クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

相満山の由来を尋ねて(2) H-18-7-6

2006-07-06 17:31:23 | 伝説・史跡探訪
先日、「相満伝説」を訪ね歩いた後、調べてみると未だ細かい伝説が
残っている事に気付いた。大体、千葉(平)常将は確かに実在の人物
だし長和年間(1012-1016)に船尾山堂宇が焼き討ちにあった
のも史実であり、ここから無数の伝説がばら撒かれたのであろう。
889年の「将門の乱」で見られるように高望王から発した桓武平氏
の子供達は関東に広くばら撒かれた。後に頼朝の元に馳せ参じてご家人
となった畠山・北條・三浦・和田・千葉は全て平氏でその末裔達である。
皮肉な事に坂東八平氏たちが源氏と組んで伊勢平氏を滅ぼしたのが源平
合戦。常将は「平忠常の乱(1028-31)」で名高い忠常の息子、
初めて千葉を名乗ったとされ、高望王から数えて五代目の正統派である。
忠常の乱の後、父親は梟首されたが常将は許されたとの記録もあるので
1010年代と想定される伝説の自決は一体どうなるの? 閑話休題。
(1) 宮昌寺の薬師如来
26号線で渋川方面に進み「八ノ海道」信号を右折して約1㌔の変則5叉路
を左折すると正面に大きな新しい山門が見える。

寺の由来には「水沢船尾山中の寺院の一宇であつたが焼失後、再建された
とある。宮昌寺と改称したのは1631年」。船尾の堂宇が焼け落ちた時、
「モエクジ(木の燃え滓)が寺の前の池に落ちてきたので其れを薬師様
として祭ったという。池は山門の右手前、その脇に薬師堂。

(2) 八乃海道・念仏池
宮昌寺からやや西北に戻った「南小学校」と「南幼稚園」の間の細い道に
ある。一見、田圃の一部の様に見える小さな池。

船尾堂宇の焼失の時、阿弥陀如来が飛んできてこの池に落ちたと言うのが
その謂れ。看板はあるが其れは幼稚園が設置した生き物愛護のもの。

(3) 柳沢寺の弁財天
広域農道に出て、自衛隊前を通過して次の「南野」信号を右折して柳沢寺へ。
船尾山での息子・相満の失踪、夫・常将の自決を知った常将夫人は、寺を建て
供養した後、供の者たちと共に自害。土地の人が弁財天として祭ったという。
柳沢寺の左手奥の柳沢貯水池の近くにそれはある。

(4) 五万騎橋
この辺り、千年前の騒乱がらみの地名がある。常将が軍を整えたのが吉岡町の
「陣場」、第一回攻撃が失敗して一時後退したのが群馬町「引間」、そして
大軍勢を通過したという「五万騎」なる橋がある。柳沢寺から広域農道に
戻る途中である。新道路の建設でこの橋は不用になり、現在は某建設会社
の敷地内で半ば朽ち果て様としている。須賀尾の「万騎峠」のような物か?

(5) 自害沢
常将が自決したのが「ジゲエサワ」と言われているが、現在もある「自害沢川」
の上流の沢の筈と睨んだ。この川は吉岡・榛東を出入りしながら流れるが、
沢の奥は、船尾瀧駐車場からハルナグラス脇に通ずる「林道・湯入り線」の
中間と想定されたので水沢・群馬線で船尾瀧駐車場へ。ゲートを跨いで
歩き始めたら、保安関係の車が二台下ってきて、小石の崩落が激しいので
歩行通行は禁止と言われてしまう。ガックリで引き下がったが、おまけに
林道途中には伝説の沢の標識は無いとのこと。
仕方なく榛東・吉岡境界付近で自害沢川を少し辿ったが中々深く護岸されて
いる川で、見つけた標識だけ撮影して今日のところは終了。


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