クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

相満山の由来を尋ねて(1) H-18-7-4

2006-07-06 17:33:18 | 伝説・史跡探訪
昨日は中之条・市城の「宗福寺」にお邪魔して5月末以来の紛失カメラ
探しに終止符を打つことを伝え、ご協力に感謝しつつ掲示物の撤去を
してきた。後日、CDに落とす積りだった62Mに及ぶ貴重な写真は
戻ってこないが致し方ないと諦め。但し相当数は変形してプログに
アップロードしてあるので時間を掛ければCDに再現は可能。
その中之条への往復途中の榛名東麓で凄まじい局地的豪雨に遭遇して
難渋したので、今日の予報で「午後俄か雨」を聞いてあっさり山行き
断念、伝説調べに切り換え。
今日のお題は、相馬山の別名「相満山」の由来の地を訪ね歩く。
相馬の別名が「黒髪山」である事は相馬表口の石碑にもあるし、黒髪神社
が山頂にある事でも良く知られているが同時に、相馬に登るとき、鳥居の
幾つかの掲額が「相満山」とあるのに気づいている方も多いはず。
「相満」とは勿論、千葉常将の息子。常将は11世紀の初頭、天狗に
攫われた息子を船尾山大寺院の仕業と誤解して宗徒と争い堂宇の全てを
焼き払った。後に此れを悔恨して常将は自害、その夫人が追福のために
堂ヶ入りに寺を建て、後に山子田に移ったというのが柳沢寺。遂に見つ
からなかった息子・相満が相馬山に祀られて居る事から相馬山を
「相満山」という。
(1) 榛東村・柳沢寺
先ず、伝説の原点・柳沢寺に向う。県道26号線で広馬場・八ノ海道・新井
を通過して榛東村役場のある「山子田」を左折して道標に従って進むと間も
無く大きな「柳沢寺」駐車場。現在の寺の由来は伝説と史話が入り混じって
いるが十七世紀以降のものと考えられるとの事。

規模はかなり大きく、本坊の山門は通用門として開いているが、その隣の
「赤門」と称する「勅使門」は閉められたまま。

正面本坊には「船尾山」の山号。

右手を見ると巨大な五重塔、平成10年の建設なので不釣合いのキンキラキン、

そこを通過して更に右手に行くと山門や鐘楼の奥に本堂。

敷地内での伝説とのからみは「船尾縁起」解説板のみ。伝説では船尾山等覚院
柳沢寺観世音は九世紀から船尾山にあったとされ、常将夫婦もここに祈願して
相満を授かったと言う。勿論、戦乱で焼き払われたのはこの船尾山の柳沢寺で
あるが、その跡地は不明。
(2) 常将神社
柳沢寺の冠木門から隣の常将神社に向う。ここは神楽殿はあるもののひっそり
した場所。由来説明板が無ければ田舎の小さな神社。


千葉の地名の元にもなっている11世紀の豪族の終焉の地がここである事を
千葉県の人は知っているだろうか?
(3) 金剛寺
次ぎの予定は吉岡町東端の長松寺であるが、途中に宝篋印搭のある金剛寺
に寄った。勿論、今回の伝説には関係無いが。山子田信号に戻って一つ渋川
寄りの押しボタン式信号を右折して大藪地区の山手にある寺。不動堂一宇だけ
だが敷地から見て本堂と庫裏跡は杉林の中、裏手に多数の石祠があり往時の
規模が想定できる。

隣に八幡宮もある。宝篋印搭は室町初期のものらしいが花座と相輪が欠落
していて残念。

不動堂正面の指し鴨居にトタン板の宝剣・鳥居が奉納されている。

(4) 長松寺
ここからは一直線。高渋線を突っ切り、高速下を潜り駒寄せで上越線の線路
を跨ぐと直ぐに看板がある。ここも山門に金剛力士が控える大きな寺であるが、

伝説ガラミのものは横手にある「矢落ち観音」である。常将に攻められて焼け
落ちようとする僧坊から強力の僧兵が観音像を弓矢に括りつけて放ったところ
が、この辺で桑つみをしていた娘の笊の中に落ちてきたと言う。その観音を
祭ったのがこの「矢落ち観音」という伝説。別名「ざる観音」でざる市もあるとか。


この隣には「富士浅間社」がある。

一回りしたが、この「相満伝説」は謡曲などになっているとも聞いてないし、
何となく地元でも大事にされている感じは無い。柳沢寺にしても長松寺に
してもそれ自身が既に巨大であるので殊更に伝説を売り物にする必要も
無いかも知れない。それでも一寸気になっていた由来がわかったので
良しとするか。


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