先日からの石碑つながり。群馬の石造物の話になると、「高遠の石工」と言う
表現を目にする。江戸時代に信州・高遠藩が苦しい藩の財政を補うために農家
の次男・三男に石切や石像彫刻の技量を習得させ「旅稼ぎの石工」として
各地に派遣して稼ぎの一部を冥加金として上納させた史実がある。
この出稼ぎ石工たちが西毛地区で多くの優れた作品を残し、地元の石工達も
それに倣ったので群馬は石仏の宝庫になったと言う事らしい。
高遠石工の詳細は別記する事として取りあえず、近場にある高遠石工の作品を
順次、辿る事にした。高崎旧市内に確認されている彼らの署名入り石像物は
72基。
第一日は別件で何度も行った事がある寺尾の永福寺。
城南大橋を渡って通称「やまびこ街道」を東進して永福寺の下の駐車場。
ほんの僅か坂道を登ると左から「表参道」の石段が来ているので一旦表参道を降りる。
そこに多くの石造物。
(1)文字は不明だが庚申文字塔 資料どおり寛文11年(1671)とすればとてつもなく
古いもの。芭蕉や光圀の時代だ。
(2)隣も不明の庚申文字碑、下部に低い姿勢で向き合う「二猿」がはっきり。
(3)下部が埋没した庚申塔、寛政12年(1800)。伊能忠敬が蝦夷地測量をした年。
(4)同じく庚申塔、元禄11年(1698)。赤穂義士討ち入りの四年前。
下部に向かい合う「二猿」。
(5)同じく庚申塔、享保2年(1717)。大岡忠相が町奉行に登用された年、勿論将軍は
お馴染み第八代の吉宗。下部に「三猿」。
(6)六臂の青面金剛、元禄11年(1698)。(4)と同年。
(7)合掌の地蔵像、顔の部分が潰れている。
(8)子育て地蔵、左手に嬰児を抱え右手に宝珠。安政7年と記録にあるが安政は
6年までなので多分万延元年(1860)、桜田門外の変の年でもあるし徳川斉昭
(慶喜の実父)が没している。
(9)六臂の青面金剛、寛保元年(1741)。吉宗の政策で青木昆陽などが植物学者。
(10)馬頭観音、「馬頭大士」と刻まれている。寛政9年(1797)。ロシヤ兵の
エトロフ上陸。
(11)地蔵坐像、下部に「園寂」とあるがその下は埋没。
(12)一通り見終わって再び参道の石段を登ると山門手前に小さな馬頭観音。
(13)山門を潜って直ぐ左の木製の祠の中に二体。
右のは薬師坐像、左手に薬壺、右は親指と人差し指を丸め、あとの三本を
伸ばして膝に置いている。
左の像が判らない、風貌から若しかしてとも思うがあの婆さんが薬師と同席は
ないかな?
(14)右手を見ると立派な鐘楼、この梵鐘は1727年の市指定重文。戦時中の供出運動も
免れた一品。
(15)その梵鐘の撞き座。かつて爺イはこの周辺が南朝由来の地であるし、菊水を
家紋にしていという家もあると聞いて、この撞き座を「菊水」だとブログに書いて
しまったがどうも間違いらしい。良く観察すると十二葉の単弁、撞座の中心円から
発する三十四本の花糸は外弁の内側に二重に巡らされている同数の顆粒を
結んでいる。
(16)再び左手に向かうと観音堂らしきお堂。
(17)中は北向き観世音菩薩。
(18)墓地方面に向かうと築山の中に多数の仏像。
(19)いよいよ目的の高遠石工作・六地蔵の前に来る。
(20)全体の並び姿、花台が前面に設置されていて台座が良く見えないが、
この六地蔵は高名な「保科増右衛門」が仏像を、「保科徳次郎」が台石を担当した
珍しい名人二人による合作である。石工たちはあくまで農民、最初は「増右衛門」
などと名前だけだった。そして出稼ぎを奨励したのに藩の縛りもきつく、
「石切人別帳」に記載され期日までに帰らないと名主の責任、その上に年貢・
使役はつつがなく勤めさせられた。ただ、藩の財政の都合で50両で苗字、100両で
帯刀を許したらしい。
従って石工は段々苗字を名乗るようになり、遂には農民の「徳次郎」さんは
「保科徳次郎吉清」となる。
(21)向かって右端の二体。右は合掌、左は数珠。
(22)中央の二体、右は天蓋、左は柄香炉。
(23)向かって左の二体、右は左手に宝珠、右手に錫杖。
左は仏幡(仏教祭祀の道具)
(24)墓地入り口に向かうと右手に「懸衣翁」。最初は閻魔様かと思ったが
合掌しているので多分違う。
(25)並んで小さな六地蔵、よく見ると顔つきが微妙に違う。
(26)側に立像で地蔵様。
(27)反対側に懸衣翁の相棒の「奪衣婆」、「間もなくお世話になります」と
丁重にご挨拶。
(28)前掛けの新しい六地蔵。
(29)そして地蔵像。
(30)隣に石幢、禽部は六角で六面に地蔵。
これで一回り終了、ついでの事にここの墓地にある新田義重の墓所を訪問。
爺イはこのへそ曲がりの武将が御贔屓でかつてこんな戯れ文をブログに載せた
こともある。
そのブログはこちらから
墓地中央の道を一気に山上へ上りあげると「歴住の塔」に突き当たる。
その前を左折すると平成19年に整備された義重の墓所。
かつてのこの姿のほうが拗ね者の義重に見合っていたのに、近代化は屡無粋な
事をする。
本日は終了、次回は清水(せいすい)寺を訪問予定。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
表現を目にする。江戸時代に信州・高遠藩が苦しい藩の財政を補うために農家
の次男・三男に石切や石像彫刻の技量を習得させ「旅稼ぎの石工」として
各地に派遣して稼ぎの一部を冥加金として上納させた史実がある。
この出稼ぎ石工たちが西毛地区で多くの優れた作品を残し、地元の石工達も
それに倣ったので群馬は石仏の宝庫になったと言う事らしい。
高遠石工の詳細は別記する事として取りあえず、近場にある高遠石工の作品を
順次、辿る事にした。高崎旧市内に確認されている彼らの署名入り石像物は
72基。
第一日は別件で何度も行った事がある寺尾の永福寺。
城南大橋を渡って通称「やまびこ街道」を東進して永福寺の下の駐車場。
ほんの僅か坂道を登ると左から「表参道」の石段が来ているので一旦表参道を降りる。
そこに多くの石造物。
(1)文字は不明だが庚申文字塔 資料どおり寛文11年(1671)とすればとてつもなく
古いもの。芭蕉や光圀の時代だ。
(2)隣も不明の庚申文字碑、下部に低い姿勢で向き合う「二猿」がはっきり。
(3)下部が埋没した庚申塔、寛政12年(1800)。伊能忠敬が蝦夷地測量をした年。
(4)同じく庚申塔、元禄11年(1698)。赤穂義士討ち入りの四年前。
下部に向かい合う「二猿」。
(5)同じく庚申塔、享保2年(1717)。大岡忠相が町奉行に登用された年、勿論将軍は
お馴染み第八代の吉宗。下部に「三猿」。
(6)六臂の青面金剛、元禄11年(1698)。(4)と同年。
(7)合掌の地蔵像、顔の部分が潰れている。
(8)子育て地蔵、左手に嬰児を抱え右手に宝珠。安政7年と記録にあるが安政は
6年までなので多分万延元年(1860)、桜田門外の変の年でもあるし徳川斉昭
(慶喜の実父)が没している。
(9)六臂の青面金剛、寛保元年(1741)。吉宗の政策で青木昆陽などが植物学者。
(10)馬頭観音、「馬頭大士」と刻まれている。寛政9年(1797)。ロシヤ兵の
エトロフ上陸。
(11)地蔵坐像、下部に「園寂」とあるがその下は埋没。
(12)一通り見終わって再び参道の石段を登ると山門手前に小さな馬頭観音。
(13)山門を潜って直ぐ左の木製の祠の中に二体。
右のは薬師坐像、左手に薬壺、右は親指と人差し指を丸め、あとの三本を
伸ばして膝に置いている。
左の像が判らない、風貌から若しかしてとも思うがあの婆さんが薬師と同席は
ないかな?
(14)右手を見ると立派な鐘楼、この梵鐘は1727年の市指定重文。戦時中の供出運動も
免れた一品。
(15)その梵鐘の撞き座。かつて爺イはこの周辺が南朝由来の地であるし、菊水を
家紋にしていという家もあると聞いて、この撞き座を「菊水」だとブログに書いて
しまったがどうも間違いらしい。良く観察すると十二葉の単弁、撞座の中心円から
発する三十四本の花糸は外弁の内側に二重に巡らされている同数の顆粒を
結んでいる。
(16)再び左手に向かうと観音堂らしきお堂。
(17)中は北向き観世音菩薩。
(18)墓地方面に向かうと築山の中に多数の仏像。
(19)いよいよ目的の高遠石工作・六地蔵の前に来る。
(20)全体の並び姿、花台が前面に設置されていて台座が良く見えないが、
この六地蔵は高名な「保科増右衛門」が仏像を、「保科徳次郎」が台石を担当した
珍しい名人二人による合作である。石工たちはあくまで農民、最初は「増右衛門」
などと名前だけだった。そして出稼ぎを奨励したのに藩の縛りもきつく、
「石切人別帳」に記載され期日までに帰らないと名主の責任、その上に年貢・
使役はつつがなく勤めさせられた。ただ、藩の財政の都合で50両で苗字、100両で
帯刀を許したらしい。
従って石工は段々苗字を名乗るようになり、遂には農民の「徳次郎」さんは
「保科徳次郎吉清」となる。
(21)向かって右端の二体。右は合掌、左は数珠。
(22)中央の二体、右は天蓋、左は柄香炉。
(23)向かって左の二体、右は左手に宝珠、右手に錫杖。
左は仏幡(仏教祭祀の道具)
(24)墓地入り口に向かうと右手に「懸衣翁」。最初は閻魔様かと思ったが
合掌しているので多分違う。
(25)並んで小さな六地蔵、よく見ると顔つきが微妙に違う。
(26)側に立像で地蔵様。
(27)反対側に懸衣翁の相棒の「奪衣婆」、「間もなくお世話になります」と
丁重にご挨拶。
(28)前掛けの新しい六地蔵。
(29)そして地蔵像。
(30)隣に石幢、禽部は六角で六面に地蔵。
これで一回り終了、ついでの事にここの墓地にある新田義重の墓所を訪問。
爺イはこのへそ曲がりの武将が御贔屓でかつてこんな戯れ文をブログに載せた
こともある。
そのブログはこちらから
墓地中央の道を一気に山上へ上りあげると「歴住の塔」に突き当たる。
その前を左折すると平成19年に整備された義重の墓所。
かつてのこの姿のほうが拗ね者の義重に見合っていたのに、近代化は屡無粋な
事をする。
本日は終了、次回は清水(せいすい)寺を訪問予定。
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お尋ねの件、お答えいたします。
出典は平成13年3月「高崎市石仏研究会」発行の
「高崎市の近世石像物総集編」P-163です。
この冊子は多分非売品で図書館でした見られないと
思われるのでその項を改めて当ブログのページ下段に写真にして載せました。
尚、この記事は断定の形ですが出典の記載が在りませんので小生のブログでは「ーー許したらしい」と
書いて断定の形を避けておりますので念の為
ご確認ください。
教えて頂きたいことは、高遠の石工が苗字帯刀を買い取った話はどこから入手されたのかということです。それが書かれた資料、図書等が在りましたら是非教えて頂きたく、宜しくお願いします。
増田