領になって勢力を増した足利基氏が
鎌倉公方と称した時でもある。戦国時代にも使われていたらしく
上野志に「永禄十一年(1568)、信玄は山名、鷹ノ巣の間に新城を築き
信州の士・望月甚八郎、仁科信盛を入れて守らせたーー」信玄は箕輪城を
西毛攻略の拠点、石倉城で謙信に備え、根小屋城を北條氏康への見張城、
乗附城を箕輪の長野氏への見張り台にしたのではないかな。
(陰の声)・最近は尹良親王の事蹟はもとより存在にさえ疑問符がついている。
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車に戻って次の目標の三角点・中原探し、約1㌔進んで坂の頂点。
かつては此の辺が高崎市最高地点と言われたが合併多数で其の名は消滅。
アレッ、予定の場所は施設建設の大工事で山が削られわからない。

かって縄文中期の遺跡が発掘されたところ。
それでも工事中の敷地の中から残った高台に上って探すが全く歯が立たない。
残りの山は藪で突破不能。そう言えばこの三角点は国土院の資料では
「現況不明」だった事を思い出して諦め、1.5k先の三角点・三叉路塚へ。
右手に「鼻高展望花の丘」への道がある三叉路付近を捜索、民家の畑の中
の墓地脇の丘に三角点を発見するが石柱はなし。ナビの位置から46mも
離れていた。
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さて帰途につくが、さっきの中原三角点が諦められず、近くの高崎西霊園への
道から廻りこんで藪に突入、さんざん探しまわるも発見できず、消化不良の侭
途中で山の写真を撮って憂さ晴らししてから帰宅。
妙義方面
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雪の浅間山
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榛名方面
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赤城方面。
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(蛇足・観音丘陵の石炭・亜炭採掘)
片岡郡誌によると、石炭・亜炭の発見は「飯塚久敏言、石ずみ(石炭の事)乗附山に
あり。文化年中野火を経て是を焼く数日也」とあるように1804-1817年の文化
年間の野火によって「燃える石」か発見されたことになっている。飯塚氏は
1865年の歿なので年代的に自ら確認したのではなく伝承を伝えたのだろう。
其の後の記録としては倉賀野の素封家で発見された1855年の古文書に
「御領分乗附山より出候石炭―――」とあるが実用化はされずに
1875年の田島元七氏に始まり、「舘」の佐藤有済氏、「寺尾」の野中源四郎氏
などが発掘を開始し新町の国有紡績所や冨岡製糸に納入されたらしい。
フランス人ブリューナ―ルの指導した冨岡製糸は当初、欧州からの石炭を
燃料としたが輸送手段の未熟な時代で横浜に陸揚げ後は人肩馬背で30里の
道を運んだ。結果として「石炭を焚きてはいかに製糸の注文多くも利益を
見込むは蓋し非常の難事」の事態となり、鉄道のないこの時代、九州炭も
常磐炭も手に入らず高崎から調達したらしい。だが「褐色の下等なもの、欧州の
ものとその良否を語るべからざるもの。なれど経済から背に腹は
変えられず」との存在だった。戦中から戦後にかけて一般市民ももうもうたる
煙に悩まされながらこの亜炭を燃料の一助にしたが、石油製品等への動力源の
切り替わりで地場産業も1965年以降に幕を下ろした。
(註
この「鑛東」と読める表示は、「鑛」という旧漢字を使っている
時代背景から考えると漢字横書きは右からの読みが正しいと
推定されるし、当時の所管が「東京鑛山監督局」であつた事などを
考え合わせると表現としては「鑛東」ではなく「東鑛」が正解らしい。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
切っ掛けは京都在住の上西勝也氏から「観音山に鉱東と刻字された珍しい
石柱が在る」とのメールが来たから。かつて東京鉱山監督局が鉱区の測量用に
設置したらしいとの事だった。確かにこの丘陵一帯は八幡までを含めて
1960年代まで石炭・亜炭の鉱山が稼動していたのだ。早速、監督局に
問い合わせると現在の所管「関東経済産業局資源エネルギー環境部鉱業課」から
直ぐに回答が来た。それによると
「現地にはかつて亜炭の鉱業権が複数存在し、鉱業権の区域を確認するため
監督局が多数の石柱を設置した。但し、現在は其の所在を示す書類は廃棄されて
居るので設置場所を示せない」と。早い割りにはつれない返事。
と言う事で、其の探索と言うわけ。だが、広大な観音山丘陵を闇雲に歩いても
多分、見付らない、観音山のものが三角点傍と言うなら三角点を探した
方が早いと爺イは考えたのだ。
市内から今週末には立体交叉になる和田橋を渡って護国神社脇を抜けて西から
観音山へ。この観音山、白衣観音や洞窟観音があるから観音山と言うんじゃ
ないですよ。808年の創建と伝わる清水(きよみず)観音(寺)があるからです。
平城天皇の時代、坂上田村麿が永年の東夷討伐による戦没者を供養する為
京都東山の清水寺から勧請し開基したもの。
因みに白衣観音は市内の実業家・井上保三郎氏によつて1936年に建設、
高さ41㍍のコンクリート製。一方の洞窟観音は同じく市内の山田徳蔵氏が
1927年から37年をかけて建設した全長400㍍の洞窟で、巨岩銘石を配した
洞内には名工による39体の御影石観音像他がある。
参拝客が多くて路傍駐車場所探しに苦労、やっと「野鳥の森」付近に駐車。
この野鳥の森の場所はかつて県林業試験場、榛東へ移転した跡に造られた。
反対側の小高い丘に「桜松苑」、そこの立像脇に三角点と問題の石柱発見。
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三角点は點名も観音山
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石柱は頂部に小型の十字
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側面にはっきりと「鑛東」と刻字されている。昔の漢字は重みがあるな。
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観音山に別れを告げて次は乗附城址近くの三角点・乗附探し。
消防署南信号を左折して49号線へ左折、ずっと走って右の関東動物霊園入り口の
看板で左折して登り道、ゴルフ練習場近くの大平団地で左の料亭・静香への細道、
但し、工事中で全面通行止めなので適当に路傍駐車。城址が見える。
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此の辺、正確には
「おおひら」ではなく「おおびら」、大体が「たいら」とは縁のない山の斜面、
アイヌ語系の言葉で「おおびら」は「奥にある崖」で「大平」は当て字。
但し、此の先の「大平台地」は関係の無い固有名詞だから「おおひらだいち」は
間違いではない。
本音を言えば由来の判らない地名があると直ぐにアイヌ語と片付ける安易な
風潮には賛成できない爺イだが。
城址近くで草叢の道に入る。こんな感じ。
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城址を右に見て通り越し、数百㍍で明治35年の「東宮殿下お手植えの松」
の石碑、
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しかし近くに松ノ木もなく、囲みの御影石の柱の大部分は倒壊、横の石碑の
文字はすっかり消えている。
昭和天皇は明治34年の誕生だから、この東宮殿下とは大正天皇のことだろう。
「東宮」とは皇太子の尊称であるが、其の昔、聖徳太子の居所が皇居の東に
あったことから「令集解リョウノシュウゲ」に「東宮、太子之所居也」と
書かれ、皇太子の宮殿の意味から転じたとか。
更に進むと高崎市の水道施設のフェンス、ナビはここだと言っているので
付近を長時間捜すも三角点は見付らない。仕方なく右の深い笹薮の中を
這いずり廻ると石柱発見、三角点ではなく「鉱東」石柱だ。
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尚も付近を丹念に探したが三角点は駄目。ナビのセットが間違いかも
しれない。発見したのは藪の中のこの石宮だけ。
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諦めて次に向かうが折角だから掘や腰曲輪らしき段差があり枯れた葛に
覆われた城址に這い上がるも藪だけで何の表示もなくでがっかり。
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寺尾上城と言われるこの乗附城祉は南北朝時代の正平四年1349年の築城。
寺尾中城に尹良親王が来た時より五十年も前の時期であるが、その10年前
には尊氏の足利幕府は成立しており南北朝時代の真っ只中。直義と師直の仲
に亀裂が入った年でもあるし、関東管領になって勢力を増した足利基氏が
鎌倉公方と称した時でもある。戦国時代にも使われていたらしく
上野志に「永禄十一年(1568)、信玄は山名、鷹ノ巣の間に新城を築き
信州の士・望月甚八郎、仁科信盛を入れて守らせたーー」信玄は箕輪城を
西毛攻略の拠点、石倉城で謙信に備え、根小屋城を北條氏康への見張城、
乗附城を箕輪の長野氏への見張り台にしたのではないかな。
(陰の声)・最近は尹良親王の事蹟はもとより存在にさえ疑問符がついている。
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車に戻って次の目標の三角点・中原探し、約1㌔進んで坂の頂点。
かつては此の辺が高崎市最高地点と言われたが合併多数で其の名は消滅。
アレッ、予定の場所は施設建設の大工事で山が削られわからない。
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かって縄文中期の遺跡が発掘されたところ。
それでも工事中の敷地の中から残った高台に上って探すが全く歯が立たない。
残りの山は藪で突破不能。そう言えばこの三角点は国土院の資料では
「現況不明」だった事を思い出して諦め、1.5k先の三角点・三叉路塚へ。
右手に「鼻高展望花の丘」への道がある三叉路付近を捜索、民家の畑の中
の墓地脇の丘に三角点を発見するが石柱はなし。ナビの位置から46mも
離れていた。
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さて帰途につくが、さっきの中原三角点が諦められず、近くの高崎西霊園への
道から廻りこんで藪に突入、さんざん探しまわるも発見できず、消化不良の侭
途中で山の写真を撮って憂さ晴らししてから帰宅。
妙義方面
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雪の浅間山
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榛名方面
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赤城方面。
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(蛇足・観音丘陵の石炭・亜炭採掘)
片岡郡誌によると、石炭・亜炭の発見は「飯塚久敏言、石ずみ(石炭の事)乗附山に
あり。文化年中野火を経て是を焼く数日也」とあるように1804-1817年の文化
年間の野火によって「燃える石」か発見されたことになっている。飯塚氏は
1865年の歿なので年代的に自ら確認したのではなく伝承を伝えたのだろう。
其の後の記録としては倉賀野の素封家で発見された1855年の古文書に
「御領分乗附山より出候石炭―――」とあるが実用化はされずに
1875年の田島元七氏に始まり、「舘」の佐藤有済氏、「寺尾」の野中源四郎氏
などが発掘を開始し新町の国有紡績所や冨岡製糸に納入されたらしい。
フランス人ブリューナ―ルの指導した冨岡製糸は当初、欧州からの石炭を
燃料としたが輸送手段の未熟な時代で横浜に陸揚げ後は人肩馬背で30里の
道を運んだ。結果として「石炭を焚きてはいかに製糸の注文多くも利益を
見込むは蓋し非常の難事」の事態となり、鉄道のないこの時代、九州炭も
常磐炭も手に入らず高崎から調達したらしい。だが「褐色の下等なもの、欧州の
ものとその良否を語るべからざるもの。なれど経済から背に腹は
変えられず」との存在だった。戦中から戦後にかけて一般市民ももうもうたる
煙に悩まされながらこの亜炭を燃料の一助にしたが、石油製品等への動力源の
切り替わりで地場産業も1965年以降に幕を下ろした。
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この「鑛東」と読める表示は、「鑛」という旧漢字を使っている
時代背景から考えると漢字横書きは右からの読みが正しいと
推定されるし、当時の所管が「東京鑛山監督局」であつた事などを
考え合わせると表現としては「鑛東」ではなく「東鑛」が正解らしい。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
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知らなかったぁ~w
早速 秋田生まれの私が 地元群馬の方へ「観音山は 観音様がいるから 観音山って名前なのでは無いんだよ!」 と 豆知識を披露(笑) もちろん 爺ィさんのパクリです(爆)
さて 本日は 仏体山北の 名知良久山へ 北から トライしてみますw どうなることやら・・・w
南の宗幅寺から仏体山で限界なのに
そこから一時間以上掛かると300山にも書いてあるので。
北からとは尻高の方から?
あとで参考にさせてもらいます。
名知良久だと思って山頂につあちのですが
岩平山と 名刺版の標識・・・。
921mは 名知良久ではないのかなぁ・・・。
今、中之条資料館に問い合わせたら山には詳しくないとの
前置きながら中之条の人は東の山は仏体山とナジラク山と
言っているそうです。十年ほど前に出版された
「中之条の地名」なる本でお調べ下さいとの事。
小型標識は多分G氏といわれる北毛の登山のベテラン氏
と思われます。かっては白塗りブリキ板に達筆で墨書された
標識を付けていましたが、最近は小型のものに変更し
必ず青いビニール紐をつけてあるのが特徴です。
横田氏の300山に載っている山を全て踏破しつつあるとの
噂もあります。爺イも先日、甘楽の摩利支天山に行った時
その小型標識で天引山と書かれていて吃驚したものです。
こちらもたった今、三角点捜索から帰ったばかりなので
明日にでも図書館で調べましょう。
雪はどんな具合?ご無事のご帰還を!
雪は 尾根に軽く残っている程度でした。
ただ・・・。尾根沿いは 風が冷たくて・・・。
とりあえず ミクシィのほうへ 今回の歩いたコースを載せてあります。
標識には青いビニール紐はありませんでしたが、道中 あちこちに 青いビニール紐を確認できましたw
それと鬼村低山会のバッチを2個、確かに受領しました。
有難うございました。
写真をミクシイに載せます。