クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

将門伝説を訪ねて H-19-4-8

2007-04-09 12:07:00 | 伝説・史跡探訪
埼玉の将門伝説の山を尋ねる事にした。勿論、将門が群馬・埼玉の境に近い
「矢納」で捕われたとの史実は無い。彼の時代の関東平氏の同族争いは
常陸国や下総国が舞台であるし、新王を名乗った後の政庁は茨城県・坂東市
である。それに平貞盛・藤原秀郷に攻められて最後は流れ矢に当って戦死、
其の首は京に晒されたのであって、城峰の「隠れ岩」で掴まったわけでも
ないのは承知の上だ。
午前中、投票に行ったり雑事を片付けてから先ず13号線で鬼石に向かう。
今日は初体験の331号線の入り口を探さなくてはならない。
462号線の諏訪から右折して神流湖に向かって3キロ程の看板多数の
ところに入り口発見(10.42)。

やがて県境に近付くと派手な色の「登仙橋」が見え、

手前には「三波石峡」の石碑。

センターラインもなく蛇行する狭い県道を進んで城峰公園分岐や
矢納フィッシングパークを過ぎると、ヘアピンカーブの所で町道に入る。
この道は山裾を激しく蛇行する道で分岐も多くて標示を見るのに神経が
疲れる。途中にピオトーブの森というキャンプ場風の所を通過(11.10)。


やがて右手にアンテナ展望台のある山が見えて一安心(11.24)。
最後に切り返しを乗り切って実に10キロも走って漸く「石間峠」着
(11.32)。
人気の場所らしく駐車多数。ここは四つ角で直進すれば1.2kで城峰神社、
東進は0.6k進んで鐘掛城址、本命の城峰山は右手の尾根0.5kを行く
事になる。

登りは穏やかな山道、木段もある遊歩道風を進むとアンテナが見え、

どうやら千客万来らしく賑やかな雰囲気。広場に到着(11.45)。
展望台広場とも感じる頂上には、1037.7mの一等三角点、頂上標識、
石宮、それに登山者多数。ここには将門の匂いは皆無。点名も城峰山。



座る場所も空いていないので展望台へ直行。前評判通りの360度の大展望。


8枚の大写真パネルを使った山名方位板があるので楽しめるが、群馬の山から
出たことは無い爺イには知らない山ばかり。それでも北側の名が知れた山を
パチリ。春霞とカメラの精度の悪さで余り良く写らない。

西御鉾山(左)と東御荷(右)

遥か遠くに赤久縄山

意外に大きいオドケ山

眼下に神流湖

ゆっくり休んでから神社を目指して南に急降(12.14)、岩角の
多い難所が続くので、こちらから登らなくて良かった。すぐに林道に
降り立つ(12.27)。

ここも四つ角、直進は南尾根コース、左からは表山道コースが来ている。
右折すると僅かの距離でキャンプ場先の神社到着。

鳥居脇に狛犬と思ったら一寸怖い山犬?目玉は金色、口の中は毒々しい赤、
牙剥き出しで耳が立っている。何の謂れだろうか。

神社の掲額に始めて見る将門の文字。

神社右手からも登山道があるようで、「隠岩」や天狗岩の案内表示もある。
取り敢えず隠岩の見物に行ったが垂直岩壁の鎖場をみて
あっさり断念。其の先にあるらしい天狗岩にも行かずに引き返す。

神社より立派に見えるキャンプ場のトイレ前で思わずニヤリ(12.58)。
標示が「男・女」ではなく「将門・桔梗」となっている。桔梗とは云わずと知れた
将門の愛妾とされる女性。勿論実在ではなかろう。

伝説では秀郷率いる追討軍に追われた将門は七人の影武者と共に隠岩で捕縛されたが
誰が本物かわからない。秀郷は愛妾の桔梗を拷問して将門の食事時の癖を聞き出して
将門を確認したと言う。怒った将門が「桔梗あれども花咲くな」と言ったために
この城峰に桔梗は咲かなくなったとか。勿論、将門はこの地に来ていないので伝承。
再び四つ角に戻って林道を石間峠に向かう。途中に表参道の分岐をみて

駐車場(13.18)。
直ぐに東進して鐘掛城址へ綺麗な登山道。ここは関東ふれあいの道。

一コブの先に小ピーク、乗り越えでも良いが巻き道道標があるので其方に進む。

回りきると登山口で急な木段が142段、キツイのに辟易して登りきると
展望僅かの山頂。


城峰山を含めてここは戦国時代の見張り台、秀吉の小田原攻めの
おり、北方から押し寄せた上杉・前田の大軍に一蹴され、其の後は廃城とか。

将門の伝説がどうして結びついたのかな?尤も関東は千年の昔から平氏が開拓した
地だから思い入れが強いのか。そう言えば頼朝時代も伊勢平氏に対抗するために
鎌倉に集結したのは全て関東平氏の末裔達だったな(13.33)。
さっきの城峰山が見えるだけの展望を確認してから奈良尾峠への道を
あとにする。

再び駐車場所の石間峠に帰り(13.53)、一服して帰途につく。帰りも
分岐で間違えそうになったりして町道から331県道、462の道を間違えて
鬼石市街地に入ってしまったので序でのことに足を伸ばして長瀞へ桜見物。
長瀞神社奥の駐車場は金五百円なり。

生憎、名物の桜は盛りを過ぎていたが人出は多い。

これも桜かな?いや、少し違う様だ。

一応色々見て回り、ごった返す土産物屋で思いっきりつまみ食いを
して岩畳へ。今年は水量が少なくて船遊びのコースも短縮されているというが
観光バスの団体も多くて中々の盛況。

景色を眺めてゆっくり休むが、こんな所に一人で来ている人など爺イ位のもの。
何となく雰囲気からはみ出しているのを自覚して長駆の帰途につく。
蛇足・
将門の評価は古代では朝敵、中世では崇敬対象、明治では再び逆賊視、戦後は
英雄化と揺れ動いている。
中世、天変地異を将門の祟りと懼れる民衆を静めるために神田明神に合祀され
、戦国時代には太田道灌や北条氏綱か崇敬し、家康も関ヶ原の際に必勝祈願をして
江戸総鎮守とされた。家光の時、勅使によって「将門は朝敵にあらず」とされ
汚名は漱がれたが、明治政府は再び逆賊として扱う。戦後は東北の雄・アテルイ
と共に朝廷の横暴に立ち向かった英雄として返り咲く。
尚、将門討伐の祈祷が行なわれたとの言い伝えによって建てられたのが
成田山・新勝寺、将門の子孫は勿論、生立ちの地・佐倉、政庁のあった
茨城・坂東市の人たちはここには参詣しないとか。昔の将門もの大河ドラマ
の出演者も新勝寺の節分豆まきを辞退したことがあるそうだ
ご参考http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuunihonshi/e/5e03a590ad443cbefc5e4acbc86a6191
写真は築土神社の将門肖像。


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9 コメント

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楽しく読んでいます。 (インレッド)
2007-04-09 18:44:26
城峰の将門伝説は作られた話だったのですか。直ぐそばに父不見山がありますが、あそこでは息子が山の上から逃れて行く将門を眺めていたと聞いています。このあたりではどうしてこのような将門伝説があるのでしょうか?。
お菊伝説楽しく読ませて戴きました。お菊さんに嫉妬をしたのは国峰城主の奥方で、蓑輪城主の妹?の方でしょうか?。
返信する
Unknown (クタビレ爺イ)
2007-04-09 20:38:40
コメント有難う御座います。
お菊に嫉妬した小幡氏の奥方は大方の人が
長野業政の娘としてありますが、業政が上野周辺の
小豪族達を管領のもとに束ねる政略として娘の
婚姻政策を採ったとするのが定説だからでしょう。
しかし、そうは書いても括弧書きで異説ありとしてありますので
確かな事は分かりません。当時の女性は記録ではただ
「女」としか書かれていないようですので。
将門伝説の父不見山の山名由来の件は良く知りません。
その様な伝説のある事は関東ふれあいの道のルートになっ
ていることで知っていましたが。
大体、伝説には妾腹の子が出てくるのが定番です。
小生は妾腹の子の名前が出てきたら只の伝説と割り切ります。その様な記録が残されている可能性が極めて低いからです。将門も「将門記」のみが唯一の手掛かりの千年前の人ですから。将門がもてたのは戦国から幕末までですから
多くの伝承を作り出した江戸文化の所産ではないでしょうか。
城峰神社には流石に将門伝説が看板になっていますが
隣の鐘掛城の方には伝説を否定する書き方をしていました。
いずれ、調べて見ます。
返信する
早速ご返答ありがとうございます。 (インレッド)
2007-04-10 19:35:57
クタビレ爺イ様
度々の質問で申し訳ありません。
武田信玄の武将で赤備えで有名な小幡氏は、国峰城主の小幡氏なのでしょうか?。私は民衆政治を行った、長野氏や上泉伊勢守は好きな武将ですが、それを裏切った小幡氏や真田氏はあまり好きではありませんでした、それでも奥方が長野氏の威光を借りて主人が留守の間に殺してしまうよでは、裏切りも仕方がないかなーと思いました。
菊池は以前探しましたが解りませんでした。国峰城は展望の良い城ですね。
小幡氏が滅びたあとその家来たちが伊香保に住み、温泉宿を経営したと言うのは本当でしょうか?。
返信する
回答になるか分かりませんが (クタビレ爺イ)
2007-04-11 11:48:45
小生、専門家ではないし、史実も歴史小説ネタも区別できないボケですので
確証はありませんが、以下ご参考までに。
赤備えは小幡の専売特許ではありません。武勇の武将が使ったために後世の
巷談で武勇の誉れとして喧伝されているもの。始まりは飯富虎昌と弟の山縣昌景隊
で後に「赤備え」は甲斐武田の代名詞。山縣隊はよく小説で「桔梗紋の旗印を
押したててー」と書くのが定石になっているが。武田家中の赤備えはこの他に
小幡信貞と浅利信種。津本陽の「武田信玄」の設楽ヶ原の件に「第一軍昌景隊に
続く第ニ軍は逍遥軒信廉、三番手は西上野小幡党のニ千余騎、赤旗・赤備えの
小幡関東衆は最精鋭の騎馬巧者。押し太鼓を乱打しつつ主将・小幡貞政は身辺に
雨注する弾丸をものともせず疾駆して馬防柵に肉薄するー」と書かれています。
多分、下敷きは甲陽軍鑑や信長公記のような戦記ものでしょうが、これらは今で
言えば歴史小説の類ですから割引必要。
さて、勝頼が天目山で虐殺された後、抜目なくかっての強敵・武田遺臣団に
ツバ付けたのが徳川の狸オヤジ。武田遺臣の山縣隊生き残りを徳川四天王の
井伊直政に預ける。直政はこれを機会に自分の部隊を赤備えで編成。
つまり、引き継がれたのは赤備えと言う軍団編成方法であって小幡の生き残りが
井伊隊の中核になったわけでもないらしい。其の上、この井伊の赤備えは
小牧・長久手で名を挙げ「井伊の赤鬼」として喧伝されたのである。
大阪夏の陣では眞田幸村隊が赤備えであったことは映画などでもお馴染み。
話しを変えて長野氏のこと。
高潔の善政で有名な長野業政、もし当時の関東管領・上杉が憲政という愚鈍者で
なかったらもっと大きくなっていたかも。残念ながら中級武将で終わってしまった。
戦国初期の関東の戦は互いに対陣して武威を見せ合い、余り殺し合いをせずに
和睦するのが通例であったのに、越後や甲州勢の、人を虫けらの如く殺戮する
侵入者に対して西上州の小豪族達は領地を安堵してくれる方に味方すると言う
処世術を編み出した。武田が来れば武田の旗をふり、北条が侵入すれば直ぐに
寝返り、謙信が来れば尻尾を振る。それでなくては生きられなかったのである。
小生はそれを裏切りとは考えていません。裏切りなどは後世の儒教や朱子学の
徳川時代の感覚であり、当時は領地安堵のためには何でもありが、正しい選択と
思います。外敵の侵入に対して主家筋が守って呉れないからです。
軍門に下ると二つのオツトメがありました。人質を出す事と元主筋との戦闘では
一番消耗の激しい先鋒を務める「先方」になる事です。小幡も真田も武田軍の
先方として箕輪勢と闘わされました。眞田は今の大河ドラマでも判る様に
旧領眞田の庄への帰巣意識が異常に高く、それを保証してくれた武田への
従属は極く自然と思われます。一方の小幡は業政が小幡図書の讒言を信じて
信貞を国峰城から追放したのが間違いで、武田を頼って落ち延びた信貞が
後日、武田の先方として逆襲し国峰を取り返したのものなので、裏切りではなく
領地安堵の為に最善策を取っただけ、寝返りとも言えないーー。
尚、小幡遺臣の伊香保移住説は伊香保の郷土史家で観光ガイド協会会長のTストア
の御当主に聞いた限りではその伝承は無いとのこと。但し、主家滅亡で浪人しても
武士を捨てないとは江戸時代のことで、戦国での下級将兵は元々が農民ですから
容易に帰農した筈ですので、何処にもある落人の行先が伊香保と言うのは
十分有り得ます。只、伝承が残っていないだけでしょう。

返信する
大変有難うございました。 (インレッド)
2007-04-11 15:07:50
お忙しいところ、大変ありがとう御座いました。良く解りましたが、「人問はば、花は桜木、人は武士」と良く言われます。やはり駄目な関東管領でも最期まで仕えて散った。長野氏や松井田城主たちは大変立派だったと思います。ただ、どうして上杉氏は援助してくれなかったのか、残念です。六日町あたりからならそれ程遠くはないと思うのですが。
返信する
追記 (クタビレ爺イ)
2007-04-11 21:33:57
追記
上杉憲政が氏康に圧迫され、嫡子を平井城に置き去りにして越後に逃亡したのが1552年、公方候補の近衛某が一緒ですから丁重な歓待を受け、戦の事も息子の事も知らん顔。管領職を譲ると口約束したのが1557年、公式の譲り渡しは1561年ですから此の間は管領不在。
西上州は業正一人が踏ん張っていた。小幡信貞が信玄の
力で国峰城を奪還したのが1560年、この時に安中・松井田城も攻撃を受けていますが、松井田城主は未だ小城で名前も「小屋城」城主は安中忠政。1561年に長野業正が亡くなり若年の業盛の時代になると武田の執拗な長野攻めが始まり、眞田幸隆も長野氏を見限って信濃に脱出。
この年は戦史に名高い第四次川中島の戦い。武田信繁や
山本勘助戦死。越後も西上州には手が回らない時期に入る。
諸説が乱れて判然としないが、1564年に倉賀野城陥落、1565年小屋城・安中城陥落、1566年に箕輪城の終焉。松井田城が勇名を馳せたのはずっと後年の
1590年の事、当時既に北条の城であった松井田城主は
北条の武将大道寺政繁。氏康・氏綱・氏直の三代に仕えた
重臣、城を再構築し名前も松井田城に変え秀吉の
小田原攻めに参陣する前田・上杉景勝軍を迎え撃って奮戦して、1ヶ月持ちこたえるも降伏し、今度は北陸軍の小田原への案内役に豹変。
小田原戦の後、この行為が卑怯な振る舞いとして秀吉から切腹させられる。
この時、助命に奔走して失敗した前田利家は政繁の嫡子を仕官させて居る。
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戦国武将も生きていくのが大変だったのですね。 (インレッド)
2007-04-12 20:08:12
ご丁寧なコメント有難うございました。また 度々訪問いたしますので、宜しくお願い致します。
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インレッドさんへ 将門伝説 (クタビレ爺イ)
2007-04-23 20:12:00
念の為、「将門記」を下敷きにしたと思われる海音寺
潮五郎の「平将門(上)(中)(下)」で城峰山の将門
伝説に引っ掛りそうな記述があるかを調べました。
結果として将門死後に次弟・将頼が武蔵北西部の
山間に篭もって再挙を計ったが討伐されたと、たった
一行ですがありました。
嫡子はやはり将門の死後、三弟の将平が居た陸奥へ
郎党・員経に伴われて落ち延びた事になっています。
それに桔梗なる側室も最後まで生き延びた事とされて
います。
良くは判りませんが、これらが城峰神社や父不見山の
伝説に関係するのかも知れません。
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良く解りました。有難う御座います。 (インレッド)
2007-04-24 21:44:13
爺イ さん 有難う御座いました。
大変良く解りました。また暇を見て、このあたりを
歩いて見ようと思います。
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